2014.01.04

司祭の心を迷妄に導く現代世界憲章 Part 3

まとめのイラスト

「高度な神学」の風に吹かれて司祭は言う、「聖霊だ〜、聖霊だ〜」。否、もし司祭の足がそれによって「聖書」と「現実」から離れることになるなら、それは決して「聖霊」ではない。どこか別の源泉から吹いて来た風である。

現代世界憲章についてもう少し

現代世界憲章(Gaudium et Spes)22 から

 「見えない神の像」(コロサイ 1:15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。人間性はキリストの中に取り上げられたのであって、消滅したのではない。このこと自体によって、人間性はわれわれにおいても崇高な品位(divine dignity)にまで高められたのである。事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。キリストは人間の手をもって働き、人間の知性をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛した。かれは処女マリアから生まれ、真実にわれわれのひとりとなり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった。

 「罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった」だと。
 これに対して普通の現実的な感覚を持った人は言うだろう──
 「それが何だっていうの」

 憲章の有り難い御言葉を有り難がって受け取らない私は不逞だろうか。否、不逞なのは憲章の方である。読者はこのインチキな作文にだまされてはならない。何故「罪を除いて」であるのか。

 人は上の憲章の文章を見て、「そんなにおかしな所はない」と感じるかも知れないが、それはこの文章そのものに目を取られるからである。しかし、ここでもやはり、少し遠目に見て、カトリック信仰の「全体」との絡みということで考えてみなければならない。

 私はこう思う。
 天主の宗教は「霊魂の聖なること」を求めるので、「罪を除いた」話は第二、第三の地位をあてがわれるべきである。然るに憲章は「罪を除いた」話を拡大表示し、それによって「キリストの人類との一致」などという途方もない(全く "不自然" な、無理っぽいこと甚だしい)結論を導くための一助とするのだから、甚だ不逞である。

 そしてまた、「罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった」という言い方自体も不正な誇張である。

「あなたがフィリポから呼ばれる前に、いちじくの木の下にいるのを、私は見た」「ラビ、あなたは神の子です」「いちじくの木の下にいるあなたを見たと言ったので、あなたは信じるのか」

聖ヨハネ福音書第1章に於けるナタナエルとの会話

 ここに於ける「見た」というのは「肉の目で見た」ということではない。彼は知覚からして「われわれと同じ」ではなかったのである。
 (こんなことは当然のように思われる。)

 「私達とは共通した部分もいっぱいあったが、また異なった部分もいっぱいあった」ぐらいに思っておくのが適当である。

聖職者を盲目にさせようとする動き

 「崇高な品位(divine dignity)」などという人間に献上された歯の浮くような誉め言葉はどこから来たのか?
 神と人類との親密さを非現実的に強調するあれらの言葉、一見良さそうに見えるが人々を現実を知らない子供のようにしているそのガラガラ(子供をあやすオモチャ)はどこから来たのか?

 (1)毎度毎度で申し訳ないが、私はこれを思い出す。
 KGBスパイの日記、AA1025の物語にあるこの言葉である。

多くの者は、神の愛はどんな敵意も超えていると信じる習慣がついている。われわれは、この愛を強調しさえすればいい。 参照

 この言葉は「人々を盲目にさせよう」という意図を持った言葉である。
 そして、片や現代世界憲章の言葉は、「神の愛はどんな敵意も超えている」と信じたい心(人間の一般傾向)を惹き付けるが、しかし実は全く「非現実的」(参照 Part 13な言葉であって、それ故、実際「人々を盲目にさせる」。(私達はその見本を池長大司教様と糸永司教様の中に見たのである。)
 KGBスパイの日記が謂ゆる「本物」かどうかの問題はあれど、人はとにかくここに一つの "合致" "符合" を見なければならない。

 (2)そして、私はここにもそのような(お二人のような)聖職者の姿を見る思いがする。福者カタリナ・エンメリックの幻視である。

私が見た最も奇妙なものの一つは、司教達の長い行列でした。彼らの考えと主張は、彼らの口から流れ出るイメージによって私に知らされました。信仰に関する彼らの誤りは、外形的な奇形によって私に示されました。二、三の人達は体だけを持っていて、頭は霧の暗い雲でした。

 はっきり言わなければ分からないからはっきり言うが、池長大司教様も糸永司教様も物事をまともに考えられていない。
 (勿論お二人だけではない。今回取り上げた現代世界憲章の箇所を、教皇様始め、多くの聖職者が疑わないのである。)

 (3)福者カタリナ・エンメリックは「破壊者たち」を紹介している。つまり、聖職者が上のような状態になるのは自然になるのではなく、そこに「思想誘導者」達が居るからである。

破壊者たちは(…)青いリボンのついた白いエプロンを身につけていました。それらのエプロンにはポケットがあり、彼らは金ごてをベルトにつけていました。他の者たちのコスチュームは様々でした。

 (4)結論。現代世界憲章のあれらのガラガラはフリーメイソンから来たものである。(彼らには相当の "広がり" があるから、「フリーメイソン的な所」とでも言っておいた方がいいのかも知れないが。)

「第二バチカン公会議は聖霊の導きである」という "言い方"

 人間にとって「言葉」は大事である。"言い方" が貧しければその時点で思考が制限される。(偉そうに)

 例えば、世の中にはこんなセンテンスを置く人がある──
 「両形態の聖体拝領は認められている」
 しかし、この言い方は単純過ぎる。両形態拝領の所で言ったように、「両形態の聖体拝領は」というのを主語に「いい」とか「悪い」とか言えるものではない。「両形態拝領の方法のうち、この方法は認められている、あの方法は認められていない」という形で言われなければならない。

 それと同じように、「第二バチカン公会議は」というのを主語に簡単に言えるものではない。
 問いはこうでなければならない。
 「第二バチカン公会議は、完全に、隅から隅まで、聖霊の導きであったのか

 そして、そうでないのは明らかである。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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