2018.04.05

主日の義務 17

律法学者、パリサイ派

多くのカトリック信者は「律法学者、パリサイ派」と聞いた時、まず圧倒的に「律法主義」「教条主義」「原理主義」のようなものを連想するようである。そして、その連想が教会の「掟」「義務」の世界を弱めることに一役も二役も買っているようである。しかし、「律法学者、パリサイ派」に関してイエズス様が最も問題にしておられたのは、現在の私たちが「律法主義」という言葉でイメージしているようなことよりも、圧倒的に彼らの「偽善」の方であった。「律法主義」と「偽善」は、一見似ているようで、違う。

主日の義務 7」で見た岡田大司教様の講話に於ける言葉をもう一度見てみよう。

イエス様は安息日論争というのをしてますね。イエス様が十字架につけられるようになった経緯とか理由はいろいろ考えられますけれども、安息日をめぐる論争というのは一つの大きな理由になってますよね。「安息日にしてはいけないことをした」といって非難されたわけですね。
 日曜日のミサと安息日は違いますけれども、同じように「ミサに出ているか/出ていないか」でその人が「良い信者か/悪い信者か/普通の信者か」、なんか、そんなような判定をおろすというのは、ちょうどイエス様からお叱りを受けた律法学者・パリサイ派と同じようなことになってしまうんだろうと思います。

次に、以前見た、或るシスターの言葉を振り返ってみよう。

2月13日(木)

(…)「旅路の里」のH神父様(イエズス会)の司式でした。牧師さんが「拝領出来ますか」と聞かれると「この "釜" ではそんなの関係ないですよ。だいたいこんなことに縛られるのがおかしいのとちゃいますか」と答えられました。イエスさまも同じでしょう。
時々、ファリザイ的見方の自分が恥ずかしくなります。“信仰を増してください!”

このシスターも、H神父のこの情景に出会う前は、「未信者に御聖体を拝領させるのはどうかしら」という程度には思っていたのだろう。しかし、どういうわけかこの時、自分のそのような考えは「ファリザイ的」だと思ったらしい。しかし、シスターのこの思いは正しいだろうか?

岡田大司教様はこのシスターのようには考えないことだろう。「場合によっては未信者にも御聖体拝領させてよい」とは。しかしそれでも、私は、「律法学者、パリサイ派」と口にした大司教様と「ファリザイ的」と口にしたシスターの間に、何か共通したものを感じるのである。(「主日の義務 1」で紹介した小林敬三神父様にも)

彼らは、一般的によく言われる「律法主義」「教条主義」「原理主義」などといったものを何となく思っているのではないだろうか?

あまりに「法」や「規則」に囚われて、あまりにそれらの字句に忠実にしようとして、結果、人間にとって最も大切なもの、即ち「愛」を見失いがちになる傾向。

彼らは、「律法学者、パリサイ派」ということから、ただそんなふうなことを思っているのではないだろうか?

辞書で言うならば──

コトバンク

律法主義

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

旧約聖書の律法の真の精神を忘れ,条文にとらわれて1字1句に拘泥するような態度をさす。

何かただ、こんなふうなことを考えているのではないだろうか?

しかし、この「律法主義」という言葉はジョン・ハードン神父様編の『カトリック小事典』には載っていない。この言葉は十分に「カトリック用語」というわけではないだろう。また「教条主義」「原理主義」という言葉も、ただほとんど「一般的な言葉」である。言葉は大事である。私たちは気をつけてものを考えるべきである。

私は、人々が「律法学者、パリサイ派」からほとんど上のようなことだけを連想するようであるのを見て、常々残念に思っていたし、そして今、岡田大司教様もそのようであるのを見て、残念である。

福音書を見てみよう。
神父様方が「聖書を読んでも読めない。読むには読むが、読めない」といった人たちでないことを願う。

① 

イエズス様は「律法」に対して基本的に否定的であられなかった

聖マタイ福音書 12:1-8

弟子たち、安息日に穂をつむ

 1 そのころ、ある安息日に、イエズスが麦畑の中をお通りになると、弟子たちは空腹であったので、穂をつんで食べ始めた。2 これを見たファリサイ派の人々はイエズスに言った。「ごらんなさい。あなたの弟子たちは安息日に許されていないことをしています」。3 イエズスは仰せになった。「あなたがたは、ダビデが自分とその供の者たちが空腹のとき、何をしたか読んだことはないのか。4 ダビデは神の家に入り、祭司のほかは、自分もその供の者たちも食べてはいけない供えのパンを食べたのである。5 また、祭司は安息日に神殿において安息日を破っても罪にならないと、律法にあるのを読んだことはないのか。6 あなたがたに言っておく。神殿よりも偉大なものがここにいる。7 もしあなたがたが、『わたしが望むのはいけにえではなく、あわれみである』とはどういう意味であるか知っているならば、罪のない人々をとがめなかったであろう。8 人の子は安息日の主なのである」。

