2013.12.18

池長大司教様の良くない世界 Part 5

判断の基準

 彼が何を斥けようとしているのかを、もう一度見てみる。

罪を罰する「父なる神」を強調するヨーロッパのキリスト教

欧州では罪と罰の「厳しさの神」が前面に出すぎ

伝統的な教えでは、罪の悪性が強調されます。たしかに罪が悪であることは間違いない。では罪に対する神の態度はどういったものなのか。伝統的なカトリシズムでは、許すよりも、むしろ裁くほうを強調しすぎてきました。

文藝春秋 2012年12月号 pp. 327-328 (前後関係

 彼の言葉を字面だけで読む人は、こう思うかも知れない。

池長大司教様は「罪を罰する父なる神」の過度の強調を退けようとなさっているだけで、「罪を罰する父なる神」の存在までも退けようとなさっているのではありません。その存在はちゃんと認めておられます。

 しかしそれは、言葉を言葉だけとして受け取り、〈その言葉が現実にどのような作用を及ぼすか〉についての観察眼の足りない人の受け取り方である。人はそのような言い回しで、つまり「その存在自体は否定しないが、それについての過度の表現は控えるべきである」などと云った言い回しで、実質上、「伝える」「教える」の現場から、そのものの存在自体までをほとんど「追い出す」ことが出来るのである。いわゆる「骨抜きにする」というやつである。

 それはフリーメイソン的な話法である。しかし全ての司祭がそれに引っかかった。今や彼らは口を揃えてこう言うのである。

カトリックの教えは変わっていません。
変わったのは教え方だけです。

 このような言い回しがどれほど「非現実的」なものであるか、現代の司祭達は一晩でも二晩でもぶっ通しで考えてみればいいのだ。忘れずに聖書を開きつつ

 そして、池長大司教様の事に戻れば、私は本当は、池長大司教様が「罪を罰する父なる神」の存在を認めているかどうか、確かでない。彼がはっきりと認めているのは「罪が悪であること」である。

伝統的な教えでは、罪の悪性が強調されます。たしかに罪が悪であることは間違いない。(…)

罪が悪性であるのは確かですが(…)

文藝春秋 2012年12月号 pp. 327-328 (前後関係

 しかし読者は、カトリックの高位聖職者が「罪は確かに悪い」と言ったからと云って、その言葉が "聖書的な結び付き" を持っていると早合点しない方がいい。「罪は悪い」とは、一般人(未信者)でも言い得る言葉である。池長大司教様の場合、一般人の意識にほんの少しコショウがかかった程度であるかも知れない。彼は「伝統的カトリシズム」が持つ「罪」への意識を否定した。同様に、内的に──表には出さないという "ごまかし" によって──「罪」に関する「聖書」の記述をも、つまり天主様の聖言[みことば]をも、彼は斥けているかも知れないのである。(否、「かも知れない」ではない。それは強く類推される。私達はそれを確かめよう。)

具体性と基準

 私も、「厳罰の神の過度の強調」ということが全く起こり得ないとは思わない。あり得ることだと思う*。しかし、具体的に何がその「過度」に当たるかということになると、各人の意見は違うだろう。

* 例えば、どんなに立派な学校に於いても所謂 "人間的間違い" は起こるものである。本当に非の打ち所のない教育理念を持った学校でも、個人としての教師が「行き過ぎ」などの間違いを犯さないとは限らない。しかしその場合は必ずしも学校の責任ではないことだろう。「伝統的カトリシズム」を考えるに於いて、私達にはこのような視点も必要である。

 例えば、昔の修道者は自分を凝らすために時に自分の体を鞭打ったという。そのような行動の背景にあるのが「罪の悪性の過度強調」だと言うのか?
 池長大司教様ならこの問いに迷わず「そうだ」と言うだろう。
 しかし、私は必ずしもそうは思わないのである。(詳述を省く)

 また例えば、アルスの聖ヴィアンネ神父様やピエトレルチナの聖ピオ神父様は信者達に頻繁なる告解を励ましただろう。そのようなことの背景にあるのが「罪の悪性の過度強調」だと言うのか?
 池長大司教様ならこの問いにも「そうだ」と言うかも知れない。
 しかし、私はこれに関しては全くそう思わない。全く。

 しかし、そもそも、或るものが「過度」かそうでないかを決めるために、私達はどうしたらいいのだろう。

茫漠たる連呼

 大司教様の上のような言葉を見て、私は、自分もつい最近、「前に立ち過ぎている」だの、「共通善の過度強調」だのと言ったばかりであることを思い出した。私達の戦いは、まあ、実際、「強調点の戦い」である。

 しかし、私はあれらの記事で「何が過度か」を示す時に、一応、議論に〈具体性〉を持たしたつもりである。つまり、そこには池長大司教様の書簡という具体物があった。この種の論議はそのような具体物と共にされなければ、どうも茫漠としたことになってしまうと思う。

 そしてまた、このようなことも書いた。「司祭の第一の使命はイエズス・キリストと結び付いているのだから、イエズス・キリストを強く打ち出すべき時に共通善の方を強く打ち出したのではおかしいだろう」。つまり、物事は〈それ単独〉では考えられ得ず、常に他のものとの〈関係性〉の上で考えられねばならない、ということである。つまりこれは、〈基準〉の問題、と云えるだろう。

