2018.03.19

今田健美(こんだ たけみ)神父様 6

書誌情報

今田健美(こんだ たけみ)神父様は「公教要理」を非常に大事になさった。神父様が帰天されたのは1982年だが、その二年後には有志たちが神父様を讃える『種蒔く人』という題名を持った上下巻からなる立派な本を完成させた。その上巻に神父様の「公教要理講解」(東京大司教認可)が収められている。編者によれば、これは「今田神父様が一九四七(昭和二十二)年ごろ講義された内容」とのことである。そのため、用語を若干、第二バチカン公会議以降のものに差し替えたようだが、それによってこの神父様の御精神の息吹が損なわれたというわけでもないだろう。ここに最終章を掲載する。

pp.678-703

十七 信者としての心得

信仰

 信仰というものは、生活の一部とか教養の一端であると言うようなものではありません。実に信仰は、われわれの生活の全部を要求するものであるばかりでなく、生活の全部を支配するところのものです。信仰こそたった一つの最高の王者であるというよりほかはないのです。世間の人は、日曜日ごとに教会に行く者がキリスト教の信者であると考えています。だが信仰は、われわれの生命よりも大切なものでありまして、一切のことは信仰のためになされるものでなければならないのです。ですから信者ならば、信仰がいつでも念頭に置かれなければなりません。それではどういうふうにしたならば、信仰がわれわれの全生活を支配するようになるかと申しますと、それは、「生活がそのまま祈りにならなければならない」ということです。

生活が祈りとなること

 祈りについては、すでにくわしくお話をしました。それは世間の人の考えているような祈りとは大変、相違があります。世間の祈りというのは、病気が治るようにとか、裕福になるようにとか、商売繁昌とか、いずれもこの世の幸福のみをお願いすることであると思っています。その願いは正しい理由もあり、決して悪いことではありませんが、お願いだけが祈りであるというならば、祈りの目的はお願いがかなってこの世で幸福を得ることであり、祈りはその目的である幸福を得ようとする手段に過ぎないものとなってしまいます。ところがキリスト教の祈りは手段ではなく、祈りが全生活を支配する唯一のものであり、最高のものでなければなりません。
 祈りの内容は(一)賛美、(ニ)感謝、(三)罪のゆるし、(四)恵みを願うことの四つでありますが、その根本的な要素は礼拝であります。礼拝とは、人間が神から与えられた知恵と愛とを尽くして、「私は造られたもの、あなたはお造りになった方であって、愛ゆえにわれわれを造りたまい、愛をもって永遠に神とともに生きることができるようにお造りになった。われわれはもともと無であった。無より貧弱なものはあり得ない、私は人間となる資格も権利ももっていなかったにもかかわらず、無から生まれ、今日まで育てられ、未来の完成すらもお約束して下さいました。私の一切のものはすべて神の愛とそのみ業とによるものであること」をまず悟ることであります。
 他の動物は知ることも考えることも選ぶこともできないのに、われわれ人間だけが知性と意志とによって、愛されれば愛し返すことができます。その愛し返す愛は、与えられる愛と比べますと、あまりにも貧弱なものであって、ふさわしくないと知りつつも、私のもつ、いっさいのものをささげて、何なりともお役に立ちますことならば致しますと誓うのです。そのような態度をとることが礼拝なのです。このように真心をこめた礼拝をしてこそ、礼拝は祈りの中心となり、真に有意義なものとなるのであります。もし真心の礼拝でないならば、その祈りは外面がいくら立派でも単に形式に過ぎないものとなります。
 病気になって医者にかかったがなかなか全治しない。そこで神さまに全快するようお祈りをするならば、そのお祈りは病気治しのお願いが中心となっています。ですから今まで医者のほうに向いていたのを、今度、神さまのほうへ方向を転換しただけです。これでは、その人の人格は祈りの前も祈りの後も少しも変化がありません。ところがキリスト教の祈りは、礼拝に始まり礼拝に終わるのです。神はわれわれを愛し、その愛を十字架によってお示しになり、われわれのこたえるのをお待ちになっておられるのです。われわれが自発的にこれにこたえた時、天主の権能をもって、われわれに聖寵をお与えになるのです。こうして祈りの前と祈りの後とでは、人格が向上されることになるのであります。いかに悩みが深かろうと、キリストと共に十字架を担う気持ちで苦難を甘んじて受けることができます。
 使徒たちがキリストに「祈りはどう唱えればよいのですか」とお尋ねした時、キリストは「ではこう祈りなさい」と「天にましますわれらの父よ、願わくは、み名の尊まれんことを………」と教えられました。われわれはお祈りの時、お恵みをお願いするのには、まず「み名の尊まれんことを」と神のみ栄えを祈ることが信者としての祈りの態度にふさわしいことであります。
 「われらの日用の糧を今日われらに与えたまえ」──われわれは、毎日食べ物を必要とします。だがキリストは「人の生けるはパンのみによるにあらず、また神の口より出るすべての言葉による」(マタイ4・4)と言われました。われわれに胃袋が与えられている以上、食べ物が与えられるのは当然です。われわれは愛をもってありがたく頂けばよいのです。われわれは理性が与えられていますから、真理を理解することができることも当然です。われわれは信者になってからも心の養いとして、何度も公教要理管理人注1の勉強に教会に来るべきです。何度聴いても無駄になりません。再び思い出して、いっそう強く心の糧となります。去年はとても感銘をしたと思うだけでは、ほんとうに役に立ってはいません。今日も感銘していることが大切です。去年いくらおいしいごちそうをたくさん食べても、今お腹にはたまっていないのです。われわれは、たまに大盤振る舞いをするより、毎日少しずっ栄養をとることのほうがよいのです。ある時、黙想会に出席して深い信仰に入れたといっても、今日、熱心でなければ何にもなりません。ですから今日われらに霊的と肉体的との糧を与えたまえとお祈りするのです。
 キリストは山上の説教の中で「されば汝らは、われら何を食い何を飲み、何を着んかといいて思い煩うことなかれ、これ皆、異邦人の求むるところにして、汝らの天父は、これらのもの皆汝らに要あるを知りたまえばなり。ゆえにまず神の国とその義とを求めよ。しからば、これらのもの皆汝らに加えらるべし。されば明日のために思い煩うことなかれ、明日は明日、自ら己れのために思い煩わん、その日はその日の労苦にて足れり」(マタイ6・31~34)と仰せられました。まず神の国とその義とを求むることは何より大切です。

