2014.02.12

池長大司教様のバラバラの、統合性を欠く世界 Part 1

 ブログ Rick'sCafeさんに「『謙遜について』レオ池長潤大阪大司教さまによるお説教」と題された記事がある。2010年8月29日の大阪の聖マリア大聖堂に於ける池長大司教様のお説教を伝えたものである。

注)Rick'sCafeさんは当サイトとは何の関係もありません。私が勝手に取り上げさせてもらうだけです。

 まず、その記事の信頼性について。
 ブログ主は記事の最後でこう断っている。「※急いでの聞き書きのため、若干の間違いや抜けがありますことを御了承ください
 憂慮する会の時と同様、私は、書き手がこのように断る時、そこに誠実さを見、その内容を基本的に信頼する。「少なくとも大きな間違いはないだろう」と。

 さて、ブログ主に断っていないことではあるし、また彼はそのお説教を善意で紹介しているのだから、本当は全文を転載したいところだが、それは控える。断片の引用のみにとどめる。

イノセントな聴衆

 先ず、ここから始める。
 以前、こう書いた。

「善人」は、善人だけに善に感じやすく、何か一つ「善いこと」を見せられると、「わぁ、素晴らしい」となります。そして他の事が見えなくなります。

 Rick'sCafeさんのその記事のコメント欄に、その典型である人達が居る。その人達は真面目な気持ちを持った人達なので、こんなことを言うのは悪いような気もするが、実際そうだと思う。
 池長大司教様のそのお説教は私達が簡単に感服してはならないものを含んでいる。それどころか、のけぞって「よく言うよ」と呆れなければならないものを含んでいる。が、彼らはそれに気づいていない。
 私は今回と次回の記事を、その人達、或いはそのような人達を意識して書くことになるだろう。

指導者然

 教会は民主的になった。聖職者はあまり "上から目線" でいかにも指導者然となることを避けるようになった。しかし、そんな中でも池長大司教様は、わりあい、そうなるのを恐れない人である。

 しかし私は、人々への「指導」の任に当っている人が少しばかり指導者然としているからと云って即座に嫌うものではない。むしろ「指導者が指導者然としていて何が悪い」ぐらいのことを思う。柔弱ではっきりしない教会のために、むしろ力強いリーダーを望む。

 けれど、それにも条件がある。その指導者が「正しい人」であること、これである。少しばかり指導者然としていても構わない。しかし、彼は「正しい人」でなければならない。彼には「力強い」ことが望まれる。しかし、「力強く、正しい」人でなければならない。

 そして、この「正しい」というのが、そう簡単ではない。それは単に彼の口から出る一つや二つの言葉の問題なのではない。一つや二つの善の旗を高々と掲げることは簡単である。しかし、以前見たように教訓、或いは常識、或る善を高々と挙げながら別の善を無視する(或いはその存在に気づかない)ようでは問題である。彼の目はどうしても広く物事の「全体」を捉えていなければならない。

 もし指導者が、そのような良い状態から懸け離れているにもかかわらず「指導者然」としているなら、それは最悪だ。

彼は精神的・霊的価値を「分かる」ことの重要性を説く

 彼は私達に、目に見えない精神的価値、或いは私達に是非とも必要な霊的な状態について私達が「分かる」ことの重要性を説く人である。
 Rick'sCafeさんが伝えているお説教では、彼は私達に、「謙遜」ということの真の意味について、或いは「本当の礼拝」というものについて私達が「分かる」ことの重要性を説いている。

 以下が彼の言葉である。
 抜き書きだが、省略記号は省く。
 前後関係は引用元で読んでもらわなければならない。

神様が望まれるものは何か?を知らないと困ると分かることです、生活の場で。

私をお造りになった神様が望まれるような生き方を徹底してやらなければいけない事が分かるはず。

どういうふうに他者(ひと)に交わればいいのか?
そういうこともハッキリと分かってきますね。

そういうことは真理であり、わかるはず・・・
感じて、わかるはず。

で、こういう真理に対して目が開かれたという人は本当に謙遜な人になれる、もう既になっている。
こういうところがないと・・・謙遜、謙遜と言ったって分かっていないですね。

ものがわかって・・・
真理がわかって・・・
真理の前で偽らないで・・・

 つまり彼は、私達にとって単に「知識の教師」であるのみならず、それよりも一層「霊的の教師」であるというわけである。目に見えない精神的・霊的価値について、深い理解を持った人なのである。

 彼が言っていることは、「言葉」だけを見れば、いいことばかりである。そのため、イノセントな人達は引き込まれるだろう。
 しかし私達は、かつて見た彼の次のような口振りも、ここでちょっと思い出しておこう。

私に資料を提供した人に迷惑がかかるでしょう。あなた方にはそれが分かりませんか。その常識もありませんか。

資料というものは、色んな見方があるでしょう。問い合わせたり、迷惑を掛けるでしょう。そんなことも分かりませんか。

彼は善の「徹底」を説く

 彼は単に善を説くのみならず、その "徹底" を説く。

私をお造りになった神様が望まれるような生き方を徹底してやらなければいけない事が分かるはず。

教会共同体の中でも、外の世界でも本当に他者(ひと)を大事にすることを徹底してしなければならないけれども・・・出来ていますか?

だから私も皆さんも徹底的に謙虚な人になりましょうね。

 天主様が私達に「生ぬるさ」を戒めているのは事実である。(黙示録3章16節)

 もう一つの口振りを紹介しておく。菊地司教様のものである。

イエス・キリストに従う人生は徹底的な自己犠牲を求めるのではないでしょうか。徹底的に福音的価値観に生きることを求めるのではないでしょうか。そしてそうすることが出来ない自分の弱さに直面するとき、素直に神に助けを求める謙遜さが必要なのではないでしょうか。徹底的に福音に生きようとすることもなく (…)

 これらのような「善に熱心」な訴えかけに出会うと、イノセントな人達は(何度もスミマセン..)「私にはちょっと難しいなぁ」と思いながらも、否、そう思うが故に、その話につい感銘してしまうのではないだろうか。

 しかし、ちょっと待て、である。私達には理知も冷静さも必要である。
 上の菊地司教様の言葉で云うならば、前回見たように、もし「福音的」という言葉の意味が異様に不適切に拡げられているならば、「徹底的に福音的に」と言われても、私達はそれに安易に乗るわけにはいかないのである。
 池長大司教様に関しても、同じように注意深く見ていかなければならない。

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