『星のみんぞくかん』》 はこんなところ

◇『星のみんぞくかん』 とは?

 みなさんは、宇宙について関心がありますか?そして、夜空にかがやくたくさんの星を見たことがあるでしょ うか?どこで、どんな星空を見たのか、思い出してみてください。
 星空の記憶は、たぶんだれの心にものこっているはずです。「ああ、きれいだなぁ」「こんなにたくさんの星 があるとは思わなかった」「流れ星に願いごとをしよう!」など、人それぞれに、たくさんの思いがうかんでく るはずです。
 それは、みなさんの、おじいちゃんやおばあちゃんがまだ子どもだったころも同じです。ただ、昔の人たちは 星空をながめて、もっといろいろなことを考えていたようです。とくに海で魚をとったり、田や畑で作物をつく る人たちは、東の空から出る星や西の空にしずむ星、そしていろいろな色や形の星があって、どんなふうに動く のか、だんだんと注意して見るようになりました。
 やがて、たくさんの星のなかで、毎日の暮らしや仕事にとって役にたつものがみつかると、その星に名前をつ けてよぶようになりました。もちろん、名前のつけ方は人によってちがうので、日本中でたくさんの星の名が生 まれることになったのです。
 ところが、生活が便利になると、人びとはもうほとんど星空を見上げることがなくなってしまいました。星の 名前も言い伝えも、どんどん忘れられていくばかりです。そこで『星のみんぞくかん』では、今から40年くらい 前に調査をはじめました。そうして集められた記録をもとに、1996年からインターネットのなかの資料館として 日本の人と星(宇宙)のかかわりを紹介しています。

 

日本で生まれた星のイメージ

◇ みんぞくかんの展示を見よう!

 昔の人たちは、いったいどのような気持ちで星や月や太陽を見ていたのでしょうか。それは、星に名前をつけ るためではありません。星をたよりにして、さまざまなことを学んでいたのです。名前をつけるのは、どのよう な星かを皆がわかるようにするためでした。大切なことは、人びとが星をどのように利用していたかということ です。その大事なヒントが『星のみんぞくかん』のなかにあるのです。
 これから紹介するいろいろなお話から、昔の人びとの暮らしや仕事について、みなさんにもぜひ考えてほしい と思います。そこに、わたしたちが自然と向き合うときの答えを見つけることができるでしょう
 長い長い歴史のつながりのはしに、今みなさんは生きているということを忘れないでほしいと思います。展示 の内容は、左のメニューから選んでください!

調査をおこなった地域

 調査は、北海道から沖縄県まで全国を歩いていますが、まだ行っていないところがたくさんあります。地図の なかの赤色の地域は、記録がたくさんあるところで、空色の地域は少ないところです。関東やそのしゅうへんを 別にすれば、おもに海辺の地域で話を聞いたことになります。

日本の星のなまえ 2022/08/25

暮らしと星空

【 星空の時計とカレンダー 】
 太陽は、毎日東の空から上り、昼の間は南の空を動いて、夕方になると西の空にしずみます。やがて、夜にな れば数えきれないほどの星たちが同じように東から上り、さらに南から西へと動いていきます。星が出てくる時 間は、毎日少しずつ早くなるので、季節がうつると星の見え方も変わってきます。
 それでは、ちょっと北の空をのぞいてみましょう。星はどんなふうに動いていますか?時計の針と反対の方向 にまわる星たちが見られるはずです。星の動きは空の場所によってちがいますが、それをたどってみるとどれく らい時間がたったのかわかります。

北の空をめぐる星の動き
(撮影:三上幸彦氏)

 このように、時計のない時代の人びとは、昼には太陽を夜は星を見ることでだいたいの時刻を知ることができ たのです。それからもう一つ、みなさんは季節によって見られる星座がちがうことを知っていますよね。星空は、 大自然のカレンダーでもあります。春・夏・秋・冬それぞれの季節を代表する星座が、たいせつな役わりをもっ ているのです。

【 星空のコンパス 】
 みなさんは、どこにいても正しい方角がわかりますか?太陽や月が出ていれば、その動きを見て東や西がわか るでしょう。でも、もし空いっぱいの星空だったとしたら、どうしますか?そんなとき、昔の人びとは「この星 は北の方角、あの星は南の空に見える」というように、目あてにした星がありました。とくに広い海の上では、 方角がわからなければ船を進めることもできません。星はとても大事なコンパスだったのです。

【 星に名前をつける 】
 このように、昭和という時代の初めころまで、日本では漁師さんや農家の人、山で暮らす人などが星をたより に生活していました。畑や田んぼで作物を作ったり、海や川で魚をとったりするためには、季節のうつり変わり を知ることが大事です。そこで、色や星のならび方、見える方角などでとくに目についた星をみつけ出し、観察 していたのです。そして、草や木や虫などと同じように、星にも名前がつけられるようになりました。
 それらは、わたしたちの暮らしのなかにある身近なことばや物におきかえたもので、覚えやすい名前がほとん どです。もちろん、たくさんの人が目あてにした星にはいろいろな見かたがあるので、さまざまな名前がつけら れました。でも、目あてにされなかった星には、ほとんど名前がありません。。


日本で生まれた星の名前

 夜空の星というと、みなさんはすぐに夏のさそり座や冬のオリオン座、それに北の空にある北極星とそれをめ ぐるおおぐま座、カシオペア座などを思いうかべるかもしれません。それらは、西洋で生まれた星座の名です。
 日本では、中国から伝わってきた星の名が使われてきましたが、それらとは別に江戸時代から明治、大正、昭 和の時代にかけて、たくさんの星のよび名が生まれました。みなさんがよく知っている西洋の星座は、夜空を88 の区画に分けていますが、日本の星の名はまったくちがう発想から生まれたもので、よく似た名前を含めるとお そらく1000種類以上はあるでしょう。なぜ、こんなにたくさんのよび名があるのでしょうか?それは、日本のさ まざまな場所で、たくさんの人たちがそれぞれ自由に名前をつけてしまったからなのです。したがって、一つの 星あるいは星の集まりが、いくつものよび名をもっているのがふつうです。これらのなかには、日本の各地で使 われた名もありますが、ほとんどはそれが生まれた場所やそのまわりの地域だけで使われてきました。そして、 大事なことはたくさんの星の名が親から子へ、あるいはお年寄りから若者へと口伝えで受けつがれてきたのです。
 星座別にみると、オリオン座の三つ星とその周りの星、おうし座のプレアデス星団では、各地でたくさんの名 前が記録されています。ということは、これらの星が地域にかかわりなく、多くの人たちによって注目され、利 用されてきたことを示しています。

《 三つ星とスバル 》

オリオン座の三つ星
オリオン座のほぼ中心にあるミツボシ。下のほうにある小さな三つの星はコミツ ボシとよばれ、これらをあわせた星の形は少しゆがんだ四角形になり、やはりたくさんの名前をもっています。
おうし座のスバル
よく知られたスバルも日本の星の名前です。これはプレアデス星団という星の集 まりで、上の図のような形をしています。じっさいの星空では、小さくぼんやりと見えますが、三つ星とともに、 たくさんの名前をもっています。

 ところで、みなさんが住んでいるのはどんなところでしょうか。大きな街のなかですか?それとも、家のまわ りに田んぼや畑があったり、近くに川や海があるかもしれません。そういう環境のちがい、あるいはそこに暮ら す人びとがどんな仕事をしているのかによって、星のよび名は変わるのです。
 これまで、全国で調べたおうし座のプレアデス星団について、おもによばれていた名前を地図にまとめてみま した。同じ星でも、地域によってさまざまなよび名があることに気づくでしょう。


プレアデス星団の星名分布
※スバルやスマル系の名が広い地域で使われていたことがわかります



日本の星の名をおぼえよう!

 日本で生まれた星の名前は、いくつかのグループに分けられます。それは、星の数であったり、色や大きさ (明るさ)であったり、また星のならび方なども区別するのにたいへん便利な方法です。そのほか、昔の生活 や仕事で使われたさまざまな道具なども、星の名前になりました。ここでは、おもなグループごとに星の名を 紹介しますので、みなさんもじっさいの星空を見て、その名前が生まれたわけを考えてみましょう。

【 星の数や形による名前 】

 ヒトツボシ[一つ星] 一つだけ目だつ星といえばこぐま座の北極星と金星ですね
 フタツボシ[二つ星] 二つの星がなかよく並んでいます
 ミツボシ[三つ星] 三つ並んだ星はよく目につきます
 ヨツボシ[四つ星] 形や大きさはいろいろです
 イツツボシ[五つ星] 五つの星がおもしろい形を示します
 ムツボシ[六つ星] 星の並びかたと小さく集まったようすに注目しましょう!
 ナナツボシ[七つ星] 七つといえば、とにかく北斗七星が有名ですね
 シカクボシ[四角星] 四角形の星のなかでもっとも親しまれているのは「からす座」です
 サンカク[三角] おおいぬ座にある三角形の星はとてもわかりやすい形です

北極星をはさんで北斗七星(ナナツボシ)の反対側にあるのが
カシオペア座で、星の数からイツツボシとよばれていました

 

四角形の星と三角形の星

【 星の色や大きさ(明るさ)による名前 】

 アオボシ[青星] 青または青白い色(かがやき)をした星です
 アカボシ[赤星] 夜空に光る赤い星はよく目だちます
 シロボシ[白星] ほかの星よりも白くみえる星があります
 オオボシ[大星] どの星よりも大きくて明るい星にぴったりです
 ミョウジョウ[明星] かがやきの大きさに注目した名前です