神の国とその義の説明

 義という言葉は、正義のほかに慈善とか施しという意味があります。義は掟の精神を正しく表現する方法です。つまり聖なる実践生活であります。しかし聖書の中で、義とせらるとか正義とか義人とか言われている場合の義の本質は、成聖の聖寵が注がれていることと、大罪がゆるされていることです。
 神の義となりますと、神の絶対完全なおん徳のことです。聖パウロによりますと「われらも、わが主イエズス・キリストを死者の中より復活せしめたまいし神を信仰する時は、〔義として〕これを帰せらるべし。そは彼、われらが罪のために渡され、またわれらが義とせられんために復活したまいたればなり」(ローマ4・24、25)としるされています。ですから、われわれは信仰によって義とせられるということは、神の完全なおん徳が聖寵によって注がれるのであります。
 天地万物は神に造られ、神につかさどられていますから、天地万物は神の国に属し、支配されています。神の主宰は被造物の世界に完全に及ぶものです。地獄も神に支配されています。神の国から逃れることのできる何物もありません。しかし福音に述べられている神の国は、キリストの国を意味しています。
 われわれが神の義を現すことは、超自然徳を積んだことです。聖寵の秩序による神のおん徳を戴くことです。キリストの無限の贖いによって人類の罪はゆるされ、聖寵は回復され、神の聖徳が注がれます。これが神の義です。福音の伝えられる国は、キリストの国です。またキリストの国は、キリストの共同体である教会を意味します。キリストは教会を通じて、聖寵をお与えになるよう、秘跡をお定めになりました。信者は聖霊と信仰とみ教えを忠実に守ることによって、キリストの国に属する民となるのです。ですから結局、神の国と神の義とはほとんど同じ意味となります。
 われわれが真に天にましますわれらの父に信頼しているならば、何はさておいても第一番に神の国の民、すなわちキリストの国の民となり、そして全知にして全善なるおん父の義しさを求めなければなりません。言葉を換えて言えば、神の思し召しにかなうように進むことであります。

