2014.05.02

教会を「しるし」と呼べば教会は衰退する

力持ち

 仄聞するところによると、名古屋の或る教会が閉鎖になるかも知れないと云う。本当だとしたら残念なことである。

 しかし、私は思う。現代の神父様方は、第二バチカン公会議によって、こんな時に十分に嘆く心を取り除かれていると。あなた方が第二バチカン公会議の教える展望に親しんでいれば、あなた方は教会の一つや二つ閉鎖されたぐらいでは嘆かないぐらいの堅固な「希望」を維持するのである。今まで見て来たように、第二バチカン公会議は「召命」も「神的」も「神の子ら・神の家族」も教会の壁の外にまで拡げてしまったので、それを信じれば、どうしてもそうなる。つまりその時、あなた方は騙されて偽の希望を掴まされ、それを深く信じ込むことによって教会の衰退に自ら手を貸しているのである。世俗の偉い立場の人達がしばしばするように、向こうの世界に行ってから天主様の前で「結果的に」という言葉を使った苦しい答弁をしなければならなくなりませんように。

 以前、こう書いた。

 「究極的」だの「普遍的」だのと云った言い方(…)に簡単に頷いてしまう人が神父様方の中にも居るのです。そして、そのような人は「教会」をさえ「全人類一致」(という曰く "究極的な目的")のための〈道具〉であるとか言ってしまいます。例:松浦司教様 (PDF)
 (そもそも教会憲章がその1番で言っているわけですが。)

 それは松浦司教様のこの言葉を念頭に言ったものだった。

教会憲章は教会とは何かをはっきりと打ち出しています。教会はしるしであり、道具であり、世界の和解と一致のために働くものです。教会を私たちキリスト者と読み替えてもいいです。

 彼の言葉はここから来ている。

教会憲章

1.(…)教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。

 (英訳版では..  しるし = sign,  道具 = instrument)

 最初に結論を言っておく。
 第二バチカン公会議のこのような「方向指示」が教会を衰退させるのである。

 妙な事を言うと思われるかも知れないが、本当である。

教会は「しるし」なのか

 難しい言葉を使わず、素朴に考えさせてもらう。何故なら、難しい言葉を使いながらも物事を意外と簡単に考えているような神父様方も居るようだからだ。

 「秘跡とは、神の目に見えない恵みの目に見えるしるしです」
 私はこの信仰を知った当初、「秘跡」というものがそのように説明されているのを見て、ちょっと違和感を感じたものである。何故なら、その言葉「しるし」は私達の日常生活の中にも余りに有り触れていて、まずは「マーク」みたいなものを連想させるから。

マーク

 これらの「マーク」は、私達に、目に見えないもの、「意味」を知らせる「しるし」である。そう、これらだって、そのような「しるし」である。私達の日常生活に於いては有用なものである。しかしそれでも、これら自体のことを考えると、或るものはシールであったり、或るものは地図上の印刷だったりして、大したものではない。言ってみれば、ペラペラの存在である。一つの "形骸" である。だから、この「しるし」という言葉は、「秘跡」を説明するものとしては、私の耳に頼りなく響いたのである。

 もちろんその後、秘跡に於ける「しるし」とは天主様から与えられる「恩恵」「霊益」とピッタリ結び付いたものであると知って、私は自分の頭を──と云うより感覚を──整理したが。

 しかし、実は違和感はまだ残っている。
 そして、むしろ「残すべきだ」と思っている。

 と云うのは、言葉というものは恐るべきもので、私達の感覚に実に訴えるもので、特にこの「しるし」という言葉は私達の感覚にとって日常的なイメージをしつこく身にまとっているからである。それは、私達が油断すれば、私達を再び日常的なイメージの方へ引っ張り返そうとする。

禁煙マーク

 現に、イエズス会の具正謨(クー・チョンモ)という神父様などは、秘跡に於ける「しるし」ということを説明するために「禁煙マーク」を持ち出したようである参照。「あくまで説明の一助としてそうしたのだ」と言うかも知れないが、おかしいと思う。

 勿論、秘跡に於ける「しるし」が、他のあらゆる「しるし」と共通の要素を持っているのは事実であり、また当然である。つまり、「しるし」と云う「しるし」、文字通りあらゆる「しるし」が、「目に見えないもの(意味等)を私達に知らせる、想起させる」という共通項を持つ。しかし、だからこそ、ここに危険がある。私達は秘跡に於ける「しるし」という言葉を注意して扱わなければならない。それは単に「目に見えないものを私達に知らせたり思い出させたりするマーク」のように考えられてはならない。そのようなイメージの方に "寄って" もならない。秘跡に於ける「しるし」は、「天主様から与えられる超自然の恩恵とピッタリ一つのもの、"密接不離" に結び付いたもの」と、常にイメージされなければならない。確かに、そこに於いて「しるし、即、恩恵」ではないかも知れない。しかし、秘跡が正しく執行された場合、そのような二分法などほとんど意味をなさなくなる位、そこには強い結びつきがあると考えるべきである。ところが、現代の或る種の神学先生方に依れば、秘跡に於ける「しるし」も、他のあらゆる「しるし」と同様、単に私達に〈精神的なインパクト〉を与えるものに過ぎないかのようである。

 また、教会の社会活動の方で目立ったスピーカーである松浦司教様は、教会憲章の教えに素直に、「教会はしるしであり、道具であり、世界の和解と一致のために働くものです」と、ペラペラっと話す。
 ペラペラっと、である。つまり、彼はよく考えているのか?

