2015.02.08

無思慮な一致崇拝 Part 4

彼らの理由

 さて、やっと Part 3 からの続きです。

 日本の司教協議会は、日本の信者たちに、この木を取り囲んで「一致」するよう呼びかけています。

このー木なんの木 気になる木

 最近、彼らはその呼びかけを改めてしました。

日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針
(2014年)

拝領のときの姿勢について
3 拝領者の姿勢については、信者は司教協議会の決定に従って、ひざまずくか立って拝領する 2) と定められている。これに基づき、日本においては、ミサが行われる場所の事情、ならびに拝領者が特別な理由により立つことができない場合を除いて、原則として立って拝領することとする。これは、一同が同じ姿勢で拝領することによって、ミサに集まった会衆の一致をしるしとして表す3) とともに、拝領のための行列が円滑に流れるようにするためである。しかしながら、ひざまずいて聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことはできない 4) 。

2)

「ローマ・ミサ典礼書の総則」 160 参照。

3)

同42 参照。

4)

教皇庁典礼秘跡省指針『あがないの秘跡(2004年3月25日)』91(Redemptionis Sacramentum)参照。

PDF

 私は、こういうのを見ると、「文章というものの持つ危険さ」を改めて見る思いがします。多くの人達はこれを何となく読み、これを「正しい」と思ってしまうでしょう。

 この新指針は、
 ①「原則として立って拝領することとする。これは…」
 と言葉を運びます。これは〈理由〉を言う言い方です。何の理由かと云うと、「原則として立って拝領することとする」ことの理由です。二つ挙げられています。
 ②「ミサに集まった会衆の一致をしるしとして表わすため」
 ③「拝領のための行列が円滑に流れるようにするため」

 そして、② も ③ も、まあ、「善」なのです。
 そして、カトリック信者は「善」に弱いのです。特に、自分が「一致のしるしを破る傷つける」ことにはなりたくありません。

 しかし、以前若干見たように、「善」の問題は実はそう簡単ではありません。
 この場合も、下手をするとこんな事にもなりかねません。↓

 「一致のしるしを破ること」を特に勧めているわけではありません。しかし、本当に、「それ以上に大事なこと」は “ない” と思いますか?

 ざっと素描させて下さい。
 素描ですから細かな突っ込み所はあるかも知れませんが。

 まず二番目の理由から。

日本においては(…)原則として立って拝領することとする。これは、(…)拝領のための行列が円滑に流れるようにするためである。

 この理由は飽くまで「立つこと」と「跪くこと」の混在が不可能ではない現在の状況から言われたことです。いわば「状況的な理由」です。この理由は「立って拝領すること」それ自体の価値を証ししているわけではありません。

 最初の理由。

日本においては(…)原則として立って拝領することとする。これは、一同が同じ姿勢で拝領することによって、ミサに集まった会衆の一致をしるしとして表す(…)ためである。

 しかし、「会衆の一致をしるしとして表す」ためなら、別にこれでも良かったのです。↓

 これによっても「会衆の一致のしるし」は十分に成立します(「しるし」がそんなに大事なら!)。「会衆の一致のしるし」のためには基本的には「共通の姿勢」が必要なだけですから。

 だから、彼らは新指針で「原則として立って拝領することとする理由」を言ったわけだけれども、しかしそれは、彼らが日本の教会の原則のために「立って拝領すること」を選んだ理由を言ったものではありません。

 「選んだ理由」を言っていたなら、例えばこうなっていたかも知れません。

日本においては(…)原則として立って拝領することとする。これは、それが日本の文化に合っているからである。

 そして、しかし、もしこのような「理由」が天主の典礼にとって必ずしも適切でないものなら、“全体が怪しくなる” のです。

『総則』が言ってるから?

 こう言えます。

 彼らが言っているのは「そもそも論」ではない。彼らが日本の教会の原則として「立って拝領すること」を選んだ理由なのではない。飽くまで、「立つこと」と「跪くこと」の混在が不可能ではない現在の状況の中で、それを言ったのである。

 そして、もう一つは『総則』である。彼らが立脚しているのは『総則』である。新指針が「これに基づき」と言っているように、そして脚注でそれを引いているように、彼らは『総則』を基礎として言っているのである。そして、カトリックの文書主義の中で地位の高いらしい『総則』がそう言っている限り、彼らはそれを疑う必要を何ら認めないというわけである。

 しかし、「否」です。それは疑われるべきです。
 何故なら、「手による聖体拝領」のことを振り返ってみましょう。

 物事には「果[み]」もあれば「根」もあります。
 だから、何故、『総則』だけ見ていれば十分なんです?

 現在の『総則』は頭から信じていいものではありません。

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