2013.11.08

浦川和三郎司教様編著『基督信者宝鑑』(昭和5年)より

日常の行為に就て

行為の価値は心掛の如何に由る

基督信者たるものは皆完全な人であらねばならぬ。「汝等の父の完全に在す如く、汝等も亦完全なれ」(マテオ五ノ四八)と主は宣うた。然し完全な人となるには道は色々ある。必ずしも同じ道を進まねばならぬと定まったものではない。一生を独身で過す人もあれば、一家を立て妻子を養って行く人もある。世を捨て家を離れて祈祷や断食に身を委ねる修道者もあれば、土を掘り網を曳く農夫・漁人[りょうし]やら、算盤を握り槌を振う商人・職工やらもある。分け登る麓の路は随分異って居るにせよ、心から主を愛し、その聖旨に従って行きさえすれば、終には同じ完全の高嶺に登って、美しい「旭日」の御光を仰ぐことが出来るのである。

世には自分の平生の行為と聖人等[たち]の驚くべきそれとを見比べて、自分のは如何にも拙[つま]らないものゝ如く考える人もあるが、それは決して然うした訳のものではない。たとえ有触れた平常[なみなみ]の事であっても、主の為にという意向[こゝろあて]を立て、主のお望みであり、お摂理い下すった所だから、という理由によって行いさえすれば、拙らない事というは一つも無い。否、心掛け次第では農夫や漁人や商人や職工やの卑しい業*が、司祭とか修道者とかの高い行い*よりも、却って価値あることすら無きにしも限らない。

* 管理人
「農夫や漁人や商人や職工やの卑しい業」「司祭とか修道者とかの高い行い」──このような表現は、昨今の「人権」と「人間の尊厳」しか目にないかのような聖職者が「差別的」と言いそうなところである。確かに、私も、浦川司教様も或る面で「時代」の内におられたことを否定できない。けれども、浦川司教様の本意に悪い意味での「差別意識」はなかったことは、文章の全体を見れば明らかである。文章の全体は「励まし」である。そして又、昨今の聖職者の中には、世俗の仕事を「低い」とし、聖職を「高い」とする言い方も怪しからんと思う人も居るだろうが、私は、それは困ったものだと思う。そのような人は、「自由」「平等」「博愛」に全く染まってしまって、必要な複眼を持てなくなっているのである。解答は、天主様は人間よりも「高い」ので、聖職は世俗の仕事よりも「高い」という言い方も残されているべき、である。もしそのような言い方が全く許されない「平等づくめ」の世の中になるならば、それは「天主様は人間よりも高い」という当り前のことさえ言えない(或いは、それを意識しない)時代が来たことを意味する。それは恐ろしいことだ。

思うに現世[このよ]は広大な舞台見たようなもので、人は皆この舞台に立って、それぞれ主に割当てられた芸を演じて居る。して舞台の上では、王様に扮[な]って拙[まず]い芸を演ずるよりは乞食となって巧く其役を勤めた方が、やんやと持囃されるものだ*。主の御前に於てもそれと同じで、務める芸題は何であろうと演状さえ巧ければ屹と喝采される。農夫だから駄目だ、漁人だから主の聖旨に適えないなんて云うことは少しも無いのである。

* 管理人
はい、はい、分かります。上のような言い方も現代の私達には容れられるものではないでしょう。まるで「乞食となったらなったで、その境遇に甘んじよ」とでも言っているかのように聞こえますから。しかし、ここでも私は浦川司教様を弁護します。このような言い方が「慰め」になった時代もあったのです。

些細な行為でも積り積れば偉い行為となる

成るほど聖人等の中[うち]には偉い大きな事を果した御方が少くはない。然し如何なる聖人でも、朝から晩まで人目を驚かす様な事ばかりをされて居た訳ではない。一つ驚くべき事をする中には百も千も普通の事を行われるのであった。考えても見るが可[よ]い。商人だって一度に大金を儲ける様な機会には容易に廻り合ない。それでどうするかと言えば、毎日少しづゝ儲けて、それを積みに積んで大きな金となすのである。善を行い、徳を積むのも道理はそれと同じで、今日では宗教の為に監獄に繋がれるとか、水責、火責に遭うとか云うことは有りはしない。でも各自の職務を全うする為の労苦は、些細は些細でもそれが一生涯続くのである。殉教者の如くたゞ二三ヶ月の間、監獄に繋がれるだの、五六時間、火水に責められるだのと云うのではなく、謂わば一生の間、小さな針で刺されて致命する様なものである。一つ宛に就て見ると全く取るにも足りない位だけれども、それが毎日の事だから、塵も積れば山となるで、人目を驚かす様な偉い徳行を時たま行うよりも、却って大きな功績となるのである。

