2013.01.05

黙想の栞

明けましておめでとうございます。
 
ヤヌアリオ早坂久之助司教様
Bishop Januarius Kyunosuke Hayasaka
長崎教区の5代目の司教様
邦人初の司教様
ご 生 涯 1883 - 1959年
地区長在位 1927 - 1937年
 
ミカエル浦川和三郎司教様
Bishop Michael Wasaburo Urakawa
仙台教区の5代目の司教様
ご 生 涯 1876 - 1955年
地区長在位 1941 - 1954年
聖徳に輝く79年の生涯(ページの下の方)
私達は霊であるから、必ずしも、どうしてもお顔を拝見したいというわけではないけれど、それでも、どこか寂しいですね、ネット上に浦川司教様のお写真がただの一枚も見つからないというのは。(どなたかお持ちでありませんか?)
早坂司教様の興味深い文章を見つけました。興味深いというのは、その当時の(昭和5年ぐらいですか)司牧者達の姿というか感覚というかをよく伝えてくれるからですし、又、その中で早坂司教様は浦川師の御著作(翻訳を含む)を非常に高く評価なさっているからです。ちょっと転載させて頂きます。どれも五島の福江教会のホームページ(福江教会の牧者たち)のこのページからです。
信心用の書物として吾長崎教区から浦川師によって本年5月ごろ舊著「聖体訪問」が再版発行せられた。原著者は有名な聖アルフォンソである。カトリック信徒に取ってはその信仰生活の中心は聖体であらねばならぬ事は余りにも明瞭である。因って聖体拝領に次いで聖体訪問という信心上の行事は頗る大事な又有益な事である。
燈火親しむべし
「余りにも明瞭」と。しかし現代の司牧者方の中に「カトリックの信仰生活の “中心” は聖体であらねばならぬ事」が「余りにも明瞭」と仰る方は果してどれだけあるでしょうか。
「頗る大事な又有益な事」と。しかし現代の司牧者方の中に「聖体訪問は頗る大事な又有益な事」と仰る方は果してどれだけあるでしょうか。
「ロザリオ? ええ、それもいいでしょう。聖体訪問? それも結構なことです」という程度の一応の認めをすることと、上の早坂司教様の御口調のような明確で強い肯定を打ち出すことは、全く別のことであります。
次に、本年同期にこれも浦川師の舊著「基督信者宝鑑」が第4版の銘を打って出た。(中略)
信者の平生実践すべき徳行とか、不断に見聞している聖会の色々な典礼の解説とかまで頗る懇切に解り易く訓〔おし〕えておられるので、その益する所は甚大なるものがある。斯かる本は信者としては一人残らずその座右に一本を備え置き各自の日常生活を規矩して行く好羅針盤とし良師として味読体読すべきものであると信ずる。(中略)
(中略)信者という信者は何が信仰に絆う実行であり如何様にせば信仰によって活きて行かれるか、実践躬行の信者たるにはどうすればよいかを学ぶがためには是非本書を精読し実際化されん事を一般信者に特にお薦めする。
燈火親しむべし
一昔前の司牧者はこのような所に「信者の霊魂に甚大なる益をもたらすもの」を、そしてそれ故「信者が一人残らず携行すべきもの」を見ていたのであります。しかし、そのような強調指示、そのような強い推奨は、現在のカトリック界には正に影も形もありません。時代が変われば、かつてカトリック司教が「余りにも明瞭」とか「甚大」とか言っていたものも、今では〈そうでもない〉ようなのです。
因みに、浦川司教様の御著作(訳書を含む)は現在、国会図書館デジタルコレクションでかなりの数、読むことができます(参照)。その中には『聖体訪問』も『基督信者宝鑑』もあります。また『聖体訪問』は、レデンプトール会から『聖体訪問と聖母訪問』という題で、今日的な言葉による翻訳が出ています(参照)。(尚、国会図書館デジタルコレクションのデータは「印刷する」のボタンを押すことでPDFファイルとしてダウンロードも出来ます。)
再び早坂司教様の御文章。
俗にいう「精神修養」のため我等は聖書以外に幾多の修養書を持っている。前号で信仰用の名著として浦川師の「聖体訪問」と「キリスト信者宝鑑」とを推薦したが「イミタシヨ・クリスチ」(中略)は確かに名著だけあって、いやしくもカトリックの眞の精神を摑むには、信者、未信者に拘らず必読の書である。「心戦」、「信心生活の入門等の名著もすでに吾カトリック界に翻訳せられて、信心上、修養上の教科書ともなっている事は、我々日本人カトリックとして特に、訳者故ラゲ師と戸塚師とに篤く感謝する次第である。
