2013.11.18

池長大司教様には
「常識」の名によって人を責める資格がおありか 3/4

教訓、或いは常識

 もう一度振り返らせて頂きます。

 大司教様は「人に迷惑をかけてはならない」という一つの道徳だけを取り上げ、「犯罪事実の宣言にはその根拠の提示も必ず伴っていなければならない」という原則を無視なさいました。

 失礼な言い方ではありますが、私達はその大司教様のお姿の中に、一つの教訓を得ることができると思います。それは、物事というのは、「善」というのは、一つの道徳箇条だけを振り回してそれで済むというわけではない、ということであります。

 一つのものを、あたかもそれがそれ独りで存在しているかのようにではなく、それが置かれた「局面」や、それを取り囲む「全体」や、それと結ばれた「諸関係」やを含めて見なければならない。

 つまり、どんな道徳箇条も当該の局面に「適用」される必要がある。その局面にはその道徳箇条のほかに別の道徳箇条が関わっていることはないかをよく調べ、複数の道徳箇条が競合する場合には、重要度の違いを量り、優先順を決めなければならない。

 そして、たとえ自分の目に真っ先に入って来ていた道徳箇条でも、優先度が低いと分かった場合には、引っ込めなければならない。無くすわけではない。順位を下げなければならない。より重要度の高い道徳箇条に席を譲らせなければならない。

 思うに、これは「常識」だと思います。

 だから、池長大司教様のあの物言いは「いくら何でも」なのです。
 池長大司教様が上のような事を弁えておられたならいくら何でも、あのような言い方はなさらなかったでしょう。要求を退けるにしても、もう少し "答弁に苦しんだ" ことでしょう。それを、何ですか、一から十まで相手を非常識扱いして。
 どっちが "非常識" なんですか。より本質的な所で。

本質的な所は「公開」云々ではない

 もう一度「本質的な所」を確認しておきます。

 大司教様は「公開」という事にこだわられました。確かに、「憂慮する会」はそれを求めたのです。前回言ったように、求め方があまり巧くなかったのです。しかしそれは、彼らが私のようには狡猾でなかったというだけの話です。また、本来は「資料の公開」でも問題ない、何ら「非常識」ではないということも、前回お話しました。

 そこをもう一度言うならば──

 犯罪事実の「公言」があるならば、その根拠の「公示」があって然るべきである。そして、この文脈に於いて「根拠の提示」=「資料の公開」であったとしてもおかしくはない。

 百歩譲って言えば、「そんなには」おかしくはない。学術界、言論界、報道界などに於いては、そんなことは普通にされている。だから、今回のステージがそれらの「界」ではなかったとしても、「そんなには」おかしくはない。あってよいことである。

 それ故に、間違っても「非常識」の一語をもって、全くの非難をもって斥けられるようなものではない。

 ──ということです。

 以上が理念的なことです。
 次は人間的なことです。

 以上のような訳ですから、とにかく大司教様は、たとえ文字通りの「資料の公開」には応じられなくても、彼らの望みの本質的な所、素朴な所──「根拠を知りたい。そのように言う "理由" を知りたい」──をお汲み取りになり、大司教様として出来得る範囲で、もう少しは好意的な、心ある御反応をお返しになることも出来た筈です。
 しかし、見受けられる所、そのような御心の動きは「皆無」であられたようです。それどころか、その「真逆」であられたようです。
 残念な事でした。どうかなさっている事でした。

結 論

 私は、カトリック聖職者があのような形で「常識」という言葉を使ったことに関して、信じられないような思いで居ます。だから、ここに結論を強めに置いておきます。(強い表現は既に沢山したけれど)

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 以上見て来た理によって、池長大司教様には「常識」の名によって人を責める資格がおありでありません。
 真実はそれとはまったく「逆」であります。
 すなわち、一つ事を取り上げてではなく凡ゆる理念を拾い総合的に見た時──と云うか、ハナから "感覚" で、パッと見てすぐに分かることでもありますが──「非常識」を働いているのは「憂慮する会」ではなく、大司教様の方であります。

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