祈りと実際生活

 信者はだれでも経験することですが、朝起きて朝の祈りを唱え、今日一日奮い立って神のみ旨にかなうようにしようと誓いつつも、腹が立っていることがあります。だがその時、腹が立ったからといって祈りに差し障りはないのです。腹の立った時、怒りの感情を外に現さないで、逆に自分の中に向かって発する時、人は「何くそ」と頑ばる勇気が出てくるものです。真の柔和は怒り自体よりも強いものであります。
 信者は朝、目が覚めたならば、最初の考えをまず礼拝に用うべきです。ですから、まず十字架の印から始まります。そして起床時の祈りを唱え、今日の一日をみ名の光栄のために使う決心を立てるのです。自分はふさわしい者ではありませんが、どうぞよきようにお使い下さいと神に献げるのです。神におまかせするのです。儲けることも確かによいことですが、その儲けることもみ名の光栄のために使うのです。われわれは一日一日、神の子として神の子らしく生きてゆくことが最も大切です。
 キリスト教には「み言葉は人となりたまい、われらの中に住みたまえり」という事実があります。すなわち人間を神に直結せしめられるのであります。われわれ自身が神の子となる事実です。実にキリスト教は人間が神の子となり、神と共に生きる宗教であります。礼拝は人間の力だけによるものではありません。キリストは「われはぶどうの樹にして、汝らは枝なり」「われを離れては汝ら何ごとをもなすあたわず」(ヨハネ15・5)と言われました。信者は枝と幹とのように神と一つの生命につながれているのです。見えない神を信じ愛し、そして神と一つにつながることは、人間だけの力で成し遂げられるはずがありません。
 助力の聖寵と成聖の聖寵とは、ボタンを押しさえすれば与えられますが、それにはまず装置が必要です。われわれが祈る時に根本的にお働きになるのは神ご自身なのであります。ですから祈りはもはや手段ではありません。祈りそのものが目的なのであります。われわれがまじめに熱心に祈るから、祈りが尊いものとなるのではありません。祈りの相手である神がお働きになりますから、祈りは、いかなるほかの行為よりも尊いものとなるのであります。祈りの聖なるわけもこれがためです。
 信者の生活がそっくりそのまま祈りであるためには、成聖の聖寵を確保することがいちばん大切です。それには謙そんの心と柔和な心をいつも、もっていなければなりません。次が大罪のないことです。大罪を犯さないようにするには、小罪までも忌み嫌ってこれを犯さないように常に心がけることです。もしも罪を犯したならばこれを洗い清めなければなりません。大罪は必ず告解しなければならないのはもちろんのことですが、小罪は告解によらないでも、完全な愛の心や熱心な真の痛悔やミサの拝聴、聖体拝領や善業などによってゆるされます。しかし小罪のゆるしのために最も適当な手段は、何といっても告解にまさるものはありません。霊魂を清め、聖化する力の豊かさ、強さにおいては、悔俊の秘跡ほど、すぐれているものはほかにないからです。告解の中心は真の痛悔でありますが、われわれは完全な痛悔を起こすことができるように平素から心がけて、お祈りをしなければなりません。われわれ人間は、その行いを知的判断に基づいてやるべきですが、とかく感情の刺激を受けやすい弱さがあります。感情は熱しやすいが冷めやすいものです。われわれの行為はこの感情にとらわれないで、冷静な心で処理するように理性を働かせるとともに、断固たる決意をもって実行に移すことが大切です。ウロウロする感情はあまり気にしないようにすることです。
 キリストは最後の晩餐の後でゲッセマニの園に至り、「わが父よ、もし能うべくば、この杯われより去れかし、されど、わが意のままにとにはあらず、思し召しのごとくになれ」(マタイ26・39)とお祈りになりました。
