2011.12.10

ヨハネ・パウロ2世教皇様は煉獄におられるかも知れない 1

このように打ち出しておきます。
彼のために祈る人がふえるためです。
冗談や遊びで言っているのではありません。
実際、煉獄におられる可能性が高いと思います。
2007年の出来事である。
私は正直、今までこれにあまり関心を持たなかった。
目にはしていたが、大して重要なものと思わなかったからである。
しかし、今回、少し変わった。
画像と〔 〕は管理人。
焚き火の中に見られるヨハネ・パウロ2世のシルエット
パブリッシャーは世界的な反響に驚く
バチカン市国、2007年10月16日(Zenit.org
南ポーランドで一枚の写真が撮られた。そこには教皇ヨハネ・パウロ2世のシルエットにも見えるものが写っていた。それは世界のメディアの注目を引いた。
Gregorz Lukasic
ポーランドの〔職業的でない〕カメラマン、グジェコジ・ルカシクは、ヴァドヴィツェWiki-jaのヨハネ・パウロ2世の出生地に近い Beskid ZywieckiWiki-enで持たれた4月2日の追悼会(同教皇の帰天二周年記念)の模様を撮影した。彼はそのイベントの多くの写真を撮った。しかし、同教皇が帰天した時刻と全く同じ時刻に撮った写真の中だけに、同教皇のシルエットにも見えるものが写っていたのである。
Father Jarek Cielecki
その写真はジャレック・チエレッキー神父(イタリアのテレビ局バチカン・ニュース・サービスのディレクター)によって月曜日〔2007年10月15日?〕に発表された。チエレッキー神父は ZENIT に、このような広範囲の反響を呼ぶとは予想していなかった、と語った。その写真が国際的なプレスによって取り上げられていたことを初めて知ったのである。
「私はそれが奇跡であるとは言いません。私はセンセーショナルなものについて話しているのではありません」とチエレッキー神父。「しかし、しるしがそこにあるのは明白です。人は、そこに何も見ないと言うことはできません。」
「私にとって、それはしるしです。なぜなら、人はこの写真が撮られた場所と時刻を考慮しなければならないからです。カメラマンは毎分二枚の写真を撮りました。そのイメージは午後9時37分30秒に撮られた写真にだけ写っているのです。他の写真には炎がそんなふうに見えるものはありません。」
〔前教皇様は2005年4月2日午後9時37分に帰天された。Wiki-ja
「その写真は科学的に分析されました、そして、それが修正されていないことが示されたのです。」
奇跡?
Father Thomas D. Williams
Legion of Christ〔site-en〕の司祭であり、ローマのレジーナ・アポストロールム大学の神学の学部長であるトーマス・D・ウィリアムズ神父〔site-en〕は語る。「神はご自身が選択されるどのような方法ででも私達にお語りになるので、このタイプの奇跡が除外されるというわけではありません。」
「その写真が不思議にも教皇ヨハネ・パウロ2世に似ているということには疑いがありません。そして、その写真が4月2日という彼の命日に撮られたという事実があります。これは少なくとも注目に値する符合です。」
「誰もこれを信ずる義務はありません。教会もこれが奇跡的なものであると認定することは決してないでしょう。しかしそれでも、ここに神の手を見ようとする人達は、ヨハネ・パウロが天国から引き続き私達のために執り成しをしてくれているということ──それは疑いなく真実ですが──を思い、励まされることでしょう。」
「私達の信仰はこの種の出来事に基づきません」とウィリアムズ神父。更に、「しかし、神は実際、私達に、その御存在と御旨とを示す多くのしるしをお送りになります。ですから、この出来事がまったくそのようなものの一つではないとする理由もありません」。
似たような記事。飛ばして頂いても結構。
これは教皇ヨハネ・パウロ2世が墓の向こうから手を振っているのか?  バチカン・テレビのディレクターは「Yes」と言う
Mail Online
By NICK PISA
2007年10月15日
この炎の形は墓の向こうから現われた教皇ヨハネ・パウロ2世であると熱く信じられている。
このイメージは、信じる人々によれば「祝福を与えながら右手を上げている同教皇」ということだが、彼の帰天2周年を記念して行なわれたポーランドでのセレモニーの時に現れたものだという。
詳細は、宗教的ニュース放送を専門とするローマのテレビ局、バチカン・ニュース・サービスによって伝えられた。
同放送局のディレクター、ジャレック・チエレッキー(ポーランド人司祭であり、ヨハネ・パウロ2世の近しい友人)は、一人の参加者がそのイメージを写真に撮ったと聞いた後、自らポーランドに向かった。
チエレッキー神父は、自分はこの写真が前教皇を表わしていると確信する、と語った。
「人はこの炎の中に一つの人物像を見て取ることができます。そして私は、これが神の召使い、教皇ヨハネ・パウロ2世であると思います。」
