私
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あ、神父様ですか? こんにちは。
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司祭
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はい。
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私
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あのぅ、先日、お手紙を置かせて頂いたんですけど、お読み頂けたでしょうか。
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司祭
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読みましたよ。
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私
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それで、ちょっとお会いしてお話したいんですけど。
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司祭
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何の話をしたいの?
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私
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跪いての拝領のことですが。
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司祭
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あれはね、日本の司教団で決めてるやつですからね、それに従うんです。日本の教会はね。
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私
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正式に決められているんですか?
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司祭
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それはもちろん。
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私
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そうなんですか?
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司祭
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あれはちゃんと日本の教会で、日本の司教団に任せられている事項なんです。あれはね。
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私
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『あがないの秘跡』の中に書いているのは、すべての国に対して適用されているのではない、ということですか?
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司祭
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あれはね、跪くとか、手で受けるとか口で受けるとかね、それは、日本の司教様達に任せられた権限なんです。で、世界中で、そのことについて考えて、それぞれの国の状況とか文化とか、そういうものの中で、典礼についてのことが、各国の司教団に任せられているんです。
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私
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ええ、でも無制限に任せられているということではなくて、一つ一つの事項について、「これは日本ではこうしますが、よろしいですか?」というふうに、聖座に許可を求めるんですよね。
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司祭
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いや、許可ではないの。聖座がその国の司教団に任せたの。
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私
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でも、「典礼のすべてに関して自由にやりなさい」ということではないですよね。
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司祭
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もちろん、もちろん。だからそのために、ほかの国も何年も何年もかけて司教さん達が会議をして、信者さん達の考えとか意見とかを聞いて、そういうのを全部受け入れて、何年間もそういう試行錯誤をしていきながら、日本の教会ということで、たとえば御聖堂に入る時も昔は跪いて入ったけれど今は日本の教会は礼をして入ると、そういうことを何年もかかって、そういうことになって来たわけ。
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私
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でもつまり、そういうことを日本の神父様方や典礼委員会などが何年もかけて協議して、その結果を聖座に対して示すわけですよね。聖座と離れたところでやっているというわけではないんですよね。聖座に報告しないでやっているとかではないということですよね。
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司祭
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もちろん。だけど、つまり・・話は逆だから。公会議の後に、そういう典礼が変わってくる、そういう中で聖座は典礼をその国の司教団に任せたわけ。だから、もうこれ、報告とか何とかでなくて・・
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私
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あの、では悪く言えば「丸投げ」ということなんですか?
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司祭
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教会だから「丸投げ」とかそういうのじゃないでしょ、会社じゃないんだから。なんで「丸投げ」って、そういう言い方するの?(怒)
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私
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ですから、「無制限に任せる」ということではないということですよね?
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司祭
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そう、違う。だから教会の典礼書を今度見せてあげるから、日本の。救いの時はこうしましょう、この時はこうしましょう、この時は立ちましょう、あの時はこうしましょうと、もう2000年の歴史の中でず〜〜っと、教会の典礼の中で、それらのことが、その国の司教団に任せられているわけ。だから、ある場所では、うちのように跪き台がある場所では、聖変化の時は跪くことを許すことができます。その許可があります。そして小さな教会で跪き台のない教会は、聖変化の時も、皆立って聖変化の言葉を聞いて、そして聖体に対する尊敬を表わす。そういうことが許される。そういうことが、2000年の歴史の中で、教会はありとあらゆるケースを考えて、あらゆる事を参考にして、聖座はそれぞれの国のこれらについて、「ここは変えることはできない。ここは変えられる」と、そこはその国の習慣か何かによってということで、典礼ができていくわけ。
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私
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はい、しかしそれは、たとえば「日本では御聖体を頂く時に立って頂くようにしたいですが、いかがですか?」と聖座に・・・
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司祭
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いや、それは「いかがですか?」ではなくて、「日本の教会はこうします」と言うことの権限が、日本の司教団に委ねられたの。
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私
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う〜ん、ちょっとわかりません。
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司祭
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なして。だってローマは寛大だよ、世界の教会に対して。
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私
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寛大でもやはり基本的には、秘跡とか典礼の中には、大事な流れというか、大切にしなければならない部分というのがあるでしょうから・・
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司祭
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うん、それはもう大事にしているし、なにも跪くか口で受けるか手で受けるかの違いによって、御聖体の秘跡が損なわれるとかね、そういうことは全くないし、今迄もなかったし、これからもないし。
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私
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あのですね、たとえば・・個人的に、誰に押し付けるわけでもなく、「われわれは御聖体を跪いて拝領しなければならない!」と声高に叫ぶわけでもない形で、「私はどうしても跪くことによって神様への尊敬を表わしたい」とかなり強く、頑とした気持ちを持った信者がいるとしますよね。で、拝領の時に跪いたとしますよね。そういう時には「司祭は御聖体を与えなくてもよい」という権利があるのですか?
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司祭
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そういうことじゃない。そういう権利はない。すべてのカトリック信者は御聖体を受ける権利があります。だからその時神父様は「どうぞ日本の司教様の決めた通りに受けて下さい」という、そういうことです。
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私
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ええ、そういう指導とか方向付けというのをお出しになるでしょうけれども、でも信者が個人的にですね・・
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司祭
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いや、それ個人的にじゃないの。御ミサは教会一致のしるし、信者一致のしるしですから。個人的云々ではなくて、そういうことを、だから司教様達は何年もかけて、そして日本の教会の共同体の中の一致のしるしとして、そのようにしましょうということなんです。司教様達のお考えなんです。
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私
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でも実際問題として聖体拝領の時に跪いてしまった信者のことはどうなさるのですか?
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司祭
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「お立ち下さい」と言います。
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私
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それでも立たなかった場合は・・
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司祭
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いやいや「立ちなさい」です。立つべきなんです。
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私
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それは「立たなければ御聖体を与えない」ということですよね。
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司祭
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そうですよ。私は与えません。だってあなたは日本の司教様が決めたことに反対しているということになるんだから。
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私
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「跪いてはいけない」と、日本の司教団は決めているわけですね?
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司祭
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いや、「立ちなさい」です、それは。
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私
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いや(笑)、「立ちなさい」ということは即ち「跪いてはいけない」ということですよね。
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司祭
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いや、「いけない」ではないの、「立ちなさい」なの。
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私
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同じことですよね。
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司祭
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全然違うでしょ? その教会の方針です、方向ですよ、それは。
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私
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実際問題としては同じじゃないですか。
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司祭
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いやいやいや、それは違う。
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私
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なんでですかね・・(笑)
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司祭
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だから、「教会の指導に従って下さい」ということなの。
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私
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「従わなければ、結果として、御聖体は与えませんよ」ということですよね。
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司祭
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そのへんはその神父様のお考えですよね。私ならその場合、あげません。司教様からそのような指導をして頂いている教会の責任者として、信者の一致のしるしとして、あなたのその行動は、主の食卓を囲む仲間としての行動としては、一致のしるしになりません、それは。主の復活を祝う主の食卓に招かれた者の、イエズス様の復活を共に分かち合う態度じゃないです、あなたの態度は。もし、あれば。
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私
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いや、ただ私は、『あがないの秘跡』の中にある文言がどうしても気になるだけです。私はあの文言の中にカトリック信仰の重要なものがあると思ったのでお訊きしたのです。
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司祭
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うん、でもあなたは、日本の司教様達のお決めになったミサの典礼書のね、総則細則について、何も知らないわけよ。今度それをお見せしますから。それに従って下さい。
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