 祈りに始まって祈りに終わる信者の一日の生活も、このキリストの精神をもって行動しなさい。夫は夫らしく妻は妻らしく、子は子らしくおのおの自分の義務をこのお祈りの精神をもってなすべきです。仕事の大小は問題ではありません。大臣であろうとも、用務員であろうとも、われわれの行為の価値は、神にこたえるわれわれの愛の大小によって決まるのです。われわれは知恵も愛も肉体もすべて神に献げられていることが、神の第一の掟にかなうゆえんであります。
 信者だからといって、時には意気の振るわないこともあります。一日、幾度も失敗を繰り返すこともあります。その時、「私はやっぱりダメだ」と悲観するならば信者らしくありません。理性で正しいと考え、意志で決意をして行ったことが正しいとしても、いつも実行しやすいとは限りません。また弟気を奮い起こして戦っても、思ったようなよい結果をもたらすものとも限りません。この時、結果のおもしろくないところから、感情は反抗し、このあと、それを続行してゆくことをじゃまします。その時は何ともいえない寂しさや悩みが襲ってくるものです。このような場合に出合ったならば、もう一度奮い立って、根本的な原理の下に立ち返って、はじめから立ち上がりなさい。ことに青年は、さらに一段の勇気を奮い起こして困難のあらしにぶつかって戦わなければならないのです。悪戦苦闘を続けるのです。ただその時、大切なことは、何かしら根本的に大切なことを見逃してはいないだろうか、何かしら足らないところがあるのではないだろうかと反省し、熟慮することです。決して現実的なことにとらわれて、あわてふためいてはなりません。われらのうちに住みたもう神は、もしもわれわれがキリストに倣って十字架を担って進むならば、必ずや助力をお与えになるのです。イエズス・キリストは、そのためにこの世に人となりたまい、世の終わりまで日々われらと共に住みたもうのであります。
 われわれが朝の祈り、夕の祈りをまじめに唱えてお祈りをし、その精神に基づいて今日一日の生活を営んでゆくならば、神は、われわれが感情を支配して、正しい道に進んでゆけるように、必ずお導き下さるはずです。そして、よき準備をした告解や、ミサや聖体拝領に励むことに努めなさい。この世の苦悩や心配ごとにとらわれて、これらの祈りや秘跡に遠ざかっていたならば、再び立ち戻っていそしむようにしなさい。世に晴れることのない雨はありません。必ずやさんさんと輝いた太陽の光を迎えることができるのです。天候に、照る日曇る日のあるように、われわれにも肉体的にも、いそがしい日と退屈な日があります。またわれわれの霊的にもみ旨にかなった輝かしい日と、み旨に背いた暗い日とがあります。だが神ははじめから、いつもわれわれの味方なのです。
 もし、われわれが祈りと秘跡と善業とによって、地の塩となり世の腐敗を取り除くように努力して、あとは万事を神におまかせする時、それは祈りの生活となるのであります。これがキリストの言われた、絶え間なき祈りの意味です。それは礼拝の精神をもって、忠実に掟を守り、立派に地上における務めを果たしたことになるのです。かくして最も人生にとって重大な臨終の時にさえ、希望を抱くことができるのです。「こんなことなら、もっとこの世で苦労をしてもよかった」とさえ感ずることができるのであります。
 キリストのみ言葉をことごとく信じ、これを忠実に守り、自らもつ力のすべてを神に献げ尽くす時、必ず神は聖寵をお与えになり、神の子にふさわしくして下さいます。われわれが永遠の生命を究極の目的とし、今日一日の義務を尽くすために努力して、毎朝祈り、一日一日これを実行してゆくとき、死の準備は完成されてゆくのです。このように信者の生活は祈りの明け暮れとなるのであります。信者の根本要素は、祈りなのです。

