2006.04.23

司祭と面談 1 (改めて驚愕)

司祭が見せてくれると約束していた文書をここに掲げる。
しかし、ローマ・ミサ典礼書に記されている動作や姿勢を国民性に適応するのは、司教協議会の権限である。ただし、祭儀の各部分の意味と性格にかなったものとなるように指示すべきである。(日本では、ひざまずく代わりに、合掌して深く礼をする)
第21項から
厚さが12cmくらいもある分厚い本だったから、あれが典礼書なのだろうか。
しかし私が予想した通り、司祭が提示したのはこの程度のものだった。これが、彼が跪いた信者に御聖体を与えないことを正当化する理由の「すべて」なのだ。彼は言った、「ほかに何が必要なんだ?」
聖座が「ひざまずいて聖体を受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです」と言おうが言うまいが、彼と日本の司教団には全く関係ないのだそうだ。その精神の一滴さえ汲もうとする必要はないらしい。「聖座が日本に何を言おうと関係ない」と彼はハッキリ言った。私が「では教会の中心はどこですか。この信仰の中には二つも三つも頭があるのですか」と言っても、「聖座と各国の司教団は兄弟的な関係において一致しているからそれでいいのだ」と言う。そうしてこう言った、「だって、そもそもイエズス様と使徒達の関係がそうなんだから。そうでしょ? イエズス様は『私はあなた方に奉仕するために来た』と言ってるじゃない」と。「指針あがないの秘跡」の文言と日本司教団の「跪いた信者には聖体拝領させない」という方針の間に整合性がないなんてことは、これっぽっちも思わないのだそうである。「完全に整合性がある」と彼は言った。そして、カトリックの世界には本社と支社の権威の違いも、憲法と条例の格の違いも、何もないと彼は言った!
まったく絶望的だと思った。
しかしとにかく私の受け止め方に主観が入っているかも知れないので、次からの3ページにわたってこの司祭とのやり取りの正確な記録を掲げます。それらは同じ日に、すなわち本日2006年4月23日(日)に行われた面談のものです。
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