細い月といっしょにひときわ大きく輝く金星は
ヨアケノミョウジョウとして親しまれています

【 ユニークな星の名前 】

 カワハリボシ カワハリの「皮張り」は動物の皮をひろげたようす
 カンムリボシ かんむり座の冠ではなく観音さまの頭に注目しましょう!
 アシアライボシ 山里ではこの星を見て足を洗う人たちがいました
 ノトボシ 日本海につき出た能登半島(下の地図)にちなんだよび名です
 ショウギボシ ショウギは炭焼きで使うフルイのなかまです
 ユウバンマンジャーブシ 夕空の金星が夕飯を欲しそうに見ているようすを表しています

若狭地方で能登星[ノトボシ]とよばれるぎょしゃ座のカペラは、佐渡島に渡る と矢崎星[ヤザキボシ]という名前になります。どちらの漁師さんにとっても、イカや魚をとるた目あてとなる 大切な星でした

【 星の名をもつ生きもの 】

 星の伝承をさがして全国を歩いているうちに、それまで全く関心をもたな かったことに気づかされました。千葉県の浦安という漁港で、漁師から聞いたミツボシというカニのことです。 身近な生きものと夜空の星が、どこかでつながっていたのです。意外な発見におどろき、それからは各地を訪ね るたびにいろいろな生きものの話を聞くことにしています。
 とくに、海の生きものには、からだのとくちょうや生活するようすなどからつけられたよび名が多くみられま す。そこで、みなさんにはあまり知られていないカニのなかまを紹介しましょう。

◇ ジャノメガザミ
 このカニは、ワタリガニ科というなかまの一種で、日本では秋田県から南の海にいるようです。そのとくちょ うは、何といっても背中にある三つの大きなもようで、これほど鮮やかで目立つものは、そう多くはありません。 普通はモン(紋)ガニとかモンツキ(紋付)ガニとよばれているようですが、関東地方や静岡県などでは大きな 紋を三つの星と見て ミツボシあるいは ジョウトウヘイなどとよんでいます。これは、それぞれの地域の星 の名前が、生きもののよび名にもなっているのです。

ジャノメガザミのもよう 調理で赤くなったもよう

ジャノメガザミのよび名 〈 2019/08/25 〉

伝承地域 ミツボシ ジョウトウヘイ そ の 他
 秋田県由利本荘市 ホシガニ[*1]
 秋田県にかほ市 (モンツキガニ)
 千葉県九十九里町
 千葉県いすみ市
 千葉県館山市
 千葉県鋸南町 (モンガニ)
 千葉県船橋市
 千葉県浦安市
 神奈川県二宮町
 神奈川県横須賀市 (モンツキ)
 福井県美浜町 (モンガニ)
 静岡県西伊豆町 (ムグリガニ)
 静岡県沼津市
 静岡県富士市
 静岡県静岡市
 静岡県焼津市
 静岡県牧之原市
 愛知県蒲郡市 (サンモンガニ)
 愛知県西尾市 サンコウサン[*2]
 愛知県常滑市
 愛知県南知多町 (モンガニ)
 三重県鈴鹿市
 三重県紀北町 (モンガニ)
 三重県鳥羽市
 大阪府泉佐野市
 大阪府阪南市 ヘイタイ[*3]
 和歌山県和歌山市 (モンガニ)
 岡山県倉敷市 (モンツキ)
 山口県宇部市 (モンガニ)
 徳島県小松島市 (モウガニ)
 徳島県鳴門市 (モンガニ)
 香川県東かがわ市 (モンツキ)
 愛媛県今治市 (モンガニ)
 高知県香南市 (モンガニ)
 福岡県北九州市 (モンガニ)
 福岡県糸島市
 福岡県吉富町
 熊本県天草市 (モンツキガニ)
 大分県宇佐市 (モンガニ)
 宮崎県延岡市 ミツボシガニ ホシガニ[*1]
 宮崎県門川町 ミツボシガニ
 宮崎県川南町 ミツボシガニ
 宮崎県日南市 (モンツキ)
 鹿児島県阿久根市 ホシガニ[*1]

[*1] ホシガニは星ガニの意です
[*2] サンコウサンは三光(日月星)を意味します
[*3] ヘイタイはジョウトウヘイと同じ見方で星三つの徽章に由来します

◇ 星になった生きもの
 日本の星の名前となった生きものは、それほど多くはありませんが、わたしたちにとって身近 な動物がほとんどです。たとえば、大阪府の漁港では ガニメといって、ふたご座の二つならんだ星をカニの眼と見ていま した。そのほかにも、同じふたご座でカザエイ(エイの一種)やネコノメボシ(猫の眼星)などが報告されてい ます〔文0208・0211・0248〕。どれも動物の眼にたとえたよび名で、なるほどと思えます。
 また、カリマタ(雁股)という星の名からは、夜空をとぶ雁の群れを思いうかべることができますし、春をつ げるハトボシ(鳩星)は、季節がうつるのを感じさせてくれるよび名です〔文0049〕。同じ春の星座でも、から す座にはカワハリボシ (皮張り星)というよび名があり、これはムジナ(たぬき)の毛皮をひろげて干す姿をイメージしたもので、少 し生々しい雰囲気をもっています。でも、そこには山で暮らす人たちの生きものに寄せる思いが込められている のです。

たぬきの毛皮がカワハリに! 星になったカニの眼


そのほかにどんな星の名があるのか知りたい!

星のみんぞくかんで記録した星の名は、下の表からさがせます。

あ行 か行 さ行 た行
な行 は行 ま行 や・ら行

※もっとくわしく調べたい人は こちらの展示室の『暮らしと星の名』へどうぞ


◎「日本の星のなまえ」にもどる◎

仕事と星のはなし 2022/08/25

星を見てイカを釣った人びと

【 昔のイカ釣り 】
 イカというと、みなさんも寿司や刺身、燻製[くんせい]などでおなじみの生きものですね。今では、日本の まわりばかりでなく、遠い海のイカも食べるようになりましたが、60年くらい前にはそのほとんどがスルメイカ という種類でした。最近は、生きたままのイカを送ってくれるサービスもあるようですが、それにしてもこれら のイカはどのようにつかまえるのでしょうか。
 日本の周辺では、7〜8種類のイカがとられていますが、その時期やとり方は種類によってちがいます。ふつ うは、イカバリとよばれる道具で釣り上げますが、カゴを沈めてとったり、ほかの魚といっしょに網でつかまえ る場合もあります。でも、昔のイカといえばまずスルメイカのことで、名前のようにほとんどが干しあげてスル メに加工されていました。ここでは、イカ=スルメイカのこととして話を進めたいと思います。
 イカは、夜行性の生きものです。おもに夜活動するので、イカを釣るのは暗い夜の海がほとんどです。ただ、 ヤリイカのように昼間に釣り上げる場合もあります。今のイカ釣りは漁船が大きくなり、とくべつな光を放つ照 明や自動で糸を巻く機械が使われていますので、星を見てイカを釣るという時代ではありません。また、昔のよ うなイカ釣りのようすを覚えている漁師も、ほとんどみられなくなりました。
 さて、夜のイカ釣りがはじまったのは、15世紀の室町時代と考えられていますが、各地でさかんに行われるよ うになったのは明治時代に入ってからです。その後1950年ころにかけては、北日本においてたいせつな漁業の一 つでした。そのころは、手こぎの船に数人が乗りこみ、いくつかの道具をたくみにあやつってイカを釣っていた のです。まっ暗な海でどうやって釣るのかというと、イカは光に集まる性質をもっていますので、古い時代はか がり火、その後はカーバイトやガス灯などが使われ、現在はたいへん明るいとくべつな電球を使います。
 日本海では、春から夏にかけてまだ小さなイカの群れが北上し、9月を過ぎると大きくなって南下するという 動きを毎年くり返していました。そこで、北陸地方の沿岸や新潟県などから多くの船が出てイカを追い、漁を続 けたのです。こうしたイカ釣りが、やがて青森、秋田、山形、岩手、宮城などの各県に伝わり、最後は北海道南 部の沿岸域にも広がりました。北海道では、よその県から移り住んでイカ漁をしていた漁師がたくさんいて、道 具や釣り方とともに星の伝承もいっしょに伝わったと考えられています。

 

イカ釣り道具を持った昔の漁師たち
※ こうした道具を使って星を目あてにイカを釣っていました

【 どんな星を見ていたの? 】
 イカは、夜の海で深さを変えながら泳いでいるといわれます。ですから、漁師も夜どおし釣っていたわけでは なく、何度も道具をとりかえたり、途中で休んだりしていました。夜空では、東から上った星たちが次々と西の 空へ動いていきます。そして、いつのころからか漁師たちはめぼしい星たちに名前をつけ、その星が東から上る ときにはイカが釣れると言い伝えてきたのです。
 このようなイカ釣りの目あてにされた星たちのことをヤクボシといいますが、それはおもに次の5個の星ある いはグループです。

 @ おうし座のプレアデス星団(スバル)
 A おうし座のヒアデス星団またはアルデバラン
 B オリオン座の三つ星
 C おおいぬ座のシリウス
 D 夜明けの明星(金星)

