2018.04.05

主日の義務 18

今田健美神父様

(1910-1982)

デルコル神父様

(1920-1995)

リベロ神父様

(1927-2000)

私は今回の一連の記事の中で、今田健美(こんだ たけみ)神父様、エンリケ・リベロ神父様、そしてアロイジオ・デルコル神父様のことを「立派な神父様」として紹介した。

けれども、駄目な私がこんなことを言うのも何だが、これは彼らが「全く理想的な」神父様方だったということを意味しない。例えば、リベロ神父様とデルコル神父様はもちろん、たぶん今田神父様も、信徒の手に御聖体を与えただろう。しかし、私はこのことには目をつぶった。彼らがルフェーブル大司教様を認識しなかったことにも目をつぶった。

しかし、それらのことに目をつぶってでも、彼らのことを「立派」と呼ぶことには意味がある。それはつまり、比較上のことである。比較に於いて、彼らは現在の神父様方・司教様方よりは「ずっと良い」「遥かに良い」。

彼らの時代に於いては「情報」がまだ足りなかったことも、私は勘定に入れた。彼らの時代には、インターネットは一般には「なかった」に等しい。私が1990年代の中頃、モデム付きのワープロ(←どうでもいいリンク)で覗いたその世界は、まだ貧相だった。

しかし現在では、神父様方はその気になれば、インターネットを通して様々な情報を得ることができる。聖ピオ十世会のサイトには抵抗があるのだとしても、国際 Una Voce 連盟のかつての会長マイケル・デイヴィス氏の文章など、少しぐらい読んで何か感じたらどうだ。(デイヴィス氏の文章でも足りないというのなら、ここ日本では、不肖私が、悪い頭で頑張って、幾つかの事を提示した)

今の時代も、神父様方は皆(若干の例外を除いて)その主観に於かれては、その人間的な “お気持ち” に於かれては、「善良」な人たちだ。皆「いい人たち」だ。こんな言い方はどうかとも思うが、彼らは痩せても枯れても「カトリック司祭」だ。そんな、思いっ切り「悪人」である者、分かり易く「悪人」である者など、そうそう居るものではないのだ。私はこの事を認める。

しかしながら、こと「信仰の認識」に関しては、信頼に足る神父様が少なくなった。皆無になったのではないにしても、極めて僅少になった。今田神父様が、「大丈夫かな?」という目で見られるのはまだいいほうで、「どうせ、変なことを言う人が一人増えただけだろう?」と思われたりする、とお書きになったのは1970年代だ。今は2018年。しかし、そのような状態が終わったわけではない。

しかし、教会のそんな状態が、私たちが腐って怠けていい理由にはならないことを、箴言(格言の書)が教えている。

箴言 6:6-9

なまけ者よ、蟻を見にいけ。
そのすることをよく眺めて、知恵者になれ。
蟻には、かしらも、
監督者も、上司もないが、
夏のあいだに食糧をたくわえ、
刈り入れのときにたべものを集める。
なまけ者よ、あなたはいつまで寝ているのか。

私たちは「きつい現実」をちゃんと認識しておくべきだ。すなわち、私たちは、一旦地獄に堕ちてしまったら、「だって、地上にある間、司祭たちはそうは教えてくれなかったんだ! いい司祭が居なかったんだ!」と、どんなに叫んでも、後の祭なのである。

だんだんに

だから、「だんだんに」というやつに気をつけることだ。

現代の神父様方は、キリストの司祭であるのに、よりによって、信徒たちの心に「生ぬるさ」を注入している。しかし、そんな「甘やかしの水」にすっかり浸かって、軽い理由で主日の御ミサを欠席するのが習慣になれば、「だんだんとキリストのみ教えを忘れる可能性がある」リベロ神父様、「だんだん神と自分との間柄が疎遠になってゆきます」今田神父様

面白いことに、この二人の神父様はこのように、共に「だんだんに」と言っている。しかし、この一致は偶然ではない。何よりも「人間の実際」に目をとめ、そこから信徒のことを「心配」する神父様方は、必然的にこういう口振りになる。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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