2013.12.18

池長大司教様の良くない世界 Part 6

余 談

たかが被造物の感じ取り

まあ、「余談」としておく。
しかし、語義矛盾のようだが、「重要な余談」と言いたい。

 前回、こう書いた。

 あれらの記事の中に何度遠藤氏の名が出て来たことか。
 その中の一つで大司教様は言う。

まさに遠藤さんが感じとり、『沈黙』で表現された点と同様なことを、私も感じたことがあります。(…)

まさに遠藤さんが感じとった部分では、ある意味において伝統的なカトリックの教えは間違いだ、と感じました。

文藝春秋 2012年12月号 pp. 327-328 (前後関係

 このような言い方から、大司教様が遠藤氏のその「感じとり」に大いに共感し、その「感じとり」を高く評価していることが分かる。
 しかし私達は、遠藤氏のその「感じとり」がどれほど大したものか、と疑わなければならない。

 この遠藤氏の「感じとり」、つまり「感じ方」について、一つの例を挙げたい。或る対談に於ける彼の発言である。

復活祭のまえ、ローマに行ったことがあるんだけれど、裏道を歩いていたら娼婦に誘われました。それを断って、しばらくして復活祭のベネディクションを見ようと教会に入ったんですよ。そしたら、さっきの娼婦がいちばん前の席でいっしょうけんめいお祈りしてるじゃないですか。これなんか私にはとてもうれしかった。カトリックって清濁併わせのむ感じでいいと思いました。

 遠藤氏のこの発言──というより「感じ方」──のおかしさは、彼がその娼婦の姿を教会の中に見て咄嗟に「うれしく」感じた、しかも「とてもうれしく」感じたというところにある。

 私も、どのような場合も「うれしく」思ってはならないとは思わない。その娼婦の中に「悔い改め」の気持ちを確認したなら、カトリック信者は「うれしく」思うべきだし、実際「うれしく」思うだろう。

 しかし、人というものは、実際のところ、どのような気持ちで教会の中で「いっしょうけんめいお祈り」するか分からないものである。
 私はこれを、特に意地悪な気持ちで言っているつもりはない。ただ実際、人というものは、たとえ「カトリック教徒」であっても、かなり "いい加減" なところがあったりすることも多々あるからである。

 そして第一、「娼婦」という稼業は罪である。私達は「罪を憎んで人を憎まず」的なことも考えなければならないけれども、またこれも忘れるわけにはいかない。

 聖ヨハネの福音書の8章に「姦淫の女」についての話がある。
 それについて「心のともしび」が正しく解説している。

勿論イエズス様は姦通の罪を軽くお考えになったのではありません。その罪の重さを認めながらも、その女の人にあわれみをおかけになりました。ですから、彼女の罪をおゆるしになってから、「これからはもう罪を犯してはいけない」とおっしゃったのです。

 カトリック信者の基本的な姿勢はこれでなければならない。

注)私は、本当は、上の「心のともしび」の解説も "言葉足らず" だと思う。イエズス様はどちらにせよその女性をその残酷な刑からお救いになっただろう。しかしそれは、その女性の「罪」までを赦すということとは別である。イエズス様がその女性の罪までをお赦しになったということは、イエズス様はその時、人の心を見抜く御能力によって、その女性の心の中に "悔悛の情" が萌え出るのをご覧になった、ということである。謂わばそのような内情があった。
 もう一度言う。イエズス様はどちらにせよその女性をその残酷な刑からお救いになっただろう。しかし、"悔悛の情" がない者に関しては、イエズス様と雖も、その罪をお赦しになることは出来ないのである(罪を悪いと思っていない者をどうして「赦す」ことができるのか。これは天地の道理である)。しかし、その女性には実際、"悔悛の情" があっただろう。最初はただこんな事(あわや石打ち)になってしまったことへの "後悔" でしかなかったものが、天主に会って急に照らされ、"悔悛の情" にまで一変せしめられた、それが "引き出された"、ということかも知れない。彼女は「主よ」と呼びかけている。

 ところが、遠藤周作氏の心は、そういう通常のカトリックの基本姿勢から離れているのである。彼はただ教会の中にそれを見て、かなりアッケラカンと、「とてもうれしかった」のである。そしてそれを「清濁併わせのむ」と結ぶのである。

 似たような言い方に「カトリックは "懐が深い"」というのがある。しかし、そうだとして、どのように "懐が深い" のかを、カトリック信者はよく考えるべきだと思う。

 だから、結論を簡単に言えば──

たかが被造物の「感じとり」にそこまで重きを置いている池長大司教様はおかしい。賢明でない

 ──と云う事である。

 そして、私達の "理性" の前に「聖書」が開かれている。

 遠藤周作氏は「たかが被造物」なのである。しかし誤解なく、私は遠藤氏を貶めているつもりはない。私もまた「たかが被造物」なのである。

 そして、私は遠藤氏が上のような変な事ばかり言っていると言うつもりもない。作家というものは多くの事を考えるものである。だから、中には、私達がなかなか気づかない視点というものを出すこともあるだろう。しかし、それが私達の信仰にとってどうであるかということは、別問題である。私達は物事にあまり他愛なく感心しない方がいい。

後日の追記

2013.12.26

 読者から次のような指摘があった。
 「『たかが被造物』と言ってしまえば、聖母を始めとする偉大な聖人達の価値をも低めてしまうことにならないか」
 私の言葉に不足があったのだとすれば説明する。
 今回言いたかったのは私達の「意識の持ち方」のことである。自分に関する。自分が被造物であることに関する。自分より高いものがあることに関する。
 私達は天主の御前に自分を無価値なものとしなければならない。逆説的にも、それをして初めて価値あるものとされる。これをしたのが聖母マリアであり偉大な聖人方であった。それ故に彼らは高く挙げられた。
 天主の御前に「自分」を無価値なものとしなければならないなら、従って「自分の感じ取り」も天主の御前に無価値なものとしなければならない。(基本的に)
 もちろん私達は自分の「感じ方」から全く離れて生きることはできない。しかしそれでも、「私がそう感じるから」と、自分の感じたところをそのまま価値あるものとするのは善くない。天主の御前に一度自己否定しなければならない。必要なのは、謂わば「感じ方」を神に教わるということである。「好きなように感じさせろ」というわけにはいかない。
 そのために第一に役立つのは聖書を "理性的" に読むことである。
 まだ言葉が不足だろうか。

 また、これも言っておかなければならないだろうか。
 (1) 私にとって私の隣人はもちろん価値ある存在である。彼また彼女は「人間の尊厳」を持っている。もちろんである。
 (2) しかし、こと天主の御前では、私達は自分を「無価値」のものとし、時には「無」とさえしなければならない。
 現在のカトリックに於いては、ほとんど (1) だけが膨れ上がっている。

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