夜空につらなるイカ釣りの星
冬空のおもな星たちが大切な目安として利用されました。なお
オリオン座の三つ星は、ほぼ真東からたて一列になってあらわれます

【 各地の星の伝承 】
 ヤクボシの伝承が多く記録されているのは、日本海側では北陸地方から北海道にかけて、また太平洋側では宮 城県から北海道にかけての沿岸です。それぞれに星のよび名がのこっていますが、なかには別な星にまったく同 じ名前が伝えられているケースもみられます。これらのほとんどの地域で、プレアデス星団と三つ星についての 伝承がある一方で、アルデバランやシリウスについては伝承がとだえてしまったところもあるようです。またヤ クボシの利用は、北国ではイカ釣りがさかんになる初秋から初冬にかけての季節にかぎられます。
 それでは、イカ釣りの漁師がどのように星をあてにしていたのか、各地で聞いた話を少し整理してみましょう。 漁師たちの眼は、星の動きをきちんととらえていました。
* 5月から6月の間は星の出がおそいので、8月からヤクボシをあてにするようになった 〈青森県下北郡東通村、1976〉
* 10月から秋イカ漁の季節となるが、昔は手こぎの船に乗って星が上るのを待ってイカを釣った 〈北海道積丹郡積丹町、1976〉
* 星の出に間があるときは寝て待った〈新潟県両津市(現佐渡市)、1976〉
* イカが釣れないときは、シバリ(プレアデス星団)の出やサンコウ(オリオン座)の出まで寝て待った 〈北海道小樽市、1976〉
* 夜中にほとんど釣れなくても、メシタキボシ(金星)が出ると朝イカが釣れた 〈北海道積丹郡泊村、1976〉
* 昔は、夕方から夜明けまで星を見ながら夜どおしイカを釣った〈秋田県男鹿市、2012〉
* サンコウがおそく上ってくるようになったら、イカ釣りをやめて帰る〈青森県三戸郡階上町、2015〉
* ムジナ(オリオン座)の星が出てもイカが釣れなければ、漁をやめて帰る 〈宮城県本吉郡南三陸町、2018〉
 このような伝承は、北へ行くほど多く聞くことができました。

【 月とイカ釣り 】
 夜のイカ釣りで、イカを集めるための照明(電灯)が普及するのは、1930年代以降のことです。それまでは、 小さなかがり火や石油灯、アセチレン灯などが時代をおって使われてきました。したがって、そのころのイカ釣 りでは月の光の影響が大きかったようで、満月のころにはイカが釣れないといわれていました。半月よりも細い 月の出ならイカは釣れたようですが、満月のような明るい月に照らされた海になると、カーバイトやアセチレン 灯では光が弱いために、イカを引き寄せることがむずかしかったのかもしれません。そこで、月の出や入りにつ いて、漁師の人たちがどのような関心をもっていたのかまとめてみました。
○月の出にイカが釣れるという伝承がある地域
 北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、山形県、新潟県、富山県、福井県、鳥取県、島根県
○月の入りにイカが釣れるという伝承がある地域
 北海道、青森県、宮城県、新潟県、富山県、福井県、鳥取県、島根県
○月の出は細い月がよいという伝承がある地域
 北海道、青森県、山形県、新潟県
○満月の夜は釣れないという伝承がある地域
 秋田県、新潟県、福井県、京都府、鳥取県、佐賀県
 地域によっては、満月の出にイカが釣れるとする伝承も少しありますが、ほとんどは満月を中心とした一定の 期間はイカ釣りに適さないというのが一般的な見方です。また、月の動きは潮の流れとも深くかかわっています ので、そういう意味でも関心が高かったのでしょう。

 

イカ漁の風景
〈左〉集魚灯をもつイカ釣り船 /〈右〉するめ干し(岩手県)

【 星を見たのはなぜ? 】
 イカ釣りをめぐる星の伝承は、はじめのうちは漁場の位置や方角などを知ったり、どのくらい時間がたったの かを知るために利用されていたものでしょう。それが、星の出によってイカがたくさん釣れるという現実的な伝 承へ変わっていったのだと考えられます。それは、伝承が日本海の中部から北部へと伝わるかていで生まれたの かもしれません。
 たとえば、それぞれのヤクボシが出てくるまでの時間をみると、新潟県付近でプレアデス星団とアルデバラン が約1時間15分、アルデバランと三つ星で約1時間50分、三つ星とシリウスでは約2時間となっています。イカ 釣りを続けていると、こうしたよく目につく星の出にイカがたくさん浮いてくることがあり、多くのイカを釣り 上げることができたのではないかと思います。やがて、漁師たちは星が出ればイカが釣れるのではないかと期待 するようになり、しだいに星の出を見ればイカが釣れるという伝承となってひろまっていったのでしょう。
 おもに北陸から北の地域では、星をたよりにしたイカ釣りが広く行われてきました。しかし、星の出とイカ群 の行動には、今のところ科学的な関連はみられません。各地のヤクボシについての伝承は、星に豊漁を願わずに はいられなかったイカ釣り漁師たちの真剣な気持ちによって支えられていたのだと思われます。


星を見て麦を作った人びと

 麦は、わたしたちの生活に欠かせない食材です。パンやケーキ、うどんなどさまざまな食べものをとおしてお 世話になっていますが、その代表である小麦はどうやって作られているのでしょう。かつては日本の各地で見ら れた麦畑も、今では一部の地域をのぞいてほとんど見かけなくなりました。
 日本の麦は、ふつう秋に種をまき、新しく出た芽が冬を越して春に生長し、6月頃に収穫されます。このよう な作物を「冬作」といいますが、関東地方では同じ畑で春に作づけする「夏作」としてさつま芋や陸稲などが栽 培されました。かぎられた農地をうまく利用して、さまざまな作物を収穫していたことがよくわかります。

   
   

麦作りと暮らし
〈左上〉めばえた麦 /〈中上〉小麦の穂 /〈右上〉収穫前の小麦畑(6月)
〈左下〉麦ふみの足跡 /〈中下〉昔の棒うち(再現)/〈右下〉十五夜の小麦粉饅頭

 その関東地方で、東京都や埼玉県、神奈川県などでは、からす座の四つの星やおうし座のプレアデス星団を目 あてに麦の種まきをしていたのです。それは10月の終りから11月にかけての季節で、農家の人たちは、夜明け前 に南東の空から上るからす座や西の空に沈んでいくプレアデス星団の位置を注意ぶかく観察していました。とく に、からす座については正確な種まきの時期を知るために、東京都の山里や埼玉県の西部で「カーハリたけ上が ってからでは、麦まきはもうおそい」という言い伝えがのこされています。
 カーハリというのは、ほんとうはカワハリというからす座の四つの星の名前で、この星のならびをムジナ(ふ つうはタヌキのこと)という動物の毛皮をかんそうさせるためにひろげた姿と見たよび名です。この言い伝えは、 四つの星のなかで最初に姿をあらわすγ[ガンマ]星を見て麦まきをはじめ、そして同じ時刻に最後のβ[ベー タ]星があらわれるころには、もう麦まきを終えなければならないという意味です。夜空の星々は、毎日少しず つ早く出てきますので、その変化を季節のカレンダーとして利用していたわけです。また、埼玉県の西部地域に は「麦は、おそくても11月20日のエベスコ(恵比寿講)までにはまき終える」という言い伝えがあります。人び とがカーハリをながめていたのは、11月上旬から20日前後と考えられますので、星を見るたしかな目に感心させ られます。
 ただ、じっさいにどれくらいの人たちが星を見て麦まきをしていたかはよくわかりません。季節の変化は、星 だけでなく植物のめぶきや葉が落ちるようす、渡り鳥がやって来る時期などでも知ることができますので、その ような自然の一部として星が利用されていたのでしょう。

丘陵地から上るからす座の四つの星


星を見て炭を焼いた人びと

 みなさんは、炭がどんなものか知っていますか。60年くらい前までは、ふつうの家庭で使われていた燃料の一 つですが、今では住宅の床の下にしきつめたり、川の水をきれいにするなどの目的で使われることもあります。 また、木炭だけでなく、竹を焼いた竹炭もよく利用されています。木炭には、黒炭[くろずみ]と白炭[しろず み]という種類があり、今利用されているのはほとんどが黒炭です。
 炭を焼くには材料となる木材が必要で、ふつうは森や林のある丘陵地から山地がおもな生産の場でした。です から、かつては農作業が少なくなる冬の間に、多くの山村でたくさんの人たちが炭を焼いていたのです。そして、 関東地方などでは、星をたよりに炭焼きのくらしを続けた人びとがいました。

炭焼きの星が伝承されていた地域(関東西部)

【 炭焼きの方法 】
 炭を焼くには、てきとうな場所に窯[かま]を造らなくてはなりません。石を積んだり、粘土のような土をか ためて、内部が卵のような形に仕上げます。白炭用では奥行きが2.5〜3.5b、幅が1.5〜2bくらいで、手前に口 をあけ、奥にはクドとよばれる煙の出口(煙突)をつけます。窯を造るのはとくべつな技術をもった人で、よい 炭を焼くには、なによりもよい窯が必要でした。
 材料となる木は、おもににクヌギやコナラ、カシのなかまなどで、これらはよい炭を焼くのに適しています。 そのほかの木も炭に焼いていましたが、よい炭にはなりません。それでは、白炭を焼く手じゅんについて説明し ましょう。
@木を伐り、一定の長さ(1〜1.5b)にそろえます
A木を窯のなかに立てます ※ふつうは人が窯のなかに入れないので先端が二股になった長い棒を使います
B窯の口に焚きつけをおいて火をつけます
C火がついたら、窯の口を閉じます ※クドから出る煙の色で焼けぐあいをみます
D最後にネラシという作業を行い、すぐにまっ赤な炭を窯の外へかき出します
Eまだ焼けている炭にゴバイをかけて火を消します
 こうした作業をほとんど休みなく、毎日あるいは一日おきくらいでくりかえし行います。

