2014.03.25

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 12

私達はカトリック信仰に於ける "通常の言い方"()を保つべきです。

「神的」 という言葉の意味合いを
教会の外にまで拡げる現代世界憲章

現代世界憲章

(前回と同じ箇所)

それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。

Therefore, this sacred synod, proclaiming the noble destiny of man and championing the Godlike seed which has been sown in him, offers to mankind the honest assistance of the Church in fostering that brotherhood of all men which corresponds to this destiny of theirs.

 まず第一に知っておいていいのは、「人間という存在に関するこのような見方は宗教界の何処にでも転がっている」という事でしょう。

 例えば、Part 7 で取り上げた神智学協会という悪魔教も似たような事を言っています。

神智学は、万物が進化していると説く。人間も存在の源──神と呼ぼうと、一者と呼ぼうと──へと向かう道を進んでいる。

 神智学 (Theosophy) はニューエイジ宗教の代表格、ほとんどその源泉のようなものです。

 また、恥を忍んで言えば(?)、私が若い頃経験した白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)という宗教も似たような事を言っています。

人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、業生(ごうしょう)ではなく…

 つまり、「人間は神から出たものであって、その本質から罪深いものであるのではなく…」という意味です。

 「人間はその本質から罪深いものですか?」と問われれば、私も少々難儀します。何故なら、天主様は御創世の時、御自分の為された一通りの御業を御覧になり、「非常によし」と思われたからです。しかし、「本質」という言葉を使って素朴にされたその質問は、救霊に関する天主様のあれらの聖言の前では、どこかそれ自体が質問の仕方として不十分と思われます。もし本当に「永遠の刑罰」に陥る人間が居るならば(私はそう信じますが)、「本質」という言葉を使った人間に関するどのような文も消し飛んでしまいます。

 実際、この種の見方・言い方は宗教界の何処にでも転がっているでしょう。

 「何処にでも転がっているからどうだというのだ。それらの宗教だって神の光を受けてそのような事を言っているかも知れないではないか」と言うならば、もう少し検討しましょう。

 私の考えでは、その種の展望は「現実的」でなく、また「危険」を含むものです。

 「非現実的」ということについては既に書きました(参照)。あれで十分だと思います。あれは私が論じていることではなく、私達の地上の現実が語っていることです。
 「非現実的」なものは人を真理に導かないので善くないものです。

 そして、何故「危険」を含むかと言えば、その種の展望は「人類の霊的進化」のようなものを──「人類は、科学技術に於いてばかりでなく霊的にも、ほぼ自然的に進化する、善くなる(例外的にその進化過程から逸れる個人はあるとしても)」というような事を──言っているのですが、「原罪」と「洗礼の必要」を知らないからです。

 「他宗教ならば知らなくて当然だろう」と言うならば、憲章の事に話を絞りましょう。
 憲章は言っています、「公会議は人間の中に "神的な種子" が置かれていることを肯定する」と。しかし、このような言い方はやはり「人類はほぼ自然的に進化するもの」というイメージを人に抱かせるものではないでしょうか。何と言ってもそれは「種子」なのです。種子は「自然的に芽吹く」ものではないでしょうか。

 このような人類の霊的進化論のようなものは、カトリック界では他にテイヤール・ド・シャルダンの中にも見られるようです。彼はニューエイジ宗教の人々に好かれています。

 しかし、このような人間観を推し進めれば、やがて「洗礼は必ずしも必要ないもの」という少なくとも "雰囲気" が醸成されるのではないでしょうか。(既にそうなっていると思います)

 兎も角、「現代世界憲章は『神的』という言葉を教会の外にまで拡げている」という事を確認して下さい。

「信者」 も
「未信者」 も

共に 「神的」

聖座忠誠派の人達も気づいてくれ。悪しき形で「へだての壁」を取り払いたがっているのは正平協の司祭達だけではないということを。

 そしてAA1025のことを思い出せば、「人間の中には "神的な種子" が置かれている」という憲章の言葉は、彼の言う「人間への信頼」ともピッタリと符合するものではないでしょうか。

現代世界憲章11

公会議はまず第一に、今日特に高く評価されているような諸価値を、信仰の光のもとに判断し、その源泉である神に関係づけようと考える。これらの価値は神が人間に与えた才能から産み出されたものである限り、非常によいものであるが、人間の心の腐敗によって、それらが正しい秩序からはずされることも稀ではない。そこで浄化が必要となる。

This council, first of all, wishes to assess in this light those values which are most highly prized today and to relate them to their divine source. Insofar as they stem from endowments conferred by God on man, these values are exceedingly good. Yet they are often wrenched from their rightful function by the taint in man's heart, and hence stand in need of purification.