 
smoke signals

狼煙(smoke signals)を上げる人

 彼らは毎日「言葉」というものと睨め競[にらめくら]をしている筈だが、果たしてどれだけそれに敏感だろう。日本国憲法に「福音的」という語を当てる彼らは。参照

教会を「しるし」と呼べば教会は衰退する

 教会憲章が教会を「しるし」と言う時、それは「秘跡的なしるし」の意味である。しかし、上で見たような神父様(具神父様)も居るのだから、まずは日常的な感覚でこの「しるし」という言葉を使った場合のことを考えてみよう。

 私達の日常的な言語感覚に於いて、「しるし」の代表的なものの一つとして「旗」があるだろう。しかし、カトリック信者である人が教会を「人類一致という理想を高く掲げる旗」のようなものだと考えるならば、その人は教会の衰退に手を貸す人である。何故ならば、人々は特に「旗」の許には行かないからである。人々は「旗」を見上げ、何事かを己が胸に興し、そしてどこか別の目的地に行ってしまう。

 次に、教会は人々に「人類一致」に至る道を教える「道路案内標識」のようなものだろうか。もしあなたが「そうだ」と言うならば、やはりあなたは教会の衰退に手を貸す人である。何故ならば、人々は「道路案内標識」の下に集まらず、その下をくぐって行ってしまうから。

 なんだか笑い話みたいになったが、否、私は決して馬鹿にできないと思う。あなたが教会の衰退を憂うならば、教会を「しるし」と打ち出さず、「目的地」と打ち出さなければならない。

 考えてもみるがいい。教会は地上で天主様の御霊が最も色濃くまします場所である。教会は「しるし」であるよりも遙かに「実質」である。そこに人々を導かなくてどうするのか。

 しかし、あなた方司祭は「秘跡」(特に御聖体の秘跡)についての考えが変わってしまったので、容易にこれに首肯しないのである。(私達はその典型的な例をじきに見るだろう)

教会は「前表」としての「しるし」なのか

 教会は全人類がやがて辿り着く一致の「前表」としての「しるし」なのか。そうだと言うなら、どうしてそう言えるのか。以前見たように、神がその事を「人間理性が達することのできない視野」として示しているからか。しかし、それをどうやって私達の人間理性が受け取ることができるのか。──根拠が無い。
 そして、私はこう思う。将来に於いても全人類は残念ながら一致せず、天主様の厳しき〈選別〉に遭うだろうと。

教会憲章の言葉は教会の衰退を招く

「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(教会憲章 1)

 第一に確認すべきは、この言葉が言っている「全人類一致」とは現代世界憲章が言うところの「真理と愛に於ける人類の一致」参照と同じであって、「天主の教会に於ける人類の一致」という意味ではないと云うことである。

 何故ならば、もし教会憲章が言う「全人類一致」が上の後者の意味であるなら、「天主の教会は、全人類が天主の教会で一致すべき事を世に示す "しるし" である」と云う、どこか間抜けな文になってしまうからである。天主の教会は初めから現在に至るまで、常に率直に、全人類を自分の許に招いている。その事のための "しるし" であるわけではない。

 だから、教会憲章の言っている「全人類一致」とは、「事は急を要するから、この際、仏教徒は仏教徒のままでもいいから、イスラム教徒はイスラム教徒のままでもいいから、共産主義者は共産主義者のままでもいいから、無神論者は無神論者のままでもいいから、とにかく皆、"真理と愛" に於いて一致しよう」ということである。

 教会憲章は言うのである。天主の教会はそのように、天主の真理をひとまず脇に置きながら、その種の "一致" を理想として掲げ、あたかもそれが天主の御望みであるかのように掲げ、地上に広く発信するものとして地上に立っている、"しるし" として立っている、と。

 だから、教会憲章のそのような打ち出し方は、教会を衰退させるものである。疑問の余地はない。

 「教会の衰退」という言葉で私が意味するのは、所謂「教線が伸びない」「信者数が増えない」「教会の閉鎖が続く」という事である。どの神父様もこれには同意してもらいたい。教会自身が自分を人々にとっての「目的地」として打ち出していないのだから、信者が増える筈がない。

 しかし、第二バチカン公会議の精神に親しんでいる聖職者は、冒頭で書いたように、教会の一つや二つ閉鎖されたぐらいでは嘆かないぐらいの堅固な「希望」を維持するのである。何故なら、彼らにとっては、教会の一つや二つが閉鎖されても、地上から全く無くなりでもしない限り、少ない教会からでも、司祭と信徒は「社会の福音化」のために働き続けることができるからである。

教会憲章の言葉は天主に対して不遜である

「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(教会憲章 1)

 「しるし」という言葉に続いて問題にしたいのは、勿論「道具」という言葉である。憲章は「いわば秘跡」であるものを「道具」と呼ぶ。

 しかし、「いわば」であろうが何であろうが、私達にとって「秘跡」とは、天主様から授かるところの尊い上にも尊い「賜物」である。だから、天主様に対する心の姿勢として、つまり「謙遜」ということに於いて、「秘跡」を決して「道具」と呼ぶべきでない。

* * *

 まとめれば、教会憲章は、
 天主の教会の目的を「信仰を問わぬ全人類一致」に置いていることによって〈裏切り者〉である。
 且つ、教会をその目的のための「道具」と呼んでいることから、内に〈傲慢〉を隠し持つものである。

もう一度特筆大書する。

教会は「しるし」であるよりも
遙かに「目的地」でなければならない

当り前だろう!

考えさせられ過ぎて判らなくなってしまった司祭たちよ!

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