 

白炭を作る仕事の一部
〈左〉窯のなかに木を立てているところ /〈右〉ゴバイをかけた炭を整理しているところ

【 炭焼きの暮らしと星の伝承 】
 昔は、東京都をふくむ関東の山村で、秋のおわりから春のはじめにかけて多くの人が炭を焼いていました。そ のほとんどが白炭の生産で、窯のある場所は家から歩いて1〜2時間のところでした。ですから、毎日あるいは 一日おきくらいに家と窯のある場所を行ったり来たりすることになります。冬という季節を考えれば、朝早くま だまっ暗なうちに家を出て、帰るのも日がとっぷりとくれてからになります。
 そのころは、時計がない家も多い時代でしたので、人びとは植物や動物などの自然の変化に注意していたので す。それは夜空の星についても同じで、日々の暮らしのさまざまな場面で星を利用するようになりました。おも な星は次の三つです。

炭焼きの暮らしと利用された星の関係
※北斗七星はその動き(左まわり)を時計がわりに利用しました

○ オリオン座の三つ星
秋の夜には、炭焼きの仕事から帰ってきて足を洗うころ、東の空に姿をあらわすこの星をながめていました。そ のことを表現した名前がアシアライボシです。また冬の朝には、西空に傾いたこの星の位置をみて時間をはかっ たり、家を出る時刻の目安としていました。
○ からす座の四辺形
秋のおわりから春のはじめにかけて、この星の位置によって時間をはかったり、朝の目ざめや家を出る時刻の目 安として利用されました。
○ おおぐま座の北斗七星
冬から春先きにかけては、この星が北の空に高くなるのを見て、夜なべ仕事を終える目安として利用しました。

 これらのうち、もっとも多く利用されたのはからす座の四つの星で、三つ星とともに山のくらしで重要なはた らきをしていました。からす座にはとくに明るく目だつ星はないのですが、まわりに明るい星がないことや南の 空を低くゆっくりと移動することなどから、人びとが注目するようになったのだと思います。

 

炭焼きの暮らしをささえた星たち
〈左〉西へかたむいたからす座 /〈右〉北の空に立ち上がった北斗七星

※もっとくわしく知りたい人は、 こちらの展示室の『仕事と星の名』へどうぞ


◆「仕事と星のはなし」にもどる◆

くらしとお月さま 2022/08/25

月の動きとくらし

 みなさんは、まいにち夜空の月をながめたことがあるでしょうか。そして、だんだんと形を変えていくのを知 っていますか?わたしたちの地球にいちばん近い天体ですが、今では「月あかり」の大切さもすっかり忘れられ てしまいました。
 月は、29日から30日の時間をかけて地球をひとまわりしています。そのとき、細い月から満月になり、ふたた び細くなって見えなくなるのです。これは朔望月[さくぼうげつ]といって、地球の動きとの関係からおこりま す。いわゆる「みちかけ」のことです。古代のものがたりに、ツクヨミノ命という神さまが出てきますが、昔の カレンダーはおもに月の朔望月をもとに作られていましたので、その変化を正しくとらえることが、いかに大切 な仕事であったのかがよくわかります。暦では、朔(新月)が1日で、望(満月)が15日になります。つまり、 昔の人たちの暮らしは、さまざまなところで朔望月のえいきょうを受けていたのです。
 日本では、明治時代のはじめころまで国の正式な暦として使われましたが、その後は今わたしたちが使ってい る太陽暦という新しいカレンダーになりました。これは、太陽の動きに合わせたものですから、月の変化と日づ けはまったく合わなくなっています。それでも、夜空の月をながめて大自然の神秘な姿に心うたれるのは、いつ の時代も同じです。たとえ生活のリズムが太陽中心になっても、わたしたちの暮らしには、まだまだ月のえいき ょうを受けている部分がたくさんあることに思いをはせてみましょう。

月の表情と風景
〈左〉九日の月/〈右上〉夜明けの望月/〈右下〉二十六夜の月


お月さまと人びとの信仰

【 三日月をめぐる信仰 】
 夕空に三日月がかかる風景は、いつの季節もまたどこにいても、わたしたちの心をいやしてくれます。昔の人 びとは、三日月に手を合わせてさまざまな願いごとをしていたのでしょう。そうした思いが一つの形となってあ らわれたものに、三日月神社や三日月不動があります。これまでにわかっているのは、関東の栃木県や茨城県な ど、東北地方をふくめて16ヵ所になります。
 三日月に豆腐[とうふ]をそなえるところは各地にみられますが、栃木県や奈良県などのように三日月形の餅 [もち]を作る地域も少なくありません。とくに栃木県では、月の餅とともに日の餅や星の餅を作って家の神さ まなどにそなえていました。また、三日月をまつってくようするための三日月塔も関東や福島県などで見ること ができます。

三日月とならわし
〈左〉三日月神社の祭り/〈右上〉そなえられた豆腐
〈右下〉三日月の餅と日の餅

【 月待の信仰 】
 昔の暦では、15日ころの月がいわゆる満月になります。これが中秋(昔の暦で秋の八月十五日:今の暦では九 月から十月)のとき「十五夜」の行事が行われました。
 満月をすぎると、月は東の空から顔をみせるのがだんだんおそくなりますが、昔は月待ちといって、日毎にお そくなる月の出を待つ行事がありました。なかでも二十三夜(昔の暦で23日の月)の月待ちは全国で行われ、よ く知られています。ほかにも十九夜とか二十二夜、二十六夜など地域によってさまざまな行事がみられ、今でも お祭りとして続いているところがあります。
 たとえば、長野県伊那市では昔の暦で7月22日に、二十二夜尊祭としていくつかの地区がにぎやかな祭りを行 っています。いぜんは夜おそくまで月の出を待ち、いよいよ月がのぼると一生けんめいに拝んで願いごとをする 人たちがいました。今では、そういう人の姿をほとんど見かけないようですが、まだどこかでそっと手を合わせ ている人がいるかもしれません。

 

〈左〉高遠の二夜尊祭  /〈右〉常円寺の二夜尊祭
※かつては安産を願う女性が多くお参りしました

 ところで、古くからある道ぞいや神社、お寺などにいろいろな石がたっているのを見かけることがあります。 それらのなかに「二十三夜」とか[十九夜」などの文字がほってあるのを見たことはないでしょうか。これらは 月待塔とよばれるもので、そこでは何らかの月を待つ行事が行われていたことを示しています。

 

〈左〉二十三夜の仏画[ぶつが] /〈右〉二十二夜塔(愛知県)


月をめぐる伝承

 月には、昔からいろいろな言い伝えがあります。月の形や光り方、それに星との関係などさまざまです。それ だけ、人びとの生活にとって大切なものだったのでしょう。

【 月がカサをかぶると雨が降る 】
 月がかぶるカサというのは、月のまわりにできる大きな光の輪のことで月暈とよばれるものです。これは満月 のような明るい月に、高い空のうすい雲がかかったときに見られることがあります。この雲のうしろには低気圧 が近づいていることが多いため、雨が降るという伝承が生まれました。でも、ほんとうに雨は降るのでしょうか? みなさんはどう思いますか。
 たしかに、この雲は低気圧が近づく目安にはなりますが、その後のコースによって雨が降ったり、降らないと きもあります。じっさいはカサが10回出たとすると、雨が降るのはそのうち5〜7回くらいだそうです。みなさ んも、月暈を見たら輪の大きさや色を観察し、そのあとで雨が降ったかどうかも記録しておくとよいでしょう。

月のカサよりも小さい光の環(月光環)
本ものの月暈は、もっと大きく幻想的に見えます

【 三日月が立つと米が高くなる 】
 これは、春のころに見られる三日月と秋のころの三日月の傾きのちがいから生まれた言い伝えです。春の三日 月は横にねた姿をしていますが、これが秋には立ちあがってきます。そうすると米の値が高くなるというのです が、みなさんはどう思いますか。じつは、これはまったくの迷信[めいしん]なので関係はありません。ただ、 江戸時代の日記をみると、農家の人が米を売るのに三日月の傾きを気にしていたことが書かれています。月の傾 きぐあいによって天気(雨が多いとか少ないという意味)を判断し、それによって米のできぐあいをみていたよ うです。
 そんな昔の人びとの気持ちを思いうかべながら、みなさんも春分のころと秋分のころの夕方に西空の三日月を 観察して、傾きかたがどれくらいちがうのかぜひ確かめてみましょう!