もし夫(そ)れ秩序ある精神修養、少し専門的な信心修養を試みたいとあらば、その道の一大権威であり且つ又イエズス会の創立者である聖イグナシヨが、その範を垂れておらるるのである。昨年9月長崎教区の浦川師が「聖イグナチオの真意を汲める『心霊修行』」と題してその第三巻を出版せられたるものが即ちその役を承るべき性質のものである。
(中略)結局どちらかといえば修道者向きの本ではあるが著者の言われている通り平日の黙想用、霊的読書用ともなれる体裁のもので、全三巻を通じて千六百五十一項(ページ)という広範なるもので、他に幾多の教務を帯びて忙殺せられておらるる浦川師にしてよくこれを成し遂げたその根気と熱心さには感嘆するより外はない。(中略)
なお第三巻末尾には付録として、黙想の栞という項目で黙想前中後の心得を丁寧懇切に説かれ、記憶、理智、意志等の人間三大能力の運用、及び黙想の結ぶべき実たる糺眀と反省と決心等まで幾何学の定理に伴う系のように順序正しく理路整然と説明せられている。貴重なるカトリック生活の文献である。修道生活に志す者は勿論、通俗の信者といえどもこれを精読したなら裨益するところ実に大なるものある事と信ずる。
燈火親しむべし(その2)
兎に角、一昔前の司牧者の目の付け所と現代の司牧者のそれとの違いはどんなでしょう。
今迄も何度か書いて来たことだけれど、私達の戦いは「強調」をめぐる戦い、「重点」をめぐる戦い、「ニュアンス」における戦いです。正にそれがポイント。「否定していないからそれでいい」のではない。
敵は「真っ向否定」はしませんでした。彼等もそれほど馬鹿ではないからです。彼等が仕掛けて来たのは Shift of Focus(焦点ずらし)でした。
ところで、早坂司教様が浦川司教様の霊操の解説書『心霊修行』を「結局どちらかといえば修道者向きの本」であると言った理由は、そもそも聖イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』が修道者向きの本だからであります。『霊操』の註解にも次のようにあります。
此の小冊子は霊操を初めて為す者のために使用されるものではなく、又イエズス会入会後、最初に為す修練士の三十日の長期に亙る霊操に於てすらも使用を許されないものである。
しかしながら早坂司教様は、浦川司教様の『黙想の栞』(これもロヨラの『霊操』を前提としたものですが)について「通俗の信者といえどもこれを精読したなら裨益するところ実に大」であろうとも仰っています。これはある意味、『霊操』を一般信徒にも開こうとする御言葉です。
そして同様のことを、イエズス会訳『霊操』の訳者さんも言っています。
本書は霊父指導の許に霊操を行う際に用いるか、さもなくば若し此の様な便宜を持たれない方々は、浦川和三郎師の名著「黙想の栞」(長崎カトリック書店発行)を反復精読された後に、本書を使用される事を希望する次第である。
これらを以て二つの事が確認されます。一つは、ロヨラの『霊操』は基本的には修道者向けのものだけれど、一般信徒もそれに関心を持っていいという事、そして今一つは、一昔前の司牧者達は(上のイエズス会訳は1937年 -- 昭和12年 -- のものですが)浦川司教様の『黙想の栞』を高く評価なさっていたという事であります。
それで、ここでやっと本日の表題と結びつくわけですが……PDF化しました。
ダウンロードは  OneDrive  又は 4shared
OneDrive からはどなたでも直ぐにダウンロードできますが、
4shared からの場合、アカウントをお持ちであることが必要です。
国会図書館のお世話になりました。心霊修行・第3巻黙想の栞
しかし個人利用を目的としたいわば「自家版」ということで、読み易いように言葉の古い表記(漢字及び仮名遣い)を現代風に直させてもらいました。 靈→霊 給ふ→給う
それから、感謝すべき人に感謝しなければなりませんが、アルカンタラの聖ペトロの『念祷の栞』も同様にPDF化(趣味?)しました。
ダウンロードは  OneDrive  又は 4shared
OneDrive からはどなたでも直ぐにダウンロードできますが、
4shared からの場合、アカウントをお持ちであることが必要です。
日本の少し古い言葉は、読んでいてこう、背筋が伸びるような感じがありますね。
私は、これらの本の一冊を腹に入れ、実践躬行すれば、私達の救霊は大丈夫だと思います。(言うは易し?)
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