2013.11.18

池長大司教様には
「常識」の名によって人を責める資格がおありか 1/4

 浦川司教様の御本を引いた直後にこのような記事。相応しいことではない。矛盾である。一種の裏切りかも知れない。
 しかし、アップする。

 最初に言っておけば、私は、愛国心の強い人々からは怒られるかも知れないが、「正定事件は日本軍によるものか否か」の問題には、さして関心が無い。
 私の関心は別のところにある。それは、「一高位聖職者の判断」である。

 「教会の政治的言動を憂慮する会」が或る件につき一連の記事をアップしている。

(1) 2013年5月23日・池長潤大司教への公開質問状
(2) 2013年6月17日・池長潤大司教への公開質問状追伸
(3) 2013年6月24日・池長大司教様よりの電話
(4) 2013年8月6日・池長潤大司教 正定事件の真実の究明 中間報告

 (1) の中の要求箇条

  1. 昨夏オランダへ送られた「軍の蛮行を謝罪し故人をたたえる返書」の和文全文を公開して下さい。(英文は、
    http://www.mgrschraven.nl/PDF/Abp.Japanese Message in English.pdf
    と存じますが、間違いございませんか?)
  2. 池長大司教様の「返書」の因(もと)となった、オランダよりの、『37年に中国で日本軍のため殉教したシュラーベン司教の記念式典に招待する手紙』の全文を公開して下さい。
  3. 2012年10月13日もしくは14日、オランダにおいて深水正勝神父が代読した「池長潤大司教の書簡」全文を、読まれた言語並びに和文で、公開して下さい。
  4. 上記の「返書」及び「書簡」は、日本カトリック司教協議会会長の立場で行われたと推察致しますが、司教協議会所属司教様方の一致した見解でしょうか。お答え下さい。
  5. 「謝罪した」ということは、その事実を認めたということです。どのような根拠によってそれを認めたのか。資料の提示を求めます。

 3 で要求されている書簡は 1 でリンクを貼られている書簡ではないのか。何故なら、後者の日付は2012年10月9日だから。(尚、この書簡は後の頁で試訳しておいた。)
 2 を「要求」するのはどんなものだろう。何故なら、その招待状が「日本カトリック司教協議会会長」宛だったとしても、それでも一種の「私信」に属するもの、内々のものと考えられるから。その公開を「要望」することはできるだろうが、「要求」はできないのではないか。文尾は「公開して下さい」となっていて、「要求調」である。
 4 の要求は必要なのか?
 私は、要求はシンプルに 5 だけで良かったのではないかと思う。

「道徳」の旗

 人は、自分にとってあまり有り難くない、「真実性」についての追及を受けている時、それ以上の追及を抑えようと、やおら「道徳性」をめぐる議論を持ち出したりするものである。いわゆる「矛先を転じる」というやつだ。
 そのようなことを全く意識的にすることは、むしろ少ないのだろう。その多くは無意識的・本能的(?)なのだろう。時にはいわゆる「苦し紛れ」であったりするのだろう。
 例: 司祭と会話(電話で) 司祭と面談 2

 池長大司教様にも似たような心の動きがあるようだ。彼は「常識」という言葉を連発しながら「道徳」の旗を高く掲げることで、「真実性」についての正当な要求者を斥けようとしている。(3) 参照

100円ショップの安い旗

要求の仕方

 「憂慮する会」に本質的な落ち度は何もないことを認めた上で、私は次のように言わせてもらいたいと思う。
 池長大司教様にそのような態度を許したのも、同会の要求の仕方があまり巧くなかったからである。

 要求すべきは「根拠の提示」であるべきだった。
 「資料の公開」ではなく。
 この二つは "折衝" の場に於いては同じではない。

 シンプルに「形は問いませんが、大司教様としての、大司教様のお考えになる根拠をお示し下さい」と求めるべきだった。
 それにとどめるべきだった。

 具体的なアレコレの資料を指差し、その「公開」を求めてしまったために、問題が「公開の是非」に移って(移されて)しまった。

 そして、そこに於いて、あたかもここには「公開」にまつわる「道徳」の問題しかないかのように、大司教様は「非常識」という言葉を手に取り、相手を非難することが可能になったのである。

 しかし、もし──
「根拠の提示を "資料の開示" という形でするか、或いは例えば "生き証人の紹介" という形でするか、或いはまた別の方法でするかは、飽くまであなた様の側の問題です。当方の問題ではありません。とにかく、あなた様があのよう発言をなさった限り、あなた様には何らかの形でその根拠をお示しになる道義的責任がおありになるのでは?」
 ──という形で投げ掛けていれば、大司教様は決してそれに「非常識」という語を付すことはお出来にならなかっただろう。