春(3月はじめごろ)の三日月
このように平らに近い姿をみせることがあります


◎「くらしとお月さま」にもどる◎

タナバタさまのはなし 2020/06/25

中国からやってきた七夕の行事

 夏の夜空といえば、天の川を思いうかべる人がたくさんいることでしょう。オリヒメとヒコボシのものがたりは、星空をながめる 楽しみの一つです。
 昔の暦で七月七日の夜、オリヒメとヒコボシが年に一度だけ会うことができるというこの七夕の伝説は、中国の漢[かん]という たいへん古い時代に生まれたのではないかといわれています。それが朝鮮[ちょうせん]半島から日本に伝わり、そのころの 貴族[きぞく]の間ではひろく知られていたようです。その後、平安時代になると同じ中国(唐の時代)から乞巧奠[きこうでん] とよばれる行事が伝えられ、星ものがたりと乞巧奠がいっしょになって現在のような七夕行事の原形ができたものと考えられています。
 こうして七夕行事は、江戸時代になると三月三日の桃の節供[せっく]や五月五日の端午の節供などとともに五節供の一つに 定められたことから、笹の竹に願いごとを書いた短冊[たんざく]をつけて立てるということがさかんに行われるようになりました。
 ところで、日本ではもともと七月七日(昔の暦)をとくべつな日として、いろいろな行事が行われていたのです。残念ながら、 それらは中国からやってきた星の伝説とはかかわりのないものですが、私たちの祖先がタナバタの日をどのような思いですごして きたのかを知ることは大切でしょう。生活の節目[ふしめ]である行事をとおして、失われてしまった日本人の心にふれてみたいと 思います。
 なお、日本には七夕行事にかかわりのある昔話がいくつか伝えられていますので、どんなものがあるか調べてみましょう。

古い家にかざられたタナバタの竹
昔はどこでもこのような風景が見られました


タナバタの行事

 日本の各地では、今でも昔からのタナバタにかかわりの深い行事が行われています。

【 眠り流しに関する行事 】
 東北地方の夏祭りで有名な「ねぶた(ねぷた)祭り」が、この代表です。タナバタの神さまをむかえるために眠気をはらい、 身を清めるなどの意味から、「たなばた流し」といっていろいろなものを海や川に流しました。富山県では七夕船を海に 流し、埼玉県の西部ではネムノキを、また長野県では七夕人形などをそれぞれ川に流しました。ところで、タナバタの日に ネムノキの枝を供える地域では、その日の朝このネムノキの葉で目をこすりながら顔を洗っていました。もともと眠気を はらうための行事ですから、ネムノキの枝で目をこすったり、またネムノキを入れた水で顔を洗うことに大きな意味が あったようです。

花を咲かせるネムノキ
ネムノキは、暗くなると葉が閉じて眠ったようになります
この枝といっしょに大豆[だいず]を 供えるところもあります

【 タナバタの人形 】
 長野県の松本市やその周辺の地域では、タナバタ行事のなかで人形を飾るようすを見ることができます。七夕人形[たなばたにんぎょう] とよばれるもので、その形や飾り方によって四つのタイプが知られています。このうち現在も続いているのは本物の着物をかけるハンガーの ようなタイプと紙で作った男女の人形タイプで、ほかの形は残念ながら見られなくなってしまったようです。
 こうした人形は、雛人形(3月3日)や五月人形(5月5日)と同じように節供[せっく]のお祝いとしての意味があり、多くはお嫁さんの 実家から嫁ぎ先へ贈るのが習わしとなっています。これは、現在も続いているようです。また、岐阜県や愛知県、兵庫県などでは人形ではなく 七夕灯籠を送る習わしあり、いずれも子どものすこやかな成長を祈る行事としての一面がみられます。
 七夕人形に似たもので紙衣[かみごろも]とよばれる紙で作った着物があります。竿にかけたりタナバタの竹につるしたりしますが、昔は 多くの地域で行われていたようで、調査では宮城県、栃木県、埼玉県、京都府、兵庫県、岡山県、福岡県などで確認されています。
 このうち、福岡県宗像市の大島に伝わる紙衣は、色紙を二枚重ねにして鋏を入れ、肩の部分だけを一部折り返した簡素な作りですが、 通常の短冊と同じように願い事を書いて竹に吊るしていたようです。単なる紙衣ではなく、織女と牽牛に見立てた七夕の紙人形として 扱われていたものでしょう。


タナバタの人形と紙衣
〈左上〉着物をかけるタイプ /〈右上〉紙人形のタイプ(いずれも松本市)
〈左下〉宗像市大島の紙衣(衣型の短冊)/〈右下〉兵庫県姫路市の紙衣

【 タナバタの馬 】
 関東地方(主に利根川下流の地域)では、タナバタ馬(あるいは牛)が作られます。材料はマコモというイネのなかまの植物が 多く、チガヤや稲[いね]・麦のわらを使うところもあります。馬の形や作り方は地域ごとに特徴がみられ、これをタナバタの竹と いっしょに飾る方法もさまざまです。行事が終わると、馬は屋根に投げ上げたり、柱にしばり付けておき、誰かが水で溺れそうに なったときは、これを燃やすと助かるという伝承があちこちに残っていました。
 タナバタ馬は、子どもたちにとっても楽しい遊び相手の一つです。たとえば、千葉県などではタナバタの日に子どもたちと馬との とくべつな関係がみられます。それは、朝早く子どもたちがタナバタ馬を近くの川などにつれて行き、草刈りをしたのです。そして、 その草を馬の背につけて家に帰り、馬に食べさせました。
 また、茨城県筑波郡では、竹の棒の片方にマコモを使って馬の頭を作り、タナバタの朝に子どもたちがこの馬をもって近所の家々を まわり、「タナバタください」といいながら短冊をもらって歩きました(下の図)。そして、夕方には川へ流しました。みなさんが 知っている七夕の行事とはだいぶ違いますね。このような行事では、子どもたちが大切な役割をはたしながらタナバタの 日をすごしていたことがよくわかります。

 

タナバタ馬とその利用
〈左〉埼玉県川越市のタナバタ馬は大きくてたくましい
〈右〉タナバタが終わると馬を柱にしばりつけておく

竹のタナバタ馬(茨城県筑波郡)

【 タナバタと子どもの行事 】
◎ タナバタと天王さま
 京都の八坂神社で行われる夏祭は、古都を代表するお祭としてよく知られています。もとは牛頭天王[ごずてんのう]をまつる 信仰に根差したもので、疫病[えきびょう]を追い払うのが目的です。これが各地に伝わり「天王さま」として定着していることは 知っている人も多いことでしょう。今、この神さまをまつっているのは、八坂神社のほかに八雲神社や須賀神社などがありますが、 いずれも夏に天王さまが行われています。
 千葉県の印西市では、こうした祇園[ぎおん]信仰が昔ながらのタナバタ行事といっしょになった事例をみることができます。 この町の鹿黒という地区では、毎年8月6日にタナバタ竹(飾り)を作り、次の7日の朝早く、以前はため池だった場所に立てます。 また、6日の夕方から夜にかけて「オタチ」とよばれる木で作った太刀[たち]を担いで地区内をめぐり、疫病や悪霊[あくりょう]を 追いたてるのです。
 この行事は、ほとんどが地区の子どもたちによって行われるのが特徴です。参加できるのは男子のみで、満7歳を迎えると仲間に 入り、中学2年生になるまで活動します。全体をとおして、年長(中学生)のリーダーを中心に進められ、地域社会のためにはたらく ことを学ぶ大事な行事といえるでしょう。

 

〈左〉八幡神社での準備 /〈右〉オタチを振り上げる子どもたち

◎ 天伯社の七夕行事
 長野県の伊那谷には、「さんよりこより」と呼ばれるタナバタ行事が伝承されています。今は8月7日に実施されますが、もとは昔の暦 で7月7日に行われていたようです。この行事は、伊那市内の二つの天伯社に伝わる三峰川の洪水を鎮[しず]めるための神事で、そこに まつられた神である棚機姫命[たなばたひめのみこと](あるいは瀬織津姫命)との関係から、後に地域の水神信仰やタナバタ行事がいっしょに なったものと考えられています。
 お祭りのなかでもっとも大事なところは、それぞれの天伯社で行われる神事と川手地区の御神体(幣束)が乗る神輿[みこし]の川渡りです。 それぞれの神事の後には、子どもたちが持ち寄ったタナバタの笹飾りで菅笠をかぶった二人の男(鬼あるいは賽の神といわれる)を打つ習わしが あり、このとき円陣を組みながら唱えるのが「さんよりこより」で、これがお祭りのよび名として定着したものです。
 タナバタとの関連では、地元の伝承として三峰川を天の川に見立て、神輿の川渡りは男神(牽牛)が川を越えて女神(織姫)に逢いに行く ようすを表現していると聞きました。タナバタや水神などと縁が深い天伯社の祭神ですから、これは地元の人たちの素直な思いかもしれません。 しかし、残念ながら二つの天伯社には男神(牽牛)に相当する神さまは見あたらないため、どのような発想で語られるようになったのか気に なります。