岡田大司教様が言及したこの逸話に於いてすら、イエズス様は「律法にある」と言っておられる。だから、これは私たちが思うような「律法主義を遠ざけた」というような話ではなく、或る意味「律法内の話」である。

そして、ここでちょっと言っておきたいのは──イエズス様は「神殿よりも偉大なもの〔御自分〕がここにいる」とおおせられた後、「人の子〔御自分〕は安息日の主なのである」とおおせられたが、「人は安息日の主なのである」とおおせられたわけではない、ということである。聖マルコ福音書では「安息日は人のためにもうけられたのであって、人が安息日のためにあるのではない。それゆえ、人の子は安息日に対しても主である」(2:27-28)となっている。しかし、これを「安息日は人のためにあるのだから、人は安息日の主である」と考えると、おかしくなる。──こんな馬鹿々々しい注釈をついしたくなるほど、現在の教会は人間中心的な雰囲気が漂う。

聖マタイ福音書 5:17-19

律法とイエズス

 17 あなたがたは、わたしが律法や預言者の教えを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのである。18 あなたがたによく言っておく。天地の続くかぎり、律法の一点一画も消えうせることはなく、ことごとく実現するであろう。19 だから、最も小さなおきての一つでもこれを無視し、またそうするように人々に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれるであろう。

この「律法」というものの問題に関しては、学問的・神学的に考えれば、なかなか難しいものがあるのだろう。けれども、とにかく、「律法の一点一画も消えうせることはなく」とは、なかなか強い言い方である。学者的な人は直ぐにこの御言葉を「要は、律法の “真の目的” は消え失せることはないということであって」云々と解説するだろうけれども。

聖マタイ福音書 23:2-3

2 律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座についている。3 だから、彼らの言うことはすべて実行し、また守りなさい。

だから、イエズス様は基本的に、必ずしも、「律法」に対して否定的であられなかったのである。「すべて実行し、また守りなさい」と言っておられるわけであるから。

次はイエズス様の直接の御言葉ではないけれども、聖書の言葉である。

聖ルカ福音書 2:22-24

イエズスの奉献とマリアの清め

 22-23 モーセの律法に定められた彼らの清めの日数が満ちると、両親は、みどり子を連れてエルサレムに上った。これは主の律法に、「初めて生まれる男の子は皆、主に聖別された者である」と書き記されているとおり、その子を主にささげるためであり、24 また主の律法に述べられているところに従って、山鳩一つがいか、家鳩のひな二羽をいけにえにささげるためであった。

聖書は「書き記されているとおり」「に従って」と書いている。では、現代の神父様方は「主日の義務」に関して同じように言うだろうか? 「教会法とカテキズムに書き記されているとおり」「教会法とカテキズムに従って」と。そのような、聴く者に「忠実さ」を印象づけるような言い方をする神父様は、現在、どれだけ居るだろう? どの神父様も、教会の「掟」や「義務」について言う時、奥歯に物がはさまったような言い方をするのではないだろうか? 言う技術がないのだろうか? 「基本」と「例外」の二つを言えばいいだけだろうに。

② 

「律法学者、パリサイ派」に関してイエズス様が最も問題にしておられたのは、現在の私たちが「律法主義」という言葉でイメージしているようなことよりも、圧倒的に彼らの「偽善」の方であった。「律法主義」と「偽善」は、一見似ているようで、違う。

先ほども挙げた箇所。

聖マタイ福音書 23:2-3

2 律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座についている。3 だから、彼らの言うことはすべて実行し、また守りなさい。

イエズス様は基本的に「律法」に好意的である。
そして、これに続く御言葉を見てもらいたい。
上の続き。同じ3節の途中から。

聖マタイ福音書 23:3-5

しかし、彼らの行ないを見ならってはならない。彼らは言うだけで、実行しないからである。4 彼らは重い荷をたばねて人の肩に負わせるが、自分たちはそれを動かすために指一本触れようとはしない。5 その行ないはすべて、人に見せるためのものである。

これが、私たちが「律法学者やファリサイ派」について最も見なければならないことである。この「偽善」というものこそ、イエズス様が「律法学者、パリサイ派」に関して最も問題になさったことである。「律法をあまりに形式的に重んじて、結果、それよりも大事なことを忘れてしまう」といったようなことではなく、「他者に対しては律法を叫びながら、自分ではその律法を少しも守っていない」という、「偽善」という形の「嘘」のことを糾弾しておられるのである。

そうではないか? 上の箇所の少し後に「偽善者」という言葉がどれだけ並んでいるか、あなたはクリスチャンでありながら、知らないというのか? そして、「あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えても」云々という御言葉も、私には非常に印象的なものだが、あなたの心には何の跡も残していないというのか?