問題の本質は変わらず

 しかし、「求めるべきは『根拠の提示』であるべきで、『資料の公開』ではあるべきでなかった」というのは、あくまで "折衝" と云うことを念頭に置いた、嫌らしい "テクニック" のことに過ぎない。

 本当のところは、「資料の公開」で何ら問題ない。
 この事を含めて以下で説明したい。

 が、その前に結論的に言っておく。
 大司教様が「常識」を弁えており、憂慮する会が「非常識極まりない」、という "見かけの構図" は、大司教様が意識的にか無意識的にか現出させた「まやかし」に過ぎない。
 この情景全体の中で、問題の "真の在処" を尋ねる時、本質的におかしくあらせられるのは、圧倒的に大司教様の方である。

本 論

 これを読む人の中に、「この管理人はまた、こんな小さな事をとらえて、大袈裟に騒ぎ立てる」と思う人も在るかも知れない。確かに、野村氏と大司教様の会話記録はごく短い。しかし私は、このように思惟する。"物事の判断がしっかりした人というのは、どんなに短い何気ない瞬間でも、そんなには変な対応をしないものである。"

 (3) より

[電話の会話内容]

お名前を名乗られたあとの最初の言葉は、
「二週間ということだったので」
であったと思います。

そして、最初の質問状に回答しなかった理由を話されました。
「公開するということでした。非常識な人たちと思いました。自分を、非常識と思いませんか?」

いきなり大司教様から、あなた(方)は非常識だ、と言われました。

「私は間違いのない事実に基づいて話している。」
と大司教様は話されました。

野村 「ですから、その事実を裏付ける資料をお見せ下さいとお願いしています。」

「資料を出せないのは常識でしょう。」
「何故ですか。」
「私に資料を提供した人に迷惑がかかるでしょう。あなた方にはそれが分かりませんか。その常識もありませんか。」
「どんな迷惑がかかるんですか。」
「資料というものは、色んな見方があるでしょう。問い合わせたり、迷惑を掛けるでしょう。そんなことも分かりませんか。」

 この報告の信頼性については、報告者自身が、同じ (3) の中で言及している。私はそこに「フェアな態度」を見る。それは、何を措いても「事実」を重んじ、「事実」に忠実たろうとする態度である。
 (これ一つ見ただけでも、私は、この人達はいわゆる「非常識」といったカテゴリーの中に放り込まれてよい人達ではないと分かる。)

 そして結局、池長大司教様は実際このような(これに極めて近い)御態度を取られたのだろうと思う。

彼らの望みは自然なものである

 上に言及したようなフェアな態度、そのような "神経の使い方" のできる人(達)は、普通、「非常識」の部類には入らない。
 そして、彼らの人間性が非常識ではないだろうと同時に、彼らの望みもまた非常識ではない。

 日本軍が犯したとされる重大犯罪に関して、その確かな根拠を知りたいと望む彼らの望みは、ただ自然であるだけである。

 我が国の歴史に関心があり、これまで多くを読んで来た人が、或る日、寝耳に水のように、「1937年、日本軍が中国に於いて、カトリック聖職者に対し200人の慰安婦を要求し、それを拒絶されたというので、その聖職者ら9名を焼き殺した」と聞かされて驚き、「それは本当なのか? どういう所からそんな話が出たのだろう。その根拠を知りたい」と思うのは、ただ自然であるだけである。

 歴史に関心と云えるほどの関心を持たず、政治的傾向もほとんどなく、「反日」とか「自虐史観」とかいう言葉を使わない私ですら、彼らのそのような気持ちの基本的なところは、十分に想像の範囲内である。

 ところが池長大司教様は、そのような彼らの気持ちを少しもお汲み取りになることなく、ただ「私に資料を提供した人に迷惑がかかるでしょう。あなた方にはそれが分かりませんか。その常識もありませんか」と責めて、お終いにしておられるようである。

 以下、大司教様に対する呼び掛け調とする。

異常事態

 大司教様。大司教様がそんなに「常識が大事」と思われるなら、大司教様は次のような「常識」をも、きちんとお弁えになるべきではないでしょうか。

*******************************

 今回のような重大な案件の場合、普通は──即ち「正常事態」に於いては──開示請求など無くたって、根拠は当初から開示されているものなのです。
 重大な「新事実」の公示とその「根拠」の提示は、普通は "ワンセット" のものとして、同時的に行なわれるものなのです。
 犯罪の事実だけが宣せられ、その根拠は何ら示されないなどと云うのは、完全な「異常事態」です。