さんよりこよりの祭り
〈左〉三峰川を渡り終えた神輿 /〈右〉笹竹で災厄をはらう子どもたち

◎ タナバタと虫送り
 「虫送り」というのは、日本の各地に見られる行事です。田の虫送りと言って、6月に行う地域が多いようですが、なかには7月や8月に行う 事例も少なくありません。虫送りにはタナバタのように飾り付けをした笹竹がよく登場します。埼玉県皆野町上日野沢の立沢地区では、毎年8月 16日に地区の人たちが集まって虫送りを行っています。ここでは、お盆の行事である精霊[しょうりょう]送りと虫送りがいっしょになった形を していて、高さ約7bの大きな梵天[ぼんてん](大旗)3本が集落の中を練り歩くのが特徴です。タナバタの日に行われるわけではありませんが、 実は大きな梵天には大切な意味がかくされていたのです。
 梵天の構造は、長い竹竿の先に新しい真竹を継ぎたし、先端には幣束[へいそく]を取り付けます。その下に同じ真竹を割いて丸めた輪をつるし ますが、調査によってそこにタナバタの笹飾りが取り付けられているのを確認することができました。地元の人たちも、毎年タナバタで作った飾りを このお祭りのために保管しておくのが習わしになっていると言いますが、その理由は伝わっていませんでした。
 皆野町がまとめた本には、タナバタの飾りと虫送りの関係について書かれていて、昔は8月6日に七夕飾りを作るときに、枝を三本残して切り、 その枝に短冊とのろせ(五色の紙を貼り合わせて作った旗)をつけていたようです。この「のろせ」が虫送りの旗として使われたのでした。 虫送りには多くの子どもたちも参加しますが、なかには「のろせ」の旗を持って歩く子の姿もみられます。地域によっては、子どもたちだけで 虫送りをするところもあります。

皆野町立沢の虫送り行事
〈左〉風にはためく梵天と旗 /〈右〉地区内を練り歩く人たち

◎ そのほかの習わし
 タナバタの日に家族あるいは子どもたちだけで食事をしながらタナバタを祝うところが各地にみられます。宮城県では、川原に小屋を 作ったり年番の家(宿)に集まったりして、子どもたちがタナバタを祝う風習がありました。最近の調査ではタナバタ小屋の伝承は記録 されていませんが、そのなごりとみられる行事が塩竈市の桂島という島に伝わっています。ここでは、8月6日に立てた竹の下に供えもの をし、さらに別なテーブルを用意して子どもたちが食事をしていました。同じような話は、仙台市太白区や大崎市でも確認され、奈良県 山添村の場合は子どもだけでなく、家族が食事を行うことになっています。
 それから、タナバタの日にみられる習わしとして「水浴び」があります。埼玉県の小鹿野町では8月7日の朝4時に起きて荒川へ行き 7回水浴びをしました。同じ埼玉県の熊谷市でも7回水浴びをしたといい、茨城県守谷町では子どもがタナバタ馬と一緒に水浴びをしていた ようです。また、青森県の鰺ヶ沢町では8月7日に子どもたちが家で赤飯を食べてから海へ行って水浴びをし、それを7回繰り返して いました。


タナバタかざり

 タナバタの竹は、ふつう願いごとを書いた短冊をつるしますが、これは中国から伝わった星の伝説や乞巧奠という行事の影響が大きい 都市などのタナバタの特徴といえるでしょう。
 ところが、農村などではタナバタの時期に訪れるという神さまをむかえ入れるために竹は大切なものだったのです。同じことは、夏の盆[ぼん] の行事でご先祖の霊をむかえてまつる棚の竹にもいえることです。
 このように、日本では神事[しんじ]をはじめとしてタナバタ以外にも竹を立てる行事やお祭りがたくさんあり、その場所はいずれも神聖 [しんせい]なところをあらわしていました。タナバタが終ると、かつては竹を川や海などの水に流していましたが、川や海が汚れるなどの理由から 今ではすっかり見られなくなってしまいました。地域によっては、田や畑に立てたり漁業などにも使われていたようです。

 

四本の竹とタナバタ竹
〈左〉神聖な場所を示す竹 /〈右〉畑に立てられた竹

 ところで、タナバタに竹を立てないところも少なくありません。このような地域では、綱を張りめぐらし、そこに短冊などをつるします。

タナバタ綱[つな]と竹のかざり
〈左〉竹を使わない短冊(写真:横山好廣氏)/〈右〉願いごとを書いた短冊

 なお、タナバタの飾り方は地域によって少しずつことなります。ここに関東地方の事例を紹介しましょう。みなさんが見たり、 じっさいに飾っているものと、どこがどのようにちがうのか考えてみてください。また、みなさんの街や村では、どのような タナバタかざりが見られるでしょうか?

《 関東地方のタナバタかざり 》

竹の本数やたて方、馬(あるいは牛)の飾り方
などは地域によりいろいろな特徴がみられます


七夕の星たち

 七夕伝説の主役[しゅやく]であるオリヒメとヒコボシは、それぞれこと座のベガとわし座のアルタイルという星です。これに、 はくちょう座のデネブを加えて大きな三角形ができるのを知っていますか?これは、ふつう夏の大三角形とよばれます。
 日本では、ベガとアルタイルの二つの星をあわせて「たなばたの星」あるいは「たなばたさま」などとよぶところがたくさん ありますが、そのほかにもとくべつな名前をつけている地域があります。くわしいことは〈文献資料〉にまとめた本を参考にしてください。
 また、夏休みには夜空を見上げてオリヒメ(ベガ)やヒコボシ(アルタイル)をさがしてみましょう!そのとき、天の川が どのように見えたか、そして二つの星が東の空に見える時と西の空にあるときで、どのようなちがいがあるのか調べてみると、 おもしろいことがわかります。

夏の大三角形
二つの星の間に天の川がよこたわっています


◆「タナバタさまのはなし」にもどる◆

十五夜のつきみ  2019/01/25

中秋の名月について

 お月見といえば「十五夜」ですが、これは中国の中秋節[ちゅうしゅうせつ]という行事が日本に伝えられたものと 考えられています。ですから、むかしの暦で八月十五日に見られる月を中秋の名月[めいげつ]とよんでいました。この名月は、 だいたい満月にちかい月となります。
 月は、地球のまわりを一周する間に、太陽との位置によって約29.5日の周期[しゅうき]で 見える形がへんかします。新月から三日月、上弦[じょうげん:半月]、満月、下弦[かげん:半月]へと進むうちに、東の空から 顔をみせる時間もしだいにおそくなり、十五夜のまん丸い月が東から上がってくるのは、太陽が西にしずむころになります。 むかしの暦は、このような月の満ちかけにほぼ合わせたものでしたので、それぞれの月の十五日前後に満月をむかえました。 このうち、八月十五日の満月あるいは満月にちかい月がとくべつな意味をもっていたのです。

まるくて大きな満月のかがやき
(撮影:箕輪敏行氏)


お月見と十五夜

 中国の中秋節は、もともと月を拝み、祭ることに大きな意味がありました。これが日本へ伝わってお月見の行事へと 変化したわけですが、日本の農村などで行われてきた十五夜は、お月見というよりも月にさまざまな供えものをして、その年の しゅうかくに感謝[かんしゃ]するとともに、次の年も豊作[ほうさく]であることをいのる行事であったようです。また、十五夜の あとで行われる十三夜(むかしの暦で九月十三日)も日本だけの行事と考えられています。
 さて、十五夜や十三夜にはどのようなものが供えられたのでしょうか。その内容は地域により少しずつちがいますが、主に次の ような組み合わせになっています。

【 ススキ 】
ススキは十五夜にかかすことができない植物で、秋の七草に尾花[おばな]とあるのがそれです。また、同じ秋の 七草であるハギ、オミナエシ、キキョウなどもススキといっしょに供えられることがあります。ところで、関東地方などでは ススキであるものを作ったり、十五夜(あるいは十三夜)のあとで供えたススキをいろいろな場所にさしたり、川や海に 流したりしてきました。

(左):家の入口にさされたススキ〈埼玉県〉/ (右):畑に立てられたススキ〈山梨県〉

@ススキで作るものは?
* 十五夜の夜にはススキのはしでごはんを食べる(埼玉県)
* 十五夜や十三夜に2尺くらいの長さのススキのはしをそなえる(埼玉県)
* 十五夜のおぜんにススキのはしをそなえる(東京都)
* 十五夜には家族みんなのススキのはしを作り、はじめの一ぱいは必ずこのはしで食べる(神奈川県)
* 戦争の前までは十五夜に赤いご飯をたき、ススキのはしで食べた(神奈川県)
* ススキで作ったはしを15組そなえ、子どもたちがほかの家をまわってススキのはしで野菜ごはんを一口ずつ食べる(山梨県)
* 十五夜や十三夜のときは、虫歯にならないようにススキのはしでごはんを食べる(山梨県)

Aススキを何に使う?
* だいこん畑やほかのやさい畑にさしておく(茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、山梨県)
* みかんの畑にさしておく(神奈川県)
* 畑のあぜにさしておく(静岡県)
* 家の入口やかきねなどにさしておく(栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、千葉県)
* 屋根の軒[のき]などにさしておく(埼玉県、東京都)
* 庭にさしておく(神奈川県)
* 堆肥[たいひ]のある場所にさしておく(埼玉県)
* 庭の木にしばり付け、次の年の小正月[こしょうがつ]にとりはずす(埼玉県)
* 床の間にかざる(埼玉県)
* 子どもの神さまである稲荷[いなり]さまへそなえる(群馬県)
* 踏まないように川へ流す(栃木県、群馬県、埼玉県)
* 道路がまじわる場所におく(埼玉県)
* ヤマにおいてくる(栃木県)
* 海へ流す(神奈川県、静岡県)
* 燃やして灰にし、人がふまない場所にうめる(千葉県)
* 燃やして、その灰をやしきのまわりにまく(茨城県)
* 玄関[げんかん」や勝手口[かってぐち]、トイレにおいておく(和歌山県)