 つまり、或るものの打ち出し方が「過度」であるかどうかを決めるためには、やはり〈それ自体〉だけを取り上げて何となく眺めて「そう感じる」とかやっていたのでは駄目で(いわば雲を掴むようなもので)、やはり「見極める」ためには、〈具体的な対象〉を手に取ってやらなければならないし、また〈関係性〉や〈基準〉ということも意識されねばならない、ということになるのだと思う。

 それで、池長大司教様のあれらのお言葉だが──そのうちの幾つかは比較的長い全文を持つが──そこには〈具体性〉がない。そのため、大司教様が何のどういうところを捉えて「過度の強調」と言っているのか、サッパリ分からない。そして、何を基準にして、ということも見えてこない。彼はほとんど、「伝統的な教えは厳しすぎた、人間を責めすぎた」と連呼しているだけなのである。

 私は人々に「そのような大司教様の連呼に気をつけましょう」と言いたい。彼がそのように言う根底には〈聖書的基礎〉が無いかも知れないのである(否、「かも知れない」ではない。私達はそれを確かめよう)。しかし、人間は厳しいことは嫌いなので、彼の茫漠たる連呼にも頷きかねない。そこに危険がある。

 そう、彼の口から出ているのは「茫漠たる連呼」である。
 何故なら、彼の判断の基準にあるのは次のものだから。

彼らの基準:「私がそう感じるから」

 「彼らの」としたのは、遠藤周作氏を思い浮かべるからである。
 実際、遠藤周作氏と池長大司教様は "近い" のである。

 あれらの記事の中に何度遠藤氏の名が出て来たことか。
 その中の一つで大司教様は言う。

まさに遠藤さんが感じとり、『沈黙』で表現された点と同様なことを、私も感じたことがあります。(…)

まさに遠藤さんが感じとった部分では、ある意味において伝統的なカトリックの教えは間違いだ、と感じました。

文藝春秋 2012年12月号 pp. 327-328 (前後関係

 このような言い方から、大司教様が遠藤氏のその「感じとり」に大いに共感し、その「感じとり」を高く評価していることが分かる。
 しかし私達は、遠藤氏のその「感じとり」がどれほど大したものか、と疑わなければならない。

 遠藤氏の本を少し読めば分かるが、実際、遠藤氏の世界はそれから始まったのである。自分の「感じ方」というところから。簡単に言えば、「常に神から咎められているような気がして苦しかった」というようなところから。

 また池長大司教様自身も、文藝春秋の記事での告白を見れば分かる通り、遠藤氏に近いのである。

 彼らは自分の「感じ方」から「母なる神」を支持するに至ったのである。

 池長大司教様は「いや、私個人にとっての問題というだけではない。それが "日本人の感性" に合っているのだ」と言うだろう。しかし、それでも事は同じである。個人も被造物、それが何万何億と集まろうと被造物である。被造物の「感じ方」から始めるのは善くない。

 しかも、「ヨーロッパの文化」の中にではなく「聖書」の中に、次のような聖言が "厳存" するのである。

魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい。

マタイ 10:28

 例はこれ一つであるわけではない。

 「聖書」の中にこのような聖言が厳存するに拘わらず、ただ「怖いからやだ」とばかりに、天主の宗教に於ける天主のイメージを「母なる神」の方に持って行くならば、それは「勝手に変える」と云うことであって、本質的に「神に対する傲慢」である。

 ところが、池長大司教様はこう言うのである。

カトリックの信仰内容の大半は完全に肯定できますが、まさに遠藤さんが感じとった部分では、ある意味において伝統的なカトリックの教えは間違いだ、と感じました。

文藝春秋 2012年12月号 pp. 327-328 (前後関係

 なにが「カトリックの信仰内容の大半は完全に肯定できる」であるか。われらの神のイメージを勝手に改変するということは、天主の宗教の "中心部" に手を付けたということなのだ。
 彼の口から出ているのは「妄語」である。

言葉のマジックに引っかかる勿れ

 私は読者に注意を促したい。池長大司教様の弄ぶ言葉に。そしてそれ以前に「言葉」というものが本来的に持つ危うさに。

 「たしかに罪が悪であることは間違いない」
 「罪が悪性であるのは確かです」
 「カトリックの信仰内容の大半は完全に肯定できます」

 池長大司教様のこのような "強調" と "断定" を持った言い方は、ぼんやりした、単純な、お人好しの人々には一定の好印象を与えるかも知れない。しかし私は言いたい。人よ、これらの言葉の "見かけ" に幻惑される勿れ。言葉は彼の "外套" である。彼の "中身" はそれほど「たしか」ではないことだろう。

判断の初期的な基準は「聖書」

 私達がどこに「具体性と基準」を求めるべきかと云えば、先ず当然「聖書」だろう。
 勿論、聖書の難しい部分については、私達はその解釈を教会に聞かなければならない。が、そう難しくないところ、ほとんど「当り前」のようなところは、私達は単純に聖書に聞くことができるし、そうすべきだろう。
 ところが、池長大司教様はと云えば、私の見るところ、その単純ささえ破壊しているのである。

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