*******************************

 ここに云う「異常」とは、「非常に稀」などという意味ではありません。「本来、道義的に、良識的にあってはならない」という意味です。
 大司教様、私は大司教様に資料の開示を求めないので、そのことはお忘れになり、事柄上、理念上、このような事態がどんなに異常であり、非常識であり、非良識であり、不道徳なものであるかに気づいて下さい。

 誰かが犯したとする「犯罪」について言及する時、自分がそのように考える「根拠」を示さねばならぬというのは──当り前」のことです。(「当り前」のこと、世間ではこれを「常識」と言います。)

 ここに「世界の良心」というものを考えた場合、そのような「当り前」のことをちゃんと守ってこそ、それは保たれます。「誰々が悪いことをしたー」と叫ぶばかりが良心なのではありません。その根拠を示すことも必ず「世界の良心」を成り立たすための一要素なのです。

 会社でも、学校でも、家庭でも、「誰々が悪いことをしたー」とばかり言って、その根拠、そのように言うワケを示さないなら、それらの社会の「良心」が保たれますか? 「健全性」が保たれますか?

 私は、自分がカトリックの高位聖職者にこんなことを言わねばならぬことを不思議に思います。

注)本当は、根拠を開示しても、人間の世の中はスッキリしません。大司教様が「資料というものは、色んな見方があるでしょう」とおっしゃった通り、根拠の開示の後にもゴタゴタが続くことが多いです。
しかし、だからと云って、「根拠は伏せられていていいんだ」ということになりますか? 民主主義はゴタゴタしているものです。しかし、だからと云って、情報の秘匿の方がマシだと言うのですか? 
そうだとすれば、あなたは「知」の側面でどこか自惚れておられます。(信仰的模範とは云えないだろうJFKの方がまだ謙虚です。)

「人に迷惑をかけてはならない」

 「人に迷惑をかけてはならない」というのは、私達が幼い頃に親から習う最も初等の「常識」です。幼い頃に教えられているだけに、良心的な人ほど、その言葉を出された時、一瞬ひるむものです。
 しかし、私達は今や幼稚園児ではありません。社会や人生を幾分なりと知っている者です。それで、同じ一つの事が或る人にとっては「利益」であり、別の人にとっては「迷惑」であるということも多々あることを知っています。
 ところが、大司教様は今回、「私に資料を提供した人の迷惑」にしか言及しておらず、その同じ事が他の人々にとってはどうであるのか、ということについては、少しの御意識も、御配慮も、お持ちのようでありません。これは、成長し、人生の多面を知っている筈の大人としては、ちょっと信じられないようなほど偏頗な御態度です。

 それはちょうど、自分の親のことしか目に入らない幼児のようなものです。幼児は高度の社会理念のことなど何も知りませんから、とにかく自分の親を「困らす」ことは、その子にとっては全て悪なのです。
 大司教様が幼児である筈はありませんが、しかしどういうわけか同じようなことをなさっています。

 大司教様は人生というものを、その「全体像」のもとにご覧にならないのでしょうか。カメラを引いて「全体像」を見て初めて、私達の目には色々なものが入ります。
 私達は、そのようにして、物事には「重要度」の違いがあることを知ります。
 私達が持つべき「良識」にしても、「人に迷惑をかけてはならないよ」と云った市民生活レベルの良識だけがあるのではないということを知ります。
 時にはAという良識とBという良識が実際面で矛盾し、競合し、両方満たしたいところだがそうは行かず、やむなく重要度が高い方を優先しなければならぬ、ということもあるということを知ります。
 即ち、私達は「人生の多面」を、多少の「複雑性」を知ります。

 しかし、大司教様は、大人らしくもなくそれを無視なさりながら、ただ「ご近所の迷惑」のようなものだけを取り上げ、それに「常識」という金看板を掛け、やんやと強調し、そして、あろうことか、その金看板で人の頭をバンバン叩くのです。

 しかし、私に言わせれば、そんなのは全くの「インチキ」です。人生の複雑さをこれほど大胆に「廃棄」なさることが「インチキ」なのです。

 小結論。

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 万人にとって権威を帯びている、ちょっと抵抗しがたいような「常識」という言葉を、ご自分の利益のために不正に矮小化、貧困化した上、人を圧迫する道具としたかどで、大司教様、あなたを逮捕します。

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(もちろん「逮捕」は冗談です)

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