Bススキをめぐるでんしょう
* 十五夜には、月がそなえものを食べるはしとして2本のススキを、また十三夜には2本の大根を供える(茨城県)
* ススキをさしたびんの水は、おまじないになるので大切にとっておく(大阪府)

 これらは、関東甲信[かんとうこうしん]地方の畑や山のある地域を中心にのこされていることがわかります。 とくに、行事が終わったあとのススキの扱いかたについては実にいろいろな方法がありますね。これらの行事は、一部の地域で 今も続けられていますが、いったい何のために行い、それによってどういう効果があるのかなどについてはほとんど 分からなくなってしまいました。

【 十五夜花 】
ススキといっしょに供えるきせつの花は、十五夜花[じゅうごやばな]とよばれています。 利用される花はところによってとくちょうがあり、主な植物を下にまとめてみました。

 

 

写真は〈左上:ワレモコウ/右上:ヤマハギ/左下:シオン/右下:オミナエシ〉

◆ 十五夜花として利用される主な植物
分 類〈科〉 種 名 秋の七草
 キク科  シオン、ノコンギク、ユウガギクなど  − 
 キキョウ科  キキョウ  朝顔の花
 オミナエシ科  オミナエシ  女郎花
 マメ科  ハギ類(ヤマハギなどが代表種)  萩の花
 ナデシコ科  カワラナデシコ  撫子
 バラ科  ワレモコウ  − 

【 だんご 】
月見といえば団子がつきものですが、十五夜には15個、十三夜には13個を供えるという地域が多くあります。形は 丸いものがほとんどですが、地域によって頭をとがらせたり、団子を平たくして中央にくぼみをつけたものなどがあります。 また、農村などでは小麦粉[こむぎこ]で作ったまんじゅうやおはぎ(ぼたもち)を供えていました。

串にさした団子
供えられる団子はさまざま

【 野菜・くだもの 】
十五夜に供えるやさいといえば、畑でとれた里芋がその代表です。十五夜が「芋名月[いもめいげつ]」とよばれるように、 ひろい地域で利用されますが、生のまま供えたり、煮てから供える場合もあります。ほかには、さつま芋や大根などが知られて います。くだものでは農家の庭などで実をつけた柿やくりがその代表で、ほかになし、りんごなども使われます。また、 十三夜では豆やくりを必ず供えるというところがあり、「豆名月」とか「栗名月」とよばれることがあります。

 

よく見られる供えもの
〈左〉生のサトイモ /〈右〉クリは身近な秋の味覚[みかく]

【 その他 】
ところによって、ごはんや酒、水、灯明(ろうそくなどのあかり)などを供えます。月を神さま(月読命)として拝んでいたなごりでしょう。


十五夜のかたち

 十五夜の供え方には、地域によっていろいろなかたちがみられます。昔の古い家には縁側[えんがわ]といって、広いろうかのような場所が ありました。そこに台や机をおいて、さまざまな供えものをのせたのです。このかたちは全国でふつうに行われてきました。
 また、農家などでは箕[み]という道具をおいてその中に供えるところも少なくありません。そのほかにも、めずらしい供え方がきろくされて いますので、いくつかしょうかいしましょう。ただし、ここにてんじした写真はじっさいの場所を写したものではありません。きろくをもとにして、 そのイメージを再現[さいげん]したため、実際のかたちとは少しことなる部分があります。

【 各地の供え方 】


◇ 台や机などを使ったよくみられる事例 ◇

《基本的な組み合わせのイメージ》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
○場所:家の中
○用具:台あるいは机など
○ススキ:とっくりにさす
○団子:いっしょうますにもる
○里芋:生のまま
○さつま芋:生のまま
○くり:そのまま


◇ 机を使っためずらしい事例 ◇

《静岡県駿東郡小山町の伝承による》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
○場所:家のえんがわ
○用具:すわり机
○ススキ:花びんにさす(写真はとっくり)
○ふかしまんじゅう(あん入):お皿にもる
○里芋:生のままかごにもる
○くだもの:(写真はナシです)

* その他 *
何よりもベースとなる机の上にススキ
の葉をしき詰めているのが大きなとく
ちょうです。ススキをしんせいなもの
とみているのでしょう


◇ 箕[み]を使ったふつうの事例 ◇

《東京都東村山市の再現展示》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
○場所:かやぶき民家のえんがわ
○用具:かたくち箕
○ススキ:とっくりにさす
○団子:皿にもる
○里芋:生のまま皿にもる
○さつま芋:生のまま皿にもる


◇ お膳だけを使っためずらしい事例 ◇

《神奈川県津久井郡藤野町の伝承による》
 註)藤野町は現在相模原市の一部
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
○場所:家のえんがわ
○用具:あしつき膳
○ススキ:とっくりにさして別におく
○団子:供えない
○里芋:生のまま膳に
○さつま芋:生のまま膳に
○くり:生のまま膳に

* その他 *
団子を供えず、新しいやさいを供える
行事とされています。あしの付いた膳
に里芋の葉をしくという方法は、ほか
にはみられず、とりわけ里芋に対する
とくべつな想いを感じとることができ
ます


◇ 藁[わら]を使った事例 ◇

  《静岡県菊川市の伝承による》
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
○場所:家の庭
○用具:藁を立てて丸い盆をのせる
○ススキ:びんなどにさして別におく
○団子:いれものにもって盆に
○里芋:生のまま盆に
○さつま芋:生のまま盆に
○くり:生のまま盆に

* その他 *
大きなとくちょうは、稲のわらを束ね
て立てて使うところで、これまでの考
え方を一から見直すはっそうといえる
でしょう。ススキといっしょにさされ
るコウシバと呼ばれる植物にもこころ
ひかれます


十五夜の子どもたち

 むかしの子どもたちにとって、十五夜や十三夜は待ちどおしい行事の一つでした。それは、よその家で供えたごちそうを もらい歩いたり、こっそりと盗んで食べることができたからです。今の時代では考えられませんが、当時は十五夜や十三夜の 夜だけとくに許されていたのです。それだけでなく「十五夜の夜には畑の芋をとってかまわない」とか「よその家の柿を盗んでよい」 などともいわれていました。これは、十五夜が単なるお月見の行事ではないことのあらわれといえるでしょう。

十三夜の供えもの
このような象[かたち]はほとんど見られなくなりました



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太陽のはなし 2022/08/25

日の神と太陽系

 わたしたちは、太陽から受けるさまざまな「めぐみ」によって生活しています。朝、東の空からあらわれて夕 方西の空にしずむまで、そこには明るい昼の世界がひろがり、次の日には再び東の空に姿をみせるのです。いま、 わたしたちが使っている暦(カレンダー)は、こうした太陽の動きをもとに作られたもので太陽暦とよばれてい ます。どの国の人びとも、昔から太陽と深いかかわりをもって生きてきたのです。日本では『古事記』という古 い書物にアマテラス大神という女性の神さまが出てきます。これは、高天原という天上の世界をおさめる日の神 のことで、同時に昼のくにの主でもあります。そして、夜のくにの主はツクヨミノ命という月の神でした。
 太陽は、銀河系というたくさんの星の集まりのなかにあり、夜空にかがやく星たちと同じなかまです。これら を恒星[こうせい]といいます。太陽の年齢は約46億年といわれ、人間の一生にくらべると気が遠くなるような 時間を生きているわけです。わたしたちが住んでいる地球は、この太陽を中心とした太陽系というグループの一 員です。ですから、もし太陽がなかったらわたしたちの地球も存在しないことになります。でも、銀河系やその ほかたくさんの小宇宙には、それこそ数えきれないくらいの星がありますので、どこかにきっと地球と同じよう な水の惑星があるかもしれません。
 太陽系には、地球のほかにも同じ惑星であるなかまがいます。どんな星があるのか調べてみましょう。

 

太陽のある風景
〈左〉東京湾の海にかがやく太陽 /〈右〉濃い霧につつまれた朝の太陽



太陽をめぐる伝承

 ところで、いつも同じようにかがやいて見える太陽ですが、ときにはめずらしい姿をみせてくれることがあり ます。

【 消える太陽 】
 はじめに紹介した『古事記』や『日本書紀』という書物には、日の神であるアマテラス大神が弟のスサノウノ 命が乱暴なふるまいをしたため天岩屋[あめのいわや]にかくれてしまうという話があります。太陽がほんとう に消えてしまったらたいへんなことになりますが、昔の人びとはそれだけ太陽への思いを強くもっていたのでし ょう。とくに「日食」という現象は、人びとの目の前で太陽が月によってかくされていくわけですから、この世 の一大事だったはずです。
 東京都の奥多摩町という山里には、写真のような日食供養塔[にっしょくくようとう]という石碑があります。 たいへんめずらしいもので、ほかの地域では見つかっていません。これは江戸時代にたてられたものですが、当 時の人びとにとって一大事であった日食をくようし、世のなかが穏やかでありますようにと祈ったのです。また、 日本では日食がおきたときに、井戸にムシロをかけたりフタをした、あるいは畑に傘を立てたなどということが 各地で行われてきました。その理由は、わたしたちの祖先が日食という現象を「太陽が病気になった」と考えて いたところにあります。ですから、昔は日食のときに手を合わせて太陽を拝んだという人がたくさんいました。

 

