2013.11.18

池長大司教様と「基本的人権」「人間の尊厳」  7/8

不思議

幼子の目で見て下さい。不思議でしょ?

 もう一度同じ絵を貼ります。この絵は私の勝手な空想から生まれたものではなく、一種の「写実画」であると自負(?)します。彼ら(聖職者の一部)は実際、このようなことをしています。

しかし、不思議でしょ? 何故、下のようでないんです?

 キリスト教は地上の悲惨事だけを相手にしているわけではありませんが、それは兎も角、もしここに何かを持って来るとしたら、これでしょう、主の十字架でしょう。彼らが「キリストの司祭」なら、こうするのが当り前でしょう。

 この「当り前」のことが、どういうわけか、聖職者の一部に於いては行われていません。いわば「置き去られて」います。

 しかし、ここらで「世」に対し「イエズス・キリスト」一本で "真っ向勝負" なさっては如何ですか。イエズス様はどれほど「世」と対決なさいましたか。彼は悪漢とだけ対決なさったのですか。彼は「世の不信仰」をまともにお嘆きになりませんでしたか。それなのにあなた方は別の道を行くのですか。「共通善の過度強調」と云う。
(今の「過度」という言葉はあなた方の使命との関係上のことです。)

 天主様の御眼にはこのように↓映っていると思いますが。

 善の顔して虐待に反対する司祭。しかし、最も酷い虐待をしているのは彼かも知れない。信仰の虐待。

殆ど「共通善」だけを強調して終いにするような打ち出し方、殆ど「共通善」だけで十分であるかのような、或いは殆ど「共通善」だけが「キリストの教えの核心」を成しているかのような口振り──これらは全くもって「フリーメイソン的」と言われるべきです。

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