歪められた言語感覚 今や日本国憲法も「福音的」! |
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菊地司教様の言葉
今回は大阪の松浦吾郎悟郎司教においでいただき、現行憲法に見る福音的価値観についてお話をいただきました。
人は、彼のこの何気ない言葉遣いに十分な違和感を感ずべきである。
現行の日本国憲法が善を含むとしても、それは〈共通善〉なので、「福音的」という言葉にはそぐわない。
以前も言ったように(参照)、もし何かが "善" であるなら、それは必ず天主様がお示しになった何かしらと関係しているというのは「当り前」である。何故なら、天主様は全ての善の源泉であられるから。
しかし私達は、善と見るや何にでも「福音的」という語を付すべきではない。
何故なら、「福音」という言葉は、本来「信仰」の世界のものだから。
松浦司教様の言葉
基本的に私たち教会は、政府がどのようなイデオロギーを持っているか、どの政党が政権をとるかなどのことは、それぞれの国民が選ぶこととして尊重しています。しかし、しっかりと見ておかないといけないことは、彼らの政策や方向性が福音的であるかどうか(一人ひとりの尊厳を守っているか、真の平和に向かっているか)なのです。どの政権、政党であっても非福音的な政策、方向に行くならば、教会は必要に応じて声をあげなければなりません。
「キリスト教の価値観と合う/合わない」という言い方なら、私としても受け容れ可能である。しかし、「福音」とは、その "善き便り" とは、「天主・御子がこの世に来られたよ」ということなのである。そして、「来られた」ばかりでなく「私達人類のために完全な救霊の道を設けられたよ」ということなのである。
それを告げ知らせないものは「福音的」ではない。
平和主義が「福音的」なのではない。
非戦の誓いが「福音的」なのではない。
人権の尊重が「福音的」なのではない。
イエズス・キリストを告げ知らせて初めて「福音的」なのである。
司牧者の方々の、その辺の「言語感覚」である。
(おそらく、或る種の神学によって歪められてしまったところの)
「福音」という一つの単語は、私達にとって普通の言葉ではない。
正に中心的な言葉、最も基礎的な言葉、最重要の言葉である。
その言葉を不適切に扱う司牧者の話は、キリスト教司牧者の話として、まともである筈がない。
松浦司教様の言葉を振り返ってみよう。
「彼ら(政府)の政策や方向性が福音的であるかどうか」
これだけで既におかしい。
もし或る政府の政策なり方向性なりが善であるなら、ただ単純に「それは善である」と言えばいい。或いは「共通善である」と。或いは、もしどうしてもキリスト教と結びつけたいなら、「それは私達のキリスト教的価値観とも合う」とでも。
しかし、「福音的」とまで言うのは不自然である。
ところが、現代の或る種の神学に於いては、共通善の伸張が即「福音的」なのである。私達の社会で共通善の伸張に向かう動きは全て「福音的」と称されるのである。或いは、「(内部的)福音化」の動き、とか。
しかし、そんな言葉遣いは〇カである。浅ハカである。
或いは、お目出度い。
何故なら、聖書に於いて天主様は、その福音(善き便り)──もっと言えば、その聖福音(聖なる善き便り)──を、人類に自覚的に受け取って欲しいからである。人々が、自分ではちっとも気づいていないけれども、"内部的" に天主の光に照らされて、行ないが善くなった──もしそういうことがあるなら、善い事である。しかし、天主様はそれで満足されない。人類が御自分の御事をハッキリ自覚的に受け取ることをお望みなのである。
聖書に於いてそうなのである。人はそれを読むべきである。しかし、現代の不実な神学は、あたかも神の光が人々の中に "内部的に浸透" すればそれで足りるといった態度である。そして、現代のほとんど全ての司祭達がそのような神学に〈呑まれて〉いる。
「福音的」と言わずに「聖福音的」と言うことを提案する。本来そうなのだから。
菊地司教様や松浦司教様はそれでもその言葉を使うだろうか。
「現行憲法に見る聖福音的価値観」と。
「彼らの政策や方向性が聖福音的であるかどうか」と。
少し笑うべきである。
その頭は言語的であり、その心は案外と純真である神父様方、あなた方は、一見もっともらしく見えるが実は不実な言語表現によって、言語感覚を乱されています。私達の信仰の重要語について、本来の言語感覚を取り戻してください。