観 察
現代世界憲章は、AA1025と〈同じ道具〉を手に取り、〈同じ目的〉のために働いている。
〈同じ道具〉とは、聖ヨハネ福音書17章にある主のお祈り、「父よ、あなたが私の中[うち]においでになり、私があなたの中にあるように、みなが一つになるように」である。
〈同じ目的〉とは、上の「みな」という言葉を拡大解釈することである。
AA1025の手記が "本物" であるかどうかは、まあ、置いといて下さい。
AA1025の言葉を見てみます。
(これは、その物語を読んでもらえれば分かりますが、彼が自身の特別の着想として書き留めたものです。抜粋)
ナザレのイエスの最後の祈りを強調すること。これは今まで注目されたことのない祈りだ。
「 “一つ” であるように。父と私が “一つ” であるように」
この点について、特にカトリック側に良心の呵責を増大させること。
キリスト教諸派に分裂を呼んだ責任は、カトリックにあることを強調すること。彼らが妥協しないためにシスムと異端が起こったのだ。(…)
どのカトリック信徒も、プロテスタントを喜ばせるものを見つけ出すよう努めねばならない。
常に、慈善事業と同胞愛の拡大に彼らの心を駆り立てる。けっして神を語らせてはならない。その代わりに、人間の偉大さを語らせる。少しづつ、少しづつ、言葉と心の態度に修正を加えてゆく。
人間を第一としなければならない。人間への信頼を培わせる。すべての善意が一つとなって溶け込む「普遍の教会」を組織することによって、人はその偉大さを現わすのだ。人間の善意、誠実、尊厳は、いつも目に見えないでいる神よりも、遥かに尊い。それを分からせる。
聖書のそのお祈りの箇所を見てみます。
ヨハネの福音書 第十七章 より
(バルバロ訳)
20 |
また、かれらのためだけではなく、かれらのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります。 |
21 |
父よ、あなたが私の中[うち]においでになり、私があなたの中にあるように、みなが一つになるように。そして、かれらも、私たちにおいて一つになるように。それは、あなたが私をおつかわしになったことを、世に信じさせるためであります。 |
22 |
私は、あなたがお与えくださった光栄をかれらに与えました、私たちが一つであるように、かれらも一つであるように。 |
23 |
私はかれらの中にあり、あなたは私の中においでになります、かれらが完全に一つになるように。そして、あなたが私をつかわし、私を愛してくださるように、かれらをも愛しておいでになることを、この世に知らせるためであります。 |
注)より多くの参照のためには前回を見て下さい。
言うまでもなく──
Point 1
イエズス様のそのお祈りの中の「みな(all)」と云う言葉は「信者」のことを意味している。
そうですよね。
何故なら、第一に、それに先行する20節に「かれらのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります」とあるからです。
その「信じる」ですが、英語では「shall believe」となっています。だから、もう少しニュアンスを出せば、「私を信じることになる人々」ということになるのかも知れません。しかしそれでも、イエズス様のそのお祈りが「 "信者になった人々" の一致」のことを言っていることには変わりがありません。
そして何故なら、第二に、そのお祈りは、その後に続く「世に信じさせるためであります」(21節)、「この世に知らせるためであります」(23節)などの句によって "受けられて" いるからです。つまり、主は、「キリストを信じる群れ」と「世(の人々)」を "対照関係" に置いています。"対置" しています。
この事はどの聖書を見ても明らかで、フランシスコ会訳などは6節から19節までに「弟子のために祈る」、続く20節から26節までに「信者のために祈る」と見出しを振っているほどです。
それ故、主の言われた「みな(all)」は「世の人々の皆」のことではありません。
あなたは、このような情景を見てもなお、罪悪感に駆られるか何かして、「それはまあ、基本的には信者のことです」と云うような、煮え切らない認め方をするかも知れません。しかし、それも或る種の "誤魔化し" です。「基本的には」ではなく「単純に」、それは "信者" のことなのです。これはイエズス様のお言葉の真実の問題であって、「そう言っては未信者に悪いような気がする。私達や神様が "狭量" のような気がする」とか云う問題ではありません。(しかし人間は、そのような一種の "気の小ささ" みたいなものを、まずもって利用されます。誰に。悪徳思想家達に。)
さて、AA1025が目論んだ事とは何でしょうか。
Point 2
AA1025が目論んだ事とは、その「みな(all)」と云う言葉の意味を拡大することである。「みな(all)」の中にはプロテスタントも含まれ、他のあらゆる宗教者も含まれ、また更に宗教の問題も超えて「人間一般」までもが含まれることにすることである。それによってイエズス様のそのお祈りを、ただ「人類愛」を呼びかける言葉のようなものにすることである。
そうですよね。
そして、私は断言します。
現代世界憲章はこれと全く同じ事をしています。
すなわち、同じ道具を使って同じ事をしています。
(主の聖言が "道具化" されています)
その物語に従えば、AA1025はこの構想を、或る日心に浮かんだ着想として特別に書き留めています。彼の物語が真実ならば、彼はそれを一つの『企画書』としてまとめ、上司に提出した可能性があるでしょう。そして、現代世界憲章が、謂わばそれを『実行』したという可能性があるでしょう。
現代世界憲章がそれをしているのは、24番に於いてです。
注)「そのもの自体のために神が望んだ (which God willed for itself) 」というのは「神は人間を何かの "手段" として創ったのではなく、それ自体を "目的" として創った」という意味らしいです。
これは人間という存在の "持ち上げ" です。現代世界憲章はあちこちでその種の表現をするでしょう。
さて、検討に入る前に、少しつぶやかせて下さい。
管理人のつぶやき
私にとって現代世界憲章の言葉に耳傾けることは、自分の頭に "もや" がかかったような気分を味わうことです。
上の文章も、何度読んでも意味がクリアーに伝わって来ません。「わけのわからない」文章です。
私はそんなに頭の良い人間ではありません。しかし、この場合は、私が「わからない」のはそのせいだとは思いません。
「神父様方はよくこんなものを読めるものだ、真面目に取り組めるものだ」と思います。
菊地司教様などは現代世界憲章のことをまさに「絶讃」しています。数年前のものではあるけれど.. 外部記事1、外部記事2。
皮肉な言い方をしていいですか? 私はこう思います。
「現行の日本国憲法と『福音的』という言葉を結びつけて平気だという、そのようなおかしな言語感覚を持った人にして初めて現代世界憲章にこのようにも感服することができるのだ」
(参照: 歪められた言語感覚: 今や日本国憲法も「福音的」!)
そして池長大司教様。彼は「わかる」の大家です。
(参照: 彼は精神的・霊的価値を「分かる」ことの重要性を説く)
私は、彼もまた(菊地司教様と同じく)、現代世界憲章の上のような言葉を「わかる」のだと思います。
糸永司教様も。
彼らは「わかって」はならないところを「わかり」ます。
現代世界憲章 (Gaudium et Spes)
日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)
各国語版入口(バチカン公式サイト)