「一致」は無条件に良いのではない(2)
「一致」は無条件に美しく尊く善いわけではありませんよね。
ただこんな状態↓でありさえすればとにかく尊いというわけではありませんよね。
「一致、一致」と言うけれど、いったい私達は、
「何に於いて」一致しようとしているのか、
「何のもとに」一致しようとしているのか。
──という点がすこぶる大事ですよね。
その点からすると、上の絵には何かが不足しています。
人々が「一致」する時というのは、何かを互いに「共有」し、その周りに集まり、心を一つにしてその「何か」のために働くからこそ「一致」なのです。しかし、上の絵にはその「何か」が表示されていません。人々の輪の中心が空(empty)だからです。是非ともそこに何かあって欲しいものです。
例えば、こんなふうに。
見るからに健康そうな木ですね。このような木を取り囲んで「一致」している人達は、きっと幸せでしょう。
飽くまでそういう事ですよね。
人々がとにかく「一致」しているから尊いのではない。それでは十分ではない。上の絵で言えば、人々が「善い木」を取り囲んで「一致」しているからこそ、その「一致」は善いのである。
そうでない場合は、いくら「一致」していたって駄目ですよね。
一応、綺麗な木ですね。しかし同時に、どこか不気味でもあります。枝に蛇でも絡み付いていなければいいのですが。
つまり、もし人々が取り囲んでいる木が「怪しい木」だったら、人々がその木を取り囲んでどんなに緊密に「一致」していたとて、全体は怪しくなる。その「一致」した状態の価値は怪しくなる。そうですよね。
以上、このような事は、本来、中学生でも分かりそうな事です。
ところが、現在の私達の教会では、このような基本的で大事な事が、いわゆる「お留守」にされて、問われずに、ほとんど全く「とにかく式」で、「一致、一致」と繰り返されているのです。
補足)なお、ただ「怪しい」というだけでは確かに足りません。斥けるために。──次回から、「明らかにおかしい」だったり「明らかに欠陥ある」だったりする事を見て行きます。