聖マタイ福音書 23:13-29

 13 律法学者やファリサイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。…

 15 律法学者やファリサイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。…

 23 律法学者やファリサイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。…

 25 律法学者やファリサイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。杯と皿の外側は清めるが、内側は強欲と不節制とで満ちている。26 目の見えぬファリサイ派の者たち、まず杯の内側を清めなさい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

 27 律法学者やファリサイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れでいっぱいである。28 このように、あなたがたも外側は、人の目には正しい人のように見えても、内側は偽善と不法でいっぱいである。

 29 律法学者やファリサイ派の者たち、あなたがた偽善者は不幸だ。… 33 へびよ、まむしの子孫よ。どうしてあなたがたは地獄の刑罰を逃れることができようか。

だから、「律法学者やファリサイ派」に関するイエズス様の主要な御関心は、彼らのそのような酷い「偽善」、どす黒い、悪魔的・地獄的なレベルにまで至っていた「偽善」であったのである。

現在の私たちが「律法主義的」「ファリサイ的」という言葉でイメージしがちなもの、つまり「律法の規定に忠実である。しかし、忠実なのはいいが、その度が過ぎているために、人を息苦しくしたり、人を裁きがちになる」といった傾向を持った人のことを、イエズス様は「内側は偽善と不法でいっぱいである」「へびよ、まむしの子孫よ。どうしてあなたがたは地獄の刑罰を逃れることができようか」とまでは言わないのである。

それどころか、もし人が律法に忠実で、他者に言うばかりでなく自分でも実行し、つまりその心に「嘘偽り」がないなら、その情熱が激しめで、ちょっときつめに「一本気」で、そのため周りの者を少しばかり息苦しくさせることがあろうと、イエズス様は基本的にそのような人物をお買いになる(評価なさる)ものである。「少々角を丸くする必要がある」とはお思いになるかも知れないが、その原石を貴重と思ってくださる。その一例が、猛烈なユダヤ教徒、のちの聖パウロだろう。

洗者聖ヨハネもそうだろう。
イエズス様は人の「まっすぐな性質」を貴重視なさるだろう。

現代の神父様方は「人間」を、全ての「人間」を、なるべく良心的に見たいのかも知れない。「人間の悪」というものをあまり見たくないのかも知れない。それで、「律法学者、パリサイ派」のことも、その程度のものに(単なる「教条主義者」のように)考えたいのかも知れない。しかし、当時の「律法学者、パリサイ派」はその程度のものではなかったのである。本当に “どす黒い” ものがあったのである。

あなたは「お前は彼らを見て来たのか?」と言うかも知れない。いや、私は見ていない。しかし、イエズス様が彼らに「へびよ、まむしの子孫よ」「悪魔である父から出た者たち」とまでの御言葉を投げつけておられるのを見れば、それは明らかである。

人間の「悪」を見るのをどことなく避けているように見える現代の神父様方よりは、未信者の太田竜(or 龍)氏の方がまだマシだ。彼の歴史探索がどれほど正しいものかは別として、彼はとにかく「律法学者、パリサイ派」に真っ直ぐ「偽善」という言葉を当てている。参照

結論(或いは、要望)

「律法学者、パリサイ派」についての逸話から、単なる「教条主義はよくない」という程度の結論を引かないでくれ。聖書のそんな情けない読み方があるか。

そして、そんな情けない読み方をする司牧者たちに教会の「義務」や「掟」の世界を薄めさせないでくれ。

「日曜日にミサに出席することは、まあ、昔から信者の『義務』と “されている” わけですが……云々かんぬん、グダグダ」というような、煮え切らない、曖昧な言い方を彼らに許さないでくれ。
(右の御方は引退なさったわけだけれども、彼のそういうのを引き継がないでくれ、神父様方)

①「主日の御ミサに与るのは信者の義務ですとされている、ではなく!)というスパっとした言い方が、まず最初にあるべきである(見本)。そして──
②「しかし、重大な事情があり、どうしても出席できない方は」云々とつなぐ。
こういう二段階の言い方で、実際上、何の問題もないわけである。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックしてください→ フレームページのトップへ