2011.11.24

フリーメイソンの金ごて(エンメリックの幻視)

彼らは、金ごてで、どこをどのようにしたらそれを引き倒すことができるかを、壁の上に印づけました。
福者アンナ・カタリナ・エンメリック(1774-1824)の
幻視の一部
私は聖ペトロの教会を見ました。大きな群れをなす人々が、他の人々がそれを絶えず再建しようとしている一方で、それを引き倒そうとしていました。それらの男たちは互いにで結ばれており、そして世界中にいる他の者たちとも結ばれていました。私は彼らの完全な理解に驚きました。破壊者たちはそのほとんどが背教者たち、またいろいろなセクトのメンバーたちでしたが、彼らは建物のあらゆる箇所を壊して剥がし、規則と指示に従って働いていました。彼らは青いリボンのついた白いエプロンを身につけていました。それらのエプロンにはポケットがあり、彼らは金ごてをベルトにつけていました。他の者たちのコスチュームは様々でした。
それらの破壊者たちの中には、ユニフォームと十字架を身につけた名士たちもいました。彼らは彼ら自身では働きませんでしたが、しかし、金ごてで、どこをどのようにしたらそれを引き倒すことができるかを、壁の上に印づけました。恐ろしいことに、その者らの中にはカトリック司祭もいました。
働き手たちは、物事をどう進めるべきか分からなかった時にはいつでも、彼らの党の或る者のところに行きました。その者は大きな本を持っていましたが、その中には、その建物に関する全計画とその破壊方法が書かれているようでした。彼らは金ごてで、攻撃すべき箇所を正確に印しました。そして、ほどなく彼らは下に降りて来ました。彼らはその仕事を静かに、また大胆に行ないました。しかし、それはこっそりと、人目を避けて、警戒しながらでした。
私は教皇様が祈っておられるのを見ました。彼は、彼の命ずるところとは正反対のことをたびたび行なう偽の友人たちに囲まれていました。(…)
一方でこのように引き倒されていた間、他方ではそれは再建されていました。しかし、それはあまり熱心なものではありませんでした。私は、私が知っている多くの聖職者たちを見ました。司教総代理は私に大きな喜びを与えました。彼はあちこちに行き、破損した箇所を修理するための指示を的確に与えていました。また私は、私の聴罪司祭が遠回りな道で大きなを引きずっているのも見ました。
私は、他の人達が注意散漫に聖務日課を唱え、そして時々、マントの下に小さなを持っていたり、あたかもそれが非常に珍しいものでもあるかのように、それを他の人に与えたりしているのを見ました。彼らは、確信も、熱心も、方法も持っていないようでした。彼らは何が進行しつつあるかをほとんど分かっていないようでした。それを見るのは嘆かわしいことでした...
▶ 金ごて(trowel)
今でも eBay などにはヴィンテージもののメイソンの金ごてが並んでいる。
▶ 線(lines)
つまり「ネットワーク」の存在を意味する。しかも世界規模の。
▶ 完全な理解(perfect understanding)
彼らは、教会を引き倒すためには「どこをどのように(where and how)」したらいいかを知悉しており、攻撃ポイントを「正確に定める(mark out exactly)」ことができたということである。「教会を倒すには、ここと、ここと、ここだ」と、具体的に、的確に、狙いを絞ることができたということである。
私達は、それがどのようなものであるかを既に知っている。参照
▶ 石(stone)
これは聖ペトロの教会の壁から敵たちの手によって剥がされた断片、つまり「伝統」(の一部)を象徴するのだろう。
「小さな石」をマントの下に持ち運ぶ司祭は、それについて何となく気になるものの、もはや確信がない。
蛇足
嗚呼、しかし、以上のようなことを何度書こうが、無駄かも知れない。
(1)パパ頼み
カトリック信者はあまりに「パパ頼み」である。
以上のようなことを、パパも認めたら、自分も認めるのだろう。
一般的に言っても、あまり「権威」に頼る人の目は “基礎的な力” を失うものである。
(2)「証拠」
カトリック信者だけでなく、人はあまりに何かと言うとすぐに「証拠」と口にする。私はかえって「正気か?」と逆に問いたくなる。
a.「陰謀」にすぐに「証拠」を求めるのは現実的ではない。
最近ナンチャッテ翻訳して紹介したWYDについての記事の中に「原罪のリアリティ」という言葉が出てきたけれども、二言目には「証拠」と言う人は、いわば「陰謀のリアリティ」が分かっていない。
証拠が簡単に上がらないからこそそれは「陰謀」なのであって、証拠が上がるのを待っていたら手遅れになるのが「陰謀」なのである。
例えば人は「ブニーニ大司教がメーソンであることには証拠があるのですか? あのリストは確かなものなのですか?」と訊くかも知れない。それは悠長な、牧歌的な、子供っぽい質問である。メーソン・ロッジに行って「あのリストは本当ですか?」とでも訊いて欲しいのか?
「イルミナティの極秘指令」(既出)にしても同様である。
b. そして、そもそも、私達の日常生活だって、実は思っているほど「証拠」の上に立って営まれているものではない。そう思っているのだとしたら、それは「錯覚」である。
私達の生活は、圧倒的にただ「信頼」の上に営まれているのである。「証拠」の上にではなく。
その信頼は、実は、確かなこともあるし、確かでない時もある。時には、思いっきり裏切られている時もあるだろう。
しかし、多くの人は、物事をそこまでシビアに見たくない。
多くの人にとっては、あたかも自分を「安心」させてくれるものがすなわち「善」であり、「不安」にさせるものがすなわち「悪」であるかのようである。(ここでもまた子供っぽいわけである。)
しかし、それが人類の常態である。
これほど、聖なる人の言葉も、敵の流出文書(と思われるもの)も、「陰謀」について、「フリーメイソン」について、ドンピシャと同じ事を言っているのに、人類は最後まで愚図愚図していることだろう!
そういうところは、実は聖座の人々も大して変わらない。
(彼ら自身は子供っぽくないかも知れないが、しかし人々を子供扱いするのである。)
例えば、ファチマの預言にまだ公表されていない部分があったとして、そこに非常にショッキングな内容が書かれてあるとしたら、聖座はまず決して、それを公表しない。
二、三の聖職者がチョロチョロとリークすることはある。
教皇つきの神学者、マリオ・チアッピ枢機卿は1995年にこう言った:
「第三の秘密においては、他の事柄もいろいろあるが、教会における大背教がトップで始まるであろうということが予告されている。」
しかし結局、次のようなところに常に落ち着く。
ラッツィンガー枢機卿(1984年)
「もしそれが、少なくとも今のところ、公表されないとすれば、それは宗教的な預言を興味本位と混同することを避けるためである。」
ラッツィンガー枢機卿御自身このような「理由づけ」をどこまで信じていたのか分からない。
とにかく、愚図愚図しているのである。

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