 「今日特に高く評価されているような諸価値」とは具体的にどういうものなのか明示されていないようであり、奇妙な文章です。しかし、時期的に国連の動きが活発になって来た頃だろうから、まあ、「基本的人権」「人間の尊厳」あたりのことなのでしょう。憲章はこれらの価値観が「神に由来」するものだと言うのでしょう。
 もちろん、あらゆる善が「神に由来」します。そして、全ての善が基本的に──〈それだけ〉を見た場合──「善いもの」です。
 しかし、私達は「善」と見るやその全てに「神的」という形容を付けるべきではないでしょう。例えば、もし誰かが「人に迷惑を掛けてはらない」という初等道徳を「神的」とまで言って持ち上げれば、人はどちらかと云うと笑うでしょう。
 ここでも「現代世界憲章は『神的』という言葉を教会の外にまで拡げている」という事を確認して下さい。

「聖書の言葉」 も
「共通善の言葉」 も

共に 「神的」

「上も下もないんですか?」 という話。

現代世界憲章22

「見えない神の像」(コロサイ 1・15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。人間性はキリストの中に取り上げられたのであって、消滅したのではない。このこと自体によって、人間性はわれわれにおいても崇高な品位にまで高められたのである。事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。キリストは人間の手をもって働き、人間の知性をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛した。かれは処女マリアから生まれ、真実にわれわれのひとりとなり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった。

He Who is "the image of the invisible God" (Col. 1:15), is Himself the perfect man. To the sons of Adam He restores the divine likeness which had been disfigured from the first sin onward. Since human nature as He assumed it was not annulled, by that very fact it has been raised up to a divine dignity in our respect too. For by His incarnation the Son of God has united Himself in some fashion with every man. He worked with human hands, He thought with a human mind, acted by human choice and loved with a human heart. Born of the Virgin Mary, He has truly been made one of us, like us in all things except sin.

 この箇所については糸永司教様についての所(非現実的)で既に触れました。

「キリスト」 と
「我々人間」 は

罪を除けば
"すべて" に
おいて 「同じ」

「罪を除くな、厚かましい」 ということ、そして 「イエズス様は御肉体を持ちながらも超自然的な知覚もお持ちだったろう」 ということも言いました。参照

同じく、

現代世界憲章22

このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。事実、キリストはすべて人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。

All this holds true not only for Christians, but for all men of good will in whose hearts grace works in an unseen way. For, since Christ died for all men, and since the ultimate vocation of man is in fact one, and divine, we ought to believe that the Holy Spirit in a manner known only to God offers to every man the possibility of being associated with this paschal mystery.

 ここについても Part 7 で既に触れました。
「究極的」だの「普遍的」だのと云った言い方には本当に気をつけなければならないと思います。重々しく言ってはいますが、その言葉は本当は「言ってみれば」とか「煎じ詰めれば」とかいう軽い言い方と大して変わりがありません。(つまり「抽象」です)
 しかし、このような言い方に簡単に頷いてしまう人が神父様方の中にも居るのです。そして、そのような人は「教会」をさえ「全人類一致」(という曰く "究極的な目的")のための〈道具〉であるとか言ってしまいます。例:松浦司教様 (PDF)
 (そもそも教会憲章がその1番で言っているわけですが。)

現代世界憲章29

すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。

Since all men possess a rational soul and are created in God's likeness, since they have the same nature and origin, have been redeemed by Christ and enjoy the same divine calling and destiny,

 "究極的" な言い方をして同質性ばかりを拾うこの筆者は──私は確信するので断言しますが──詐欺師です。
 天主様は人類を、第一に御自分に対する信仰に招いておられます。

現代世界憲章42

キリストがその教会に託した固有の使命は、政治・経済・社会の分野に属するものではない。キリストが教会に指定した目的は宗教の領域に属する。ところで、実にこの宗教的使命そのものから、神定法に基づいて建設し確立すべき人間共同体のために役立つ任務、光、力が出てくる。

Christ, to be sure, gave His Church no proper mission in the political, economic or social order. The purpose which He set before her is a religious one. But out of this religious mission itself come a function, a light and an energy which can serve to structure and consolidate the human community according to the divine law.

 ここで言われている「神定法」とは、天主の十戒で言えば、第一戒から第三戒を含まないものでしょう。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、父母を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、かんいんするなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人のつまを恋うるなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

 つまり、彼にとっての「神定法」は、「神の(divine)」とは付いているに拘わらず、実は「信仰」の事を含まず、ただ「愛」のみを意味するでしょう。

 世の神父様方、彼のこのような "言葉運び" を聞いていて、あなた方は "気持ち悪く" ならないのですか?

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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