写真はこれまで、イタリアのテレビで継続的に放送され、また宗教的なウェブサイトにもたびたび投稿されて来た(その幾つかは、あまりにも多くの人がこの炎によって作られた不気味な人影を自分の目で見ようとアクセスしたためにパンクしたほどだった)。
その焚き火は、4月2日、カトヴィツェ(南ポーランド)のヨハネ・パウロの出生地の近く、Beskid Zywieckiでの、彼の帰天2周年を記念するセレモニーで点火された。
多数の人々がこのセレモニーに参加した。この写真を撮ったポーランド人男性、グジェコジ・ルカシクは言った。「自分が何かを持っていると気づいたのは、家に帰り、撮って来た写真を見ていた時でした。」
「私はそれらの写真を私の兄弟姉妹にも見せましたが、彼らも私と同様、この炎は教皇ヨハネ・パウロ2世のイメージを形作っていると確信しました。」
「私はとても嬉しかったので、『教皇ヨハネ・パウロは生前多くの巡礼をした人であり、死んでからもなおそれを続けている』と言っていた私達の地元の司教様にその写真を見せました。」
本件とは直接の関係はないことだが、ジャレック・チエレッキー神父はメジュゴリエ支持者である。ミサを立てたり私的な巡礼を私的に引率したりの実際的活動をしているようである。動画1  動画2
バチカン・ニュース・サービスのディレクターがメジュゴリエ支持者であるとは、バチカンの識別力はいったいどうなっているのか。第2部メデュゴリエ
さて、多くの人は、誰かの言葉を聞く時、自分はとにかくそれを聞きさえすれば「聞く」ことができると信じている。しかしそれは違う。
聞く前に、「聞き方」を検討することが、ことのほか大事である。
(言い方が偉そう過ぎる。しかし本当である。)
あなたがもし、「聞き方」の問題として、「真実性の問題と道徳性の問題は別である」という原理(それはどんな種類の事柄にも言える)の妥当性を理解しないならば、そして且つあなたがヨハネ・パウロ2世教皇様のことを特に愛する人ならば、これから私が示す私の個人的感覚に対して、あなたは怒りを沸騰させることになるかも知れない。
さて、その写真は何だろう?
あり得る可能性は次の三つだろう。
 ・全くの偶然によるもの
 ・人造、人為のもの
 ・何らかの超自然的なもの
「人造、人為」に関しては、私は、あまりあり得ないことのような気がする。
何故なら... まあ、これ故に。
つまり、少なくともパソコン上で加工したものではなさそうである。
(「なさそう」、英語で言えば seem を使うことになる。今日のこの記事は、私は表現を省くかも知れないし、あるいは私として「確信」の方に傾くかも知れないが、しかし正確に言えば、全てを「可能性」の視野の下に言うのである。)
次に、では、「全くの偶然」であるのか?
そうかも知れない。(あらゆる可能性が除外されない。)
しかし、私としては、やはりこの写真が撮られた日時というものが気になる。(私はこれまでこの「日時の一致」について知らなかったのだが。)
これが「何らかの超自然的なもの」であった「可能性」を無視できない。
としても、もう一つ考えるべきことがある。それは、それが「何らかの超自然的なもの」だとして、その「何らか」とは何なのか、善の世界から来たものなのか、それとも悪の世界から来たものなのか、ということである。
まぁ、「分からない」と言うしかないが……
しかしまた、「どちらにせよ」、と私は言う。
海外の掲示板などでは決して少なくない人が言っていることだが、
福いな人
天国
この取り合わせは、どちらにせよ、ちょっと変である。
記事中の三人は少しも疑問に思っていないようだけれども、カトリック信者としては、むしろ違和感を感じる方が自然なのではないのか。変だと思うのが普通ではないのか。
「天国」と「火」は近いか?
──否、近くない。疎遠だと思う。
「地獄」と「火」、あるいは「煉獄」と「火」は、近いか?
──Yes, 近いと思う。似つかわしいと思う。
これが普通のカトリック信者の感覚ではないのか。
結論を急げば、私は、 これはヨハネ・パウロ2世教皇様が
(1)現在のご自分のご境遇
(2)ご自分の教皇職が何であったか
の二つを私達に伝えようとするお姿ではなかったか、と思うのである。
つまり、言いにくい話だが、ヨハネ・パウロ2世教皇様は今年5月に列福されたに拘らず、現在(それとも「2007年時点」と言うべきだろうか)、真実のところ、煉獄におられる可能性があると思うのである。
煉獄の霊魂が、天主様のお許しを得て、地上の人間に自分の境遇を伝え、祈りやミサを乞うということは、実際、あるようである。
そして、そこにあるのは、やはり である。
私のこのような提示を「悪趣味」と言って片付けるのは簡単である。
私は何度「聞き方」の問題に注意を引けばいいだろう。
人の心に安心と快さをもたらすもの=善
人の心に不安や不快をもたらすもの=悪

という単純等式に従わない人だけ
次にお進みください。
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