2013.10.03

相変わらず芸術家の選定を間違っているバチカン

フランシスコ教皇様は2013年7月5日、バチカンの一角に新しく置かれた大天使聖ミカエルの像を除幕し、祝別し、ベネディクト名誉教皇様と共に、同大天使に(聖ヨゼフ様にも)バチカン市国を奉献なさいました。
参照: バチカン放送局秋田日記さん
この事を、私も喜びます。
しかし、教皇様の御事とは全く別に、その像自体は善くないと思います。
設置場所
これは問題ではないのですが、一応確認しておきましょう。像が設置された場所は、種々の観察からして、おそらく次の場所(黄矢印)でしょう。
バチカン駅を出て左を見れば、すぐに目に入るでしょう。
全 裸
像はこれです。
彼は「素っ裸」です。彼を僅かに隠しているのは、衣服ではありません。彼は、衣服は文字通り「一つも」身に着けていません。
上半身が裸であると云うものは、従来の聖ミカエル像にも全く無いわけではないようです。(下左)
サンタンジェロ城(ローマ)
 
灯台の聖母トラピスト修道院
しかし、それにしたって「素っ裸」であるわけではありません。
そして大抵は、上も下もちゃんと衣服を着けているわけです。(上右)
今回の実質「全裸」の聖ミカエル像は「異常」と云う他はありません。
布の行き先
彼を隠しているのは、衣服ではなく、長い帯状の布の端です。
しかも、その帯状の布を辿っていくともう一方の端に行くわけですが、それはどこへ行くかと云えば、なんと、下の悪魔の股間に行くのです。
馬鹿ですか。何故「聖ミカエル」と「悪魔」は股間を隠すために一つの布を共有しなければなりませんか。こういう造形をする作家の神経が解りません。
敵対せず
聖ミカエルの御像は大抵「剣」を持っているものです。
しかし、この像は剣を持っているようでありません。
持っているのは剣よりずっと長いものです。
「槍」でしょうか?
いいえ、おそらくただの「長い棒」です。
しかも、その棒は悪魔の股の間を通っているので、
悪魔を突いていませんし、悪魔に「向けられて」さえいません。
それはただ、彼らが乗っている球体に置かれています。杖のように。
或いは、彼がその棒で何かを突いているのだとしても、球体を突いています。
この「聖ミカエル」は実のところ、
悪魔に敵対していないに違いありません。
真の構図
では、悪魔の方はどうでしょう。
見れば、彼は寝転んではいるが、苦しそうな顔も悔しそうな顔もしていません。
彼は、不気味に静かな佇まいを以て、天主様に対する叛意を今なおその右手の形に表しながら、イエズス様の刺し貫かれた御手を見ています。
作者にとってはこの二つの手(の対照)が重要だったに違いありません。
この二つの手と悪魔のこの目線が、この作品の中心的な構図なのかも。
長い棒を持って素っ裸で立つ男によっては彼は攻撃され得ず、従って涼しい顔をしています。この作品にとって裸で立つ男はほとんど意味がありません。ただ見る者を騙す飾り、道具立てと云うだけです。
この作品の真の主張は「悪魔は今もイエズスに挑み続けているよ」でしょう。例の「偽装の芸術」(裏切りの芸術)による「秘かな宣言」というやつです。
球体に巻かれた帯の上にはラテン語で "…et portae inferi non praevalebunt" と書かれているようです。それはイエズス様の聖言「...そして地獄の門もこれに勝てない」です。しかし、私達はこれに安心することはできません。何故なら、「偽装の芸術」とはそもそも「偽」ばかりで成り立つものではないからです。それは「悪魔の嘘」と同じく、常に「真と偽の混合」です。
フリーメイソンの影
球体は、普通に考えて、地球を意味します。
地球は全世界を掌握したいフリーメイソンが好むモチーフです。
球体を含めた下の部分を見てみます。
球体、直方体、そして、舟です。
つまり、私の目には、次の二つを組み合わせたもののように見えます。
 
つまり、やっぱりフリーメイソンの造形に見えるのです。
舟については「フリーメイソンもノアの方舟が嫌いではない」を参照のこと。
地球については、NHKのオブジェでは分かりませんが、彼らは二本の柱のうちのボアズ(Boaz)の方に地球をのっけることが多いのです。また、ボアズに限らず、彼らは支配対象たる地球を表わすのが好きなのです。
作者はジョゼッペ・アントニオ・ロムッシオ(Giuseppe Antonio Lomuscio)という、彫刻も絵画も手掛ける著名なアーチストということです。
参照: 彼の公式サイト一つの紹介記事
彼とバチカンとの関係が始まったのは──少なくともその関係が「深まった」のは──ヨハネ・パウロ二世教皇様の時代に於いてのようです。
彼は聖人の肖像画なども沢山描かしてもらっているようです。その中の幾つかは既に私達の目に入っているでしょう。例えば、次の絵など。
聖アルフォンソ・デ・リゴリ
しかし、彼の公式サイトには幾つかの怪しげな絵があります。
私が筆頭に挙げたいのはこれです。
目隠し、白と黒のチェック柄の床、円柱、円形広間(rotunda)と来れば、これは完全にフリーメイソンの世界です
このような絵が彼自身の発案によるものではなく注文主の要望に応えて描かれたのだとしても、そのような要望に応えることができたということが、一つの見るべき事実です。
彼自身がフリーメイソンであるかどうかは、さして重要ではありません。上の絵で分かるのは、彼が教会内フリーメイソンからメーソニックなモニュメントを発注された場合、彼はそれに応えるだろうということです。
また、フリーメイソンという要素(或いは、影)を除外して考えてさえ、彼は教会のための芸術家としてふさわしい人ではない、ということはハッキリしています。
何故なら、簡単な話、彼は女性の裸体を描くことができる人だからです。
また何故なら、彼は悪魔的なイメージも、おそらく面白半分で、描き入れることのできる人だからです。
以上これらの事を、あなたは彼のサイトの Dipinti Vari(種々の絵)のコーナーで確認することができます。
言わずもがなですが、彼が(また誰でも)世俗的な世界でどう評価されている人か、ということは問題ではありません。
バチカンは相変わらず芸術家の選定を間違っています。
それがどれほど教会を傷つけることになるかは、別問題かも知れません。
案外、大して傷つけられないかも知れません。
しかし、悔しく、馬鹿馬鹿しいことではあります。
今後、バチカン駅に降り立った人達は、まるでポール・ダンスを踊るゲイのような、スッポンポンの「大天使聖ミカエル」を見ることでしょう。
再度確認。今回述べたことは、教皇様のなさった奉献とその御意向とは無関係です。教皇様のそれらに関しては、私は「善い」と思うだけです。前回書いた通り、フランシスコ教皇様は私達の希望であり得ると思います。
教会内の "イタズラ坊主たち" のことは──私は気づいた限り、今回もこんな記事を書いたわけだけれど──まあ、あまり気にし過ぎるべきではないのかも知れません。善悪は、決着する時には決着し、悪は、終息する時には終息するのだから。(他の全てに於いても。)
参考記事: Tradition in Action
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