聖母マリアを見給え。御子卅歳の頃まで何をなし給うた………ナザレトの田舎町に住んで、賄やら、洗濯やら、裁縫やら、そんな賎しい仕事に月日を送って、町の人々からは、たゞ貧しい大工の妻としか思われ給わぬのであった。固より当時の人々も、聖母を以て品行の端正[たゞ]しい、信心の勝れた、心立の美しい婦人だと感心しては居たであろう。然し是が神の御母だ、女の中にて祝せられた者だ、とは露ばかりも知って居たはずがない。然らばとて聖母の御生活が主の聖旨にも適わず、功徳にもならなかったであろうか。

実に主は外部の行為よりも意向の如何に重きを置き給うのである。一日[あるひ]エルザレムの神殿で、富豪の多くが多分の賽銭を献げて居るのに、偶ま一人の見窄らしい態をした寡婦が来て、たった三厘許りを投げ入れるのを御覧になるや、直ちに弟子等を呼集めて「あの寡婦は誰よりも沢山献げた。他の人は有り余る中から献げたのに、彼は乏しい中から己が生活の料を悉く投げ出したのです」(マルコ一二ノ四一)と仰せられたことがある。

意向を純潔くせよ

されば何を為すにも事の大小よりは意向の純不純に注意するが肝要である。聖寵の状態にさえ在らば、食べるとか、飲むとか、畑を耕す、魚を漁[すなど]る、日傭稼[ひようかせぎ]をやるとか云う様に、極く極く賎しい、拙らない事であっても、之を主に献げ、主を愛する心で以て行うと、それが一々功徳になる。聖寵を増し、天国の尽きせぬ報の種子ともなるのである。

主は始め少し許りの土を取って人の体を造り、之にその聖なる息を吹込み給うや、忽ち萬物の霊長と仰がれるほどの立派な人間が出来た。我等の日々の行為も、やはり少しの土塊見たように極く僅少な、卑しい、拙らないものであるが、一たび之に主の愛を吹き込んだものなら、早速見違える程の美しい真珠となって来る。聖パウロが「汝等は食うも、飲むも、又何事を為すも、すべて神の光栄の為にせよ」(コリント前一〇ノ三一)と曰[い]い、主も亦「我名の為に一杯の水を飲まする人あらば、彼は其報を失わじ」(マルコ九ノ四〇)と宣うたのは、この道理を諭すが為では無かったろうか。

斯くの如く少し気を付けると、毎日どれ程の功徳を積み、どれほど未来の幸福[さいわい]の種子を蒔くことになるか知れない。何事も主に献げ、思うことも望むことも、言[ことば]であろうと、行いであろうと、すべて主の御光栄の為にやって退[の]けると、その一つ一つが美しい愛の行為となり、天国に於て限りなき福楽[さいわい]を実らせるに至るものである。

して其の謂ゆる純潔な意向を立てるのは、別段難しいものではない。無論主の事を絶えず思い、自分の云うことも為[す]る事も、一々主に献げねばならぬと云うのならば、それは難しい、迚[とて]も出来そうな話ではないが、実はそれまでには及ばぬ。之を聖堂へ参詣する人に譬えると、一足一足私は聖堂へ参詣するよ、私は聖堂へ参詣するよ、と思わなくとも、最初その意向を定めて置きさえすれば、足は自とその方向へ進み、思わず識らず聖堂の門に到着するであろう。それと同じく何事も主の為にするという意向を朝一たび定めて置くと、後で罪など犯して反対の考[かんがえ]を起さない限り、晩までも朝の意向が続くのである。成るほど日の中にも時として、殊に重[おも]なる業の前に朝の意向を新たにしたら、一層為になることは申すまでも無いが、然し是非とも然うしなければならぬと云う訳のものでもない。某[なにがし]の修道士は、業を始める毎に必ず一寸手を控えて天を眺めるのであった。或人が怪しんでその理由を問えば、「私は狙を定めます。打ち損なってはなりませんから」と答えたそうである。我等もせめて朝一度なり天を眺めて狙を定め、すべての業を主に献げ奉るならば、天国を打損う気遣とてはないであろう。

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