祈りの具体的なしかた

 いくら毎日祈りをたくさん献げているからといって、それだけで祈りの生活ができているとはいえません。祈りの生活をするのには、まず祈りをする徳を養わなければならないのです。
 お祈りが、ぴったりとその人の習性となって身についているようにならなければなりません。そこでお祈りを毎日訓練することが必要となってきます。一言にしていえば、毎日しばしば祈ることです。これが日常の祈りです。それでは、いつどういうふうに祈ればよいのかといいますと、普通の日常生活には朝の祈りと夕の祈りが最も大切です。
 信者は祈るとき、「公教会祈祷文」を使って、それに記されているとおりの順序に従って唱えます。だがこれを変えてはならない、省いてはいけない、少しでも違えて唱えれば罪となるというようなものではありません。ただ熱心に祈りたいと念願するならば、祈祷文のとおりに唱えることが最もよいのです。信者は、この順序に従って、いつも唱えて祈っていますと、しだいにそのすぐれた内容であることが身にしみこんでくるのです。
 プロテスタントは「カトリックでは祈りまで統制されていて、印刷された祈りの文章を唱えている。何と宗教的な官僚主義なんだろう。祈りというものは、もともと自分と神との対話であるから、自分の心で思ったままの祈りを献げてこそ其の祈りというべきである」といいます。これは、まことに立派な言い分でありまして、もしどの信者も、そのとおりできたならば申し分はありません。だが実際、手離しの祈りはむずかしいものです。昨日と同じ祈りを今日やっては具合が悪い、それでは今日は何と祈ったならよいだろうと惑います。毎日の祈りが、こんなふうでは、苦心ばかりしていて、祈りの生活とはなりません。戦争中、日本では、国民儀礼として黙祷がはやりました。「黙祷初め」の号令に始まって「黙祷やめ」の号令で終わります。だが、その黙祷の内容は一人ひとりまちまちで、何にも祈りのできてない人もたくさんあったことでしょう。お祈りは号令でできるものではありません。したがってカトリックでする祈りの合唱も、外観の形を整えることはやさしいことですが、心から祈りを学ぶことはむずかしいものであります。
 祈祷書は祈りの本でもありますが、また祈りの教科書でもあるのです。祈祷文の中には、イエズスご自身が「かく祈れ」と使徒たちに直接教えられた、主祷文をはじめ、大天使ガブリエルやエリザベットの聖マリアに対する祝詞、その他、多くの聖人の祈りの言葉が網らされており、そのうえ二千年来数知れない信者が毎日祈祷書によって祈り続けてきたのです。ですから祈祷書による祈りこそ、信仰と愛とによる聖なる日常生活をするための珠玉ともいうべきでしょう。また時には祈祷書は教えの教科書として、別にひざまずかずに静かにゆっくり読んでゆくことによって、導かれることも多いのであります。
 信者はキリストと一致していることによって信者同士も一体となっているわけですが、祈りにおいても信者同士は一つに結びつけられます。したがって祈りが、時代や国や場所が変わっても、いつも同じであるということは、信仰の妨げとなるどころか、かえってピタリと合致した祈りを献げることによって、いっそう緊密にキリストの共同体となり、信仰は深まり、み教えがさらに明瞭に悟られるような効果がもたらされるのであります。このようにカトリック信者は、祈祷書によって祈りを献げると同時に、祈祷書によってあるいは激励され、あるいは慰められるのであります。
 司祭はミサ聖祭の中でイエズスのみ名を唱える時、み名を尊ぶがゆえに頭を下げます。聖マリアと唱える時、聖母に対する深い崇敬の念をもって頭を下げます。十一月一日の諸聖人祭の大祝日に聖人の名を口にする時、諸聖人に対し深い敬意を表します。またニケーア信経を唱える時、司祭は祭壇の上に昇りながら「聖霊によりて童貞マリアより生まれ」と唱える時、ご託身の玄義に対しひざまずきます。自分の口から唱えるのでありますが、聖なることを唱えるのですから、それにふさわしい態度をとるのです。キリストは「主よ主よ」とわが名をみだりに呼ぶなかれと戒められました。われわれ信者もみ名を呼ぶ時、それにふさわしい態度をもって呼ばなければなりません。み名を尊ぶことこそ、信仰そのものを端的に表すこととなるからです。
 さてわれわれが祈祷書による祈りを尊ぶならば、祈祷書を大切に取り扱わなければなりません。祈祷書は神に献げる手紙のようなものであり、