かいき日食と日食供養塔
〈左〉オーストラリア日食(撮影:箕輪敏行氏)/〈右〉日食を供養した石塔

【 まぼろしの太陽 】
 ロシアや中国、韓国、日本、台湾などには、太陽がたくさんあらわれたので弓矢で射落としたという話が伝わ っています。太陽の数は3個、9個、10個などとまちまちですが、いずれの伝承にも「もともと太陽は一つ」と いう考え方がみられます。
 どうしてこのような伝承が生まれたのでしょうか。じつは、あるとくべつな気象条件のときに2個あるいは3 個、さらにはまれに5個の太陽を見ることができるのです。これは、太陽が暈[かさ]をかぶったときなどに、 ほんものの太陽の片側あるいは両側(5個のときはさらに外側)に光のかたまりが出現します。つまり、ニセモ ノの太陽があらわれるのです。おそらく、このような現象が「太陽を射る」話につながっているのではないかと 考えられます。こうしたニセの太陽は幻日[げんじつ]とよばれますが、関東地方などでは「コヒが出た」とい う漁師もいて、そのときは「海が荒れる」と言い伝えているところがあります。

 

日の暈と幻の太陽
〈左〉日本海の朝 /〈右〉両側に現れたニセの太陽



太陽と信仰

 私たちの生活には、太陽にまつわる信仰が今もいきづいています。お正月になると、初日の出を拝みに出かけ る人が多いと思いますが、これもそうしたなごりの一つです。そのほか、地域によって次のような行事が伝えら れています。

【 弓神事[ゆみしんじ] 】
 新年をむかえると、全国あちこちの神社などで弓を射る神事をおこなうところがあります。行事のよび方や内 容はそれぞれにちがいますが、矢で的を射ぬくことによって1年という新しい時のめぐりに感謝し、地域や暮ら しが平和で安全なことを願うのです。この的にはいくつもの円をえがいたり、「鬼」という文字が多くみられま すが、関東地方の一部ではカラスの絵をよくみかけます。ただし、ふつうのカラスではなく三本足をもつとくべ つなカラスなのです。
 中国では、古くから太陽のなかに三本足のカラスがすんでいると信じられてきました。これが日本にも伝わり、 よく注意してみると弓神事だけでなく、各地のお祭りや行事のなかで三本足(今は二本足になっていることもあ る)のカラスをみかけることがあります。つまり、的にえがかれた三本足のカラスは、太陽そのものを表現して いるとみることもできるわけです。場所によっては、月をあらわすウサギの絵をえがいた的もいっしょに射ぬく ところがありますが、これらもやはり矢で射ることによって新しい日と月をよみがえらせるという意味があるよ うです。

 

弓神事のようす
〈左〉神奈川県大磯町の歩射[ぶしゃ] /〈右〉埼玉県鴻巣市の的祭[まとさい]

 

弓神事の的
〈左〉千葉県八千代市諏訪神社 /〈右〉埼玉県八潮市久伊豆神社

【 天道をまつる 】
 昔の人びとは、太陽のことを「おてんとうさま」と親しみをこめてよんでいました。こうした太陽をまつる行 事は、春から夏にかけて各地で行われてきたのです。それを代表する行事をいくつか紹介しましょう。
◎天道念仏[てんとうねんぶつ]
春のお彼岸のころに行われ、「おてんとうさま」に感謝しながら農作物のほうさくを願い、ねんぶつをとなえる 行事です。お堂のなかで、日の出から日の入りまでカネを叩いてねんぶつをとなえたり、山に登ってねんぶつを となえたり、地域によっては祭だんをつくり、ねんぶつ踊りをしながら回ります。
◎卯月八日[うづきようか]
卯月は昔の暦で4月のことですから、その8日の行事になります。この日は、お釈迦さまの誕生を祝う「花祭り」 として知られ、各地で天道をまつる行事がみられます。その一つとして、近畿地方ではテントウバナやオツキヨ ウカなどといって、長いさおの先にツツジやフジなどの花を飾って立てるならわしがありましたが、今はほとん ど見られなくなってしまいました。これらは、太陽や月のために立てる花といわれています。
◎天祭[てんさい]
栃木県や福島県などで、4月から9月にかけて行われます。山の上や神社、お寺の境内などに天棚とよばれる祭 だんをつくり、天祭ばやしや踊り、御来迎[ごらいごう]など地域によってさまざまなならわしがみられます。

 

おテントウサマの祭り
〈左〉千葉県船橋市の天道念仏 /〈右〉栃木県那須烏山市の天祭

 このような行事は、いずれも太陽とともにはたらき、生活してきた人びとの思いを知るよい機会になります。 もし、みなさんが住んでいる町にのこされていたら、ぜひ見学してみてください。
 太陽の動きは季節によって変わりますが、たとえば季節によって高さがどのようにちがうのか観察してみるの も楽しいでしょう。



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ながれ星のはなし 2019/12/25

流れ星ってどんな星?

 夜空をながめていると、ときおりスーッと星が流れていくのを見たことがあるでしょう。光っているのはほんの1秒 くらいの時間ですから、あっという間に消えてしまします。それでも、思いがけない場所で出会ったりすると、なにか得を したような気分になりますね。ときには明るく、またときには暗く、あのひろい夜空を自由気ままに飛んでいくのが流れ星 なのです。
 それにしても、流れ星って不思議です。みなさんは、流れ星がどこから来てどこへ行くのだと思いますか。 夜空にたくさんかがやいている星が動いていくのでしょうか?それとも・・・・・・
 ここでは、まず流れ星の正体[しょうたい]について考えてみましょう。宇宙(この場合は太陽系のことです)にはたくさんの 小さな物質[ぶっしつ]がただよっているといわれますが、それらは地球に近づくと引力によって引き寄せられます。こうして 大気圏に突入して燃えつきます。まれに燃えつきないで落ちてくるもの(いん石)がありますが、どちらも大気中で光を発しますので、 それが私たちの目に流れ星として見えるわけです。
 とくに彗星[すいせい:ほうき星]がまきちらしたチリのかたまりの中を地球がとおると、一度にたくさんの流れ星を見る ことができます。これを流星群[りゅうせいぐん]といいますが、まいとし夏にあらわれるペルセウス座流星群はよく知られて います。流れ星を観察するにはよい機会[きかい]ですので、みなさんもぜひチャレンジしてみましょう!

しし座流星群
2001年11月19日に青木昭夫氏が撮影



人びとの生活と流れ星

 むかしの人びとは流れ星に対してさまざまな思いをもっていました。夜空をかけるひとすじの光は不気味な存在だったに ちがいありません。流れ星には、地域によっていろいろなよび名があり、また言い伝えなどの伝承もたくさんのこされています。

【 流れ星の名前 】
 むかしの人びとは、暗い夜に流れ星を見てなにを考えたのでしょうか。日本人がつけた流れ星の名前をみると、その思いが 伝わってくるような気がします。まず、古い記録では清少納言[せいしょうなごん]が書いた『枕草子[まくらのそうし]』に ヨバイボシというのが出てきます。これは日本の古いことばである「よばう」が婚い[よばい]に変化したもので、流れ星が ほかの星に恋をして呼びかけに行くのだとみていたようです。
 これと似たような意味をもつ ホシノヨメイリ [星の嫁入り]という美しい名前が、和歌山県の田辺市に伝えられています。さらに遠く離れた南の沖縄地方では、 ヤーウーチィブシ と呼んでいました。ヤーウーチィというのは、「屋移り[やうつり]」という意味で、南の島の人びとは星が流れるのは引っ越しを するためだと考えていたのです。
 そのほか、流れ星の現象をそのままあらわした トビボシ[飛星]、 オチボシ[落ち星]、 ヌケボシ[抜け星]、 ハシリボシ[走り星]などが知られています。いずれも、夜空の星が落ちてくるものとみたのでしょうか。同じように、星がどこかに 遊びに行くという見方もあります。
 ところで、流れ星にはもう一つおもしろいとらえ方が知られています。それは、星が流れるのを尾の長い鳥がとぶようすにたとえた 見方です。野生[やせい]で尾の長い鳥というと種類はかぎられますが、この場合はおそらくヤマドリやキジなど、野山にいる大型の 鳥を想定[そうてい]しているのではないかと思います。

【 流れ星の伝承 】
 流れ星にかんする言い伝えは、日本の各地でたくさん記録されていますが、ここでは関東地方の伝承をご紹介します。 まず、流れ星が出るとよくないことが起こるという言い伝えがあります。
◆星が流れると人が死ぬ(群馬県、埼玉県など)
◆流れ星が飛ぶと山火事が起こる(東京都西多摩郡)
◆ヌケボシが屋根に落ちると、その家ではなにか悪いことがある(長野県上伊那郡)
◆星が流れると雨か嵐になる(東京都西多摩郡)
◆流れ星が飛ぶと縁起[えんぎ]が悪い(埼玉県秩父郡)
 反対に、流れ星の出現が幸運をまねくとする伝承につぎのようなものがあります。
◇流れ星が自分の方に向かって飛んでくればお金が入る(埼玉県所沢市)
◇流れ星を見たら、それが消えないうちに願い事をすればかなえられる(神奈川県、埼玉県など)
◇流れ星を見つけたら、それが消えないうちに「ヨビャアボシ、ヨビャアボシ・・・・・」と何回も唱えると縁起がよい (東京都西多摩郡)

 みなさんが生活している街や村でも、まだ流れ星の名前や伝承がのこっているかもしれません。お年寄に話をきく機会が あったらぜひたずねてみましょう!



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