これから、ヨゼフ・マリ-ジャック神父様の『舌の上に受ける御聖体拝領の弁護』(1982年)から気づかせてもらった或る事について書いて行こうと思うけれども、その前に、マリ-ジャック神父様の『弁護』そのものに何らかの “違和感” を抱く人も少なくないのではないかと思うから、少し書いておきたい。
*
多くの人が違和感を抱きかねないのは、そこに「悪魔」や「サタン」という言葉が何度も登場すること、そして、それらと結び付いたいわゆる「陰謀論」を含むこと──否、「含む」と云うより、それそのものであること──この辺りではないかと思う。
しかし、まず「悪魔」ということだが、私は、一人のカトリック司祭の口からそれについての言及が出ることに何の不思議も感じない。否むしろ、ほとんど滅多にそれについて話さない「カトリック司祭」の方が、私の目には圧倒的に “奇異” である。何故なら、それについての記述が『聖書』の中に多く見られるから。
「陰謀論」的なものについても同様に言うことができる。
『聖書』によれば、当時のユダヤ教の祭司たちは主を〈陥れ〉ようとしなかったか? そのために何事かを〈企ま〉なかったか? 人々に金を掴ませて〈偽証〉させようとしなかったか? また、主ご自身、選ばれた人達をさえ〈迷わそう〉とする者たち(又、霊)のことに言及されなかったか?
ハイ、この二点については終わり。
*
人々がマリ-ジャック神父様の『弁護』を読んで “怪訝に思う” 場合が、まだ他にもあるかも知れない。それは、文章内容自体として、マリ-ジャック神父様が何を仰っているのか分からない、私達にはそれが見えない、という場合である。例えば、次の箇所など。
次に、日本の司教協議会が、御聖体を信者らの手に授けることについて得た「許可」のことに移ります。浜尾司教様が、わたしに、日本の資料をお示し下さったことに感謝しております。わたしは、直ちに日本の文書が、1969年6月6日附で、フランス司教協議会の議長にだけ宛てられた「典礼聖省」からの「書簡」の逐語訳にほかならぬことをみて、ショックを受けました。この書簡は、「各司教に、その慎重さと、良心に従って」(司教協議会全体に対してではありません)信者の「手」に、御聖体を授けることを許したものです。これがまず、わたしの気付いたことであります。日本は、つまり、一年前にフランスで与えられた「許可の本文」を、そのまま、自分のために、利用したにすぎないのです。とすれば、本来、この「書簡」は、日本の司教協議会に宛てられたものではありません。なぜなら、フランスの司教協議会によって、差し出された要請によって、その会長に与えられた返答に他ならないのですから。
マリ-ジャック神父様が仰っている「書簡」とは、基本的には、今までここでも何度か言及している『各司教協議会宛の書簡』のことである。しかし私達は、それを読み、そしてマリ-ジャック神父様の上の言葉を読んでも、マリ-ジャック神父様が何を仰っているのか、事の真実が、よく分からないだろう。
私自身がそうである。まだよく見えてない。
(しかし確かに、「フランス」ということでは何かありそうである)
しかし、必ずしも「全て」が理解される必要もないだろう。
私は、マリ-ジャック神父様のお言葉の「断片」から重要な事に気づかせてもらったので、次にお伝えする。
|
羅 |
仏 |
蘭 |
独 |
英 |
伊 |
日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
教書 |
|||||||
書簡 |
なし |