第五章「邪魔者は消せ」
義母は病に伏せり、病院で看護されていた。父は、信心の反作用からか、私に親切にし始めた。父は、これからのことを尋ねた。私は、諦めてはいないけれど、教会が本当に私を必要としていないのであれば、医師になる覚悟ですと答えた。
むろん、私は、緊急の電報を伯父に打った。私の私書箱になっている司祭を通して、返事はすぐに来た。簡潔だったが、内容にはちょっと驚かされた。「邪魔者は消せ」とあったのだ。
無論、私は、秘密諜報員として、特殊訓練を受けていた。攻撃する方法と護身術も熟知していた。今回の場合、事故死を膳立てすべきか心臓発作に見せかけるかについて長いこと自問した。簡単に言えば、悲劇を起こすか、手心を加えるかということだ。
決着をつける場所は、修道院以外の場所が最適と考えた。
その結果、私は文通相手に、この宗教者を何とか彼の家に招いて欲しい、と頼んだ。幸いにも、二人は知り合いだった。
私は、この宗教者が自分に召し出しの印が認められないと結論した理由が知りたいのだと説明したが、これは嘘ではない。
これは私にとって重要なことだった。どうすれば自分の宗教行為を完璧にできるかが分かるからだ。
そればかりか、今回の逆転劇で、すっかり私は取り乱していた。それから、この宗教者の決意を変えることにも望みを託していた。
この二度目の会見を待つあいだ、私は注意深く、自分の本来の仕事に携わっていた。私は、次のように書いた。
教会の分裂によって起きてきた醜聞を、クリスチャンに意識させることが、きわめて重要だ。キリスト教には三種類ある。カトリック、正教、三〇〇余りのプロテスタント諸派。
ナザレのイエスの最後の祈りを強調すること。これは今まで注目されたことのない* 祈りだ。
*〔管理人注〕元の訳は「聞かれたことのない」でした。しかし、私達信者の間でそのお祈りが「聞かれたことがない」ということはありません。英語版を見れば「was never heard」となっています。これを「耳傾けられたことがない」と訳すことができます。しかし、日本語としてはまだ不自然です。「注目されたことのない」と差し替えました。
「 “一つ” であれ。父と私とが “一つ” であるように」
この点について、特にカトリック側に良心の呵責を増大させること。
キリスト教諸派に分裂を呼んだ責任は、カトリックにあることを強調すること。彼らが妥協しないためにシスムと異端が起こったのだ。
何としても償いたいと思わせるまで、カトリックに自責の念を感じさせる。
使徒信条を損なわずに、カトリックをプロテスタント(その他)に近づけるための、あらゆる手段を見つけなければならないと説き伏せる。
使徒信条だけは保持させる。ここで注意。使徒信条は、ほんの少しだけ変更させなければならない。カトリック信徒は「私はカトリック教会を信じます」と祈る。プロテスタントは「普遍の教会を信じます」と祈る。どちらも同じ意味だ。カトリックは「普遍」の意味だ。
少なくとも、教会の発祥においてはそうだった。だが、時代を経るにつれて、「カトリック」はより深い意味をもつようになった。それは、ほとんど魔術的意味を持つに至っている。
そこで、われわれは使徒信条のこの言葉を削除する必要がある。万人の最善の利益のため、プロテスタントとの一致のために。
さらに、信仰と使徒信条が危険にさらされることがないのなら、どのカトリック信徒も、プロテスタントを喜ばせるものを見つけ出すよう努めねばならない。
常に、慈善事業と同胞愛の拡大に彼らの心を駆り立てる。けっして神を語らせてはならない。その代わりに、人間の偉大さを語らせる。少しづつ、少しづつ、言葉と心の態度に修正を加えてゆく。
人間を第一としなければならない。人間への信頼を培わせる。すべての善意が一つとなって溶け込む「普遍の教会」を組織することによって、人はその偉大さを現わすのだ。人間の善意、誠実、尊厳は、いつも目に見えないでいる神よりも、遥かに尊い。それを分からせる。
カトリック教会と正教会に見える贅沢さと芸術は、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒が一番嫌う部分だ。それをはっきりさせる。
この無用の見世物を無くして、よりよい福祉に振り向けるなければならないことを示す。聖像破壊の情熱を煽る。若者は、像、絵、聖具箱、僧衣、オルガン、キャンドル、ステンドグラス、カテドラル等のガラクタを、すべて破壊しなければならない。
「いつか、あなた方は、妻帯した司祭と、土地の言葉で行なわれるミサを見ることでしょう」こんな預言を全世界に広めるのもいい。
一九三八年にこんなことを言ったのは、私が最初だ。その同じ年に、私は、聖職者になる権利を求めるよう、女たちを動かした。それから、教区のミサとは異なるミサも推奨した。食事の前に父母が家庭で挙げるミサのことだ。
次々と、色々な考えが頭に入ってきたが、ますますもって興奮するものばかりだった。
この計画をみな暗号で記録し終えた頃に、翌日にあの宗教者がくることになったとの連絡が、友人から入った。私は行動方針を決定していた。それをごく単純化しようと考えた。
彼は、私がやってくるのを見ても、驚いた素振りを見せなかった。友人は、私について話をしてくれるよう頼んだが、無駄だったので、降参の合図をした。
だが、私は落胆するどころか、いかにも誠実そうなこの男を、柔らかく攻撃することにした。私は、自分が司祭職に入ることを拒むのは、殺人と同罪だと指摘した。
彼はこう答えた。
「自分には何も動機がありません。主が、私の霊魂を照らし、あなたが司祭職に入る価値のない人であることをお示しになったのです。」
自分が苛立ってきたことを認めなければならない。答えになっていない。だが、最後に、彼が嘘を言ってはいないことを信じた。事実、彼は、一種の直感以外、私を完全に拒否する動機を持ってはいなかったのだ。
全く、非科学的な話である。その上、彼は、自分のしていることが何ら正統性を得ていないということにさえ、気付いてはいなかった。完璧に魔術によって動かされているのだ。
私は、自分は他の場所で司祭になる決心をしていると言った。だが、彼は、天使のような微笑をもって、こう言ってのけたのだ。
「それに固執するのは悪いことです。」
「あんたを殺してでも、神学校に入るつもりだ。」
すると、彼はこう言ったのだ。
「そう思っていました。」
私は、馬鹿にされたような気分になった。私たちは、長いこと沈黙したまま、互いの目を凝視し合った。
最後に、相手はこう言った。
「あなたは自分が何をしているのか、分からないのです。」
その瞬間、私は、地の果てまで逃げたい気持ちにかられた。その男は、自分には説明のつかぬ力を持っていたのだ。
だが、わが友人が合図を送った。彼は、私が弱腰になっていると感じたのだ。伯父の指令にそむけば、自分はお終いである。何としても、この邪魔者を消さねばならない。自分の価値を、今証明しなければならないのだ。
私は立ちあがると、怪我をさせずに相手を死に至らしめた。私のような人間は、ありとあらゆる特殊訓練を受けている。それは、日本伝来の技だ。当時の西洋人は、攻撃や護身、殺人にさえ、素手だけでどれほど驚異的な力が発揮できるかを、ほとんど知らなかった。私はロシア人だったが、この点において、日本人はエキスパートであると信じる。
その翌日、体が吹き出物に覆われ、私は恐怖に包まれた。体が弱くなった証拠である。肝臓が緊張に耐えられなくなった証拠だ。だが、朗報が入り、私は狂喜した。
父は、私が神学校に入れなくなったために本当に苦しんでいると考え、司教に嘆願しに行ったのである。その願いが聞き届けられたのだ!
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