2011.12.10

ヨハネ・パウロ2世教皇様は煉獄におられるかも知れない 2

このように打ち出しておきます。
彼のために祈る人がふえるためです。
冗談や遊びで言っているのではありません。
実際、煉獄におられる可能性が高いと思います。
「伝統主義的」「保守的」「リベラル」といった分類は、本来苦々しい思いなしには使えない。参照:ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ
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しかし、便宜上使えば……
もし伝統主義的な人が「ヨハネ・パウロ2世教皇様は天国だろうか?」と問われれば、肯定的な返事を即答できないだろう。少なくとも彼の帰天直後のこととしては。
保守的な人が問われれば、そのように問われたこと自体に困惑するだろう。あるいは不快を感じるだろう。曰く、「そのようなことを想像するのはあまり感心できることではありません。過度になれば、確かに不謹慎です」。
しかし、もし教皇様が煉獄におられて、私達に助けを求めておられたなら? その時、彼の助けになるのは、見栄えが良く確かそうに見えるもの──「良識」──よりも、一見不謹慎にも不確かにも見えるもの──「推測」や「想像力」──の方かも知れない。
私はといえば、もちろん、肯定的な返事を即答できない方である。
1979年 国連
 
1986年 アシジ
ここで遠慮なくベイサイドを引くが……
Will you not help me again, My son?  Convert Russia.
私の息子よ、あなたはもう私を助けてくれないのですか?
ロシアを回心させなさい(=奉献しなさい)。
しかし、国連的な宗教観に影響されていては本気になれるわけがない。
彼は人間に期待した。人間の本質的無力を認め切らなかった。
 
彼は人間を愛した。しかしあまりに人間的に愛した。
Remember always your heritage, even unto martyrdom.
たとえ殉教に至るも、あなたの受け継いで来たものを常に覚えていなさい。
しかし、彼は、その人間的な愛し方の中で、多くの「受け継いで来たもの(遺産、伝統)」の地位を低めた。
私は必ずしも彼のことを「非難」していない。指摘しているだけである。
「指摘」が即「非難」(感情的な)であるのではない。
私の中には彼のことを非難できる何ものもない。
信仰の「事柄」として言っているのである。
しかし(話を元に戻すと)、私とて、保守的な人達と似て、今迄あまりそのようなこと──「彼は今、天国か? 煉獄か?」──を考えなかった、特に意識的には考えなかった、というのも本当である。
しかしまた、他方、私の感覚において、意識の端の方で、教皇様の晩年と最晩年のご表情に何か不穏なものを感じていたのも確かである。
彼としても、その教皇職の初期と中期は悪くなかったことだろう。
しかし、──私は残酷な観察をするけれども──
いわば 最終的な結果 が晩年に出たのである。
 
最晩年にこれらのような表情を浮かべなければならなかった教皇は不幸である。
理由は確かに表面的には「彼の期待通りに世界が動かなかったから」である。「彼の平和への努力も虚しく、世界は戦争に代表される暴力をやめなかったから」である。
しかし、これはカトリック教皇のことである。世界を霊的な次元から動かすことのできる立場と使命にある人のことである。同情すべきではあるけれど、「世界が悪かったのだ」の一言で済ますことはできない。奥の理由は、彼の教皇職には「失敗」(いや、だから、非難していない... )があったということである。これらの表情はそのかなり明確なシグナルである。
そして、「悪趣味」と思われようが「我田引水」と思われようが言うが、おそらく教皇様の人生(帰天後も含めて)は、上のこれらの写真から下の写真へと必然的に流れたに違いない。
教皇様は煉獄におられる可能性がある。
何故か?──理由は二つある。
(1)教皇様の教皇職は今まで書いて来た通りのものだからである。
私にとっては、残念ながら、「煉獄」を予感するには本来それだけで十分である。
(2)上の不思議な写真である。
これは確かに不思議である。炎の形がこれだし、更に、これが現われた時刻は教皇様が帰天された時刻とまさに「寸分の違いもない」とされているからである。
確かに、慎重に考えなればならない。しかし、私達の宗教にも、いわゆる不思議なこと──奇跡とか心霊的な現象──は必ず有るものである。
誰が描いたか分からない絵だが、ここにはミトラがある。
司教が煉獄に行く可能性があるならば、教皇にもその可能性があるだろう。
もちろん、「可能性」と言えば「可能性」である。私の目にとっても。
しかし、少しでもその可能性があるならば、それは重大な可能性である。
何故ならそれは、教皇様はそのようにして私達に、現在のご自分のご境遇を知らせ、祈りを求めておられるかも知れないという可能性だからである。
そしてそればかりでなく、ご自分の教皇職が何であったかについて、このようにして私達に知らせたがっておられるのかも知れないという可能性だからである。
次に、煉獄の霊魂がどのように私達に祈りや御ミサを求めて来るかを、そしてそれはどれほど私達に「」の存在を感じさせるものであるかを、そして煉獄の霊魂の物語の一つが「指導者責任」というものの重さを如何に明確に(と私は思う)教えているかを、見てみる。
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