少し「抑制しなさすぎ」ではないかと思うが、この際全部出しておく。
(1) 知 的
多くの神父様方は "お勉強家" である。"言語的" である。しかし、私などから見ると、あなた方は「うかうかと言語的」である。
あなた方は本当に「説明」に弱い。
「説明」さえ付けばOKだと思っている。
言葉の "現実性" とか "影響力" とかいったものに対して必ずしも敏感ではないし慎重でもない。
言葉を差し出されると言葉だけの海に泳ぐ。
「現実」ということに鼻が利かない。
言葉だけで分かった気になる。
参照: 非現実的
(2) 純 真
そしてまた、かなり純真な感動家である。少しばかり「奥深そう」なものに出会うと、他愛なく感心してしまう。
菊地司教様
世界的に名の通った芸術家が作ったと聞くだけで「ほう」と思ってしまうのだろうし(参照)、また、マシア神父が「とても奥深い話」をする、などと言う。参照
遠藤周作について書いた所(参照)でも書いた事だが──ある方面を普通の人よりも多く見、多く考えている人が、標準的な人が思わず "感銘" を受けてしまうような「奥深い話」又「奥深そうな話」を言ったり書いたり出来るのは、ある意味、当り前である。しかし、それが私達の信仰にとってどうであるかということは、別問題である。この点、私達は醒めていなければならない。純朴なのはいいけれど、"お人好しの純朴" とはならないよう、気をつけなければならない。
糸永司教様
現代世界憲章の22番を見て「このような表現は初めて聞いた」と「強烈な印象」を受けるが、しかしその表現に付された "説明" が「神の愛」を非常に(本当は "異常に")高く広く描いているのを見ては "感銘・感動" し、結局はそれを受け入れてしまう。参照
天主の教会の「公会議」の最終的な文書の中に悪いものが入る筈がない、という先入観・固定観念も、彼の中で巨大なのだろうが、それ以前に、人間としての御性質として、どこか "純真" であられる。
(司教様。本当は、あなたの受けた「強烈な印象」は、あなたの中で「疑い」を成長させなければならなかったのだ。しかし、言葉の海だけを泳ぐあなたの知性とあなたの純真さがそれを防いでしまった。)
このお二人はただ「例」であるに過ぎない。ブログを持っておられるが故に私に文句をつけられることになったところの。
実際は同様の神父様方が沢山おられるに違いない。
その頭は言語的であり、その心は案外と純真である神父様方、あなた方は、一見もっともらしく見えるが実は不実な言語表現によって、言語感覚を乱されています。私達の信仰の重要語について、本来の言語感覚を取り戻してください。