2018.03.22

主日の義務 1

「昔の教会は良かった。掟を守らせ、行うべき義務を要求し、信者もそれを果たすよう努力してきた。ところが今の教会は余り掟のことを言わなくなり何事にも自由過ぎる」

カトリック西千葉教会

これは、西千葉教会の協力司祭・小林敬三神父様が紹介している信徒の声である。私はこの信徒の言葉に深く共感し、「この神父様はなかなか良いものを取り上げる」と思ったものである。

ところが、あとがいけなかった。この文章を更に読み進めてみると、この神父様はイエズス様がお話しになった「放蕩息子」の喩え話(聖ルカ15:11-)を題材に取り、その弟(帰還した放蕩息子)が家を出たワケについて、曰く、その兄が所謂「真面目」タイプの人で、「なすべきことはきちんと果たす人」で、且つ「どうでも良いことにこだわり過ぎる」人で、「周りの人を息苦しくさせ」る人で、そのため「弟は息苦しくなり、自由を求めて遠い国へ出かけたのではないか」──と、そのように “自由な想像の翼” をはためかせた挙句、最後に、教会の「掟」や「義務」の必要を言う人のことを例によって「律法主義」「教条主義」「原理主義」のようなもの(彼は「道徳主義」という言葉を使っているが)と結びつけ、そのような傾向こそ「キリストの教えを歪める」ものであり、「獅子身中の虫」であり、「真の敵はまさにわが身中にありである」と、見事に喝破して終わるのである。○| ̄|_

彼の御経歴はこんなところである。

小林敬三神父様・御経歴

1938年   

東京に生まる

   

東京カトリック神学院に学ぶ

1973年   

司祭叙階

彼は司祭に叙階される前、1970年頃、「東京カトリック神学院」に学んでいる。

彼が学んでいた時代からは少し下るけれども、かつて「東京カトリック神学院」には早副穣(はやぞえ じょう)神父という院長が居たそうである。

彼の御経歴はこんなところである。

早副穣神父様・御経歴

1926年   

広島県福山市に生まる

1952年   

東京カトリック神学院入学

1961年   

司祭叙階

1974年~1984年   

東京カトリック神学院にて指導司祭、院長を務む

2013年   

帰天

そして、東京の幸田和生(こうだ かずお)補佐司教様。彼は、東京大司教区HPによれば、1979年4月に「東京カトリック神学院」入学している。そして彼は──今田健美神父様 3」で既に取り上げたけれども──御自分のブログで、早副院長との思い出を綴っている。赤文字による強調は私。

毎日がクリスマス

 もう亡くなられましたが、広島教区に早副穣神父という方がいました。わたしの中では「早副神父」ではなく、「早副院長」と言ったほうがぴったりとします。わたしの神学生としての生活6年間のうち5年、早副神父は東京カトリック神学院の院長だったからです。(…)

 聞くところによると、昔の神学校にはいろいろな規則があったそうです。(…)ところが神学校に入ってみたら、規則というものはほとんど何もありませんでした。第二バチカン公会議があり、学園紛争があったりした後の時代で、古い規則ずくめの神学校は崩壊していたのです。もちろん外出は自由。門限は一応夜9時だったと思いますが、ほとんどの神学生は玄関の鍵を持っていて、何時に帰ってきてもOKでした。
 神学院ですからもちろん毎朝ミサがあります。
 あるとき、一人の神学生が「ミサに出るのは義務ですか」と院長に聞きました。
 早副院長はめずらしく厳しい口調でこういうことを言いました。
「君は義務だったらミサに出て、義務でなければミサに出ないのか。わたしたちはそんな義務か義務ではないかの世界に呼ばれたのか。そうではない。わたしたちは神の恩寵の世界(はかりしれない神の恵みの世界)に呼ばれたのだ。そのことが分かれば、ミサとはその恩寵の世界を生きることそのものではないか。義務であるか義務でないか、そんなことを問うてはならない。それを問うのであれば、君が神学校にいるのは義務ではないのだから、出て行ったらいい」

この逸話は全信者にとっての「主日の義務」に関するものではなく、神学生たちの「朝ミサへの参加」に関するものである。その二つは同じではないけれども、現代の司祭たちが「義務」「掟」「規則」と云った事とどう付き合っているかを知る上に参考になる。

私は今「規則」と書いたが、私は神学校に於いて「規則」がどれだけ明文化されているか、どれだけ具体的な事項を並べた「規則書」のようなものがあるのか知らない。しかし、神学生の「朝ミサへの参加」などは「当り前」のこととして、わざわざ明文化されたものはなかったのではないかと想像する。

さて、しかし、私の目には、この早副院長の反応は「奇妙」に映る。

神学生からの「ミサに出るのは義務ですか」という問いに対して、彼は「めずらしく厳しい口調で」答えたのだという。つまり、その問いに対して彼の「感情」が、ちょっと激しめに動いたということだろう。

しかし、なぜそんな必要がある? なぜ、感情が動く必要がある? なぜ、先ずは「事実」に即して、単に「事実」に即して、普通に、感情の揺れなしに答えられないのか?

もしその神学校に於いて「朝ミサへの参加」が、事実、神学生たちのための「規則」だったなら(つまり「義務」と言って差支えないものだったなら)、そこは先ず淡々と「はい、それは義務です」と答えればいい。そうして、もし「義務である」ということだけでは何か足りないと感じたなら、次に「しかし、それはただ義務感だけによって参加すればいいというものではありません。と云うのは、かくかくしかじか」と言葉を継げばいい。それだけの話である。

なぜ、「そんなことは問うてはならない」のか ???
「司祭は天主に自己の全てを捧げる。朝ミサに参加するぐらいは当然である」ぐらいのことを、なぜ言えないのか。

思うに、学生の左翼運動が盛んになった頃から若者は「既成の価値観」を何でも一度はひっくり返して曰く「本質的に考える」ことをやってみなければ気が済まないようになり、実際的には何ら問題のない善い慣習に対しても「義務ですか?」などと問うことが何か勝れたことのように錯覚したのだろう。

早副院長のその言葉、「司祭」にはあまり相応しくないその乱暴な言い放ち 「出て行ったらいい」 は、補佐司教様にとって一種の「ショック療法」のように働き、その心に或る種の「解放」をもたらしたようだけれども、もし補佐司教様に或る種の了解(後述)があったなら、早副院長のその言葉はそもそも必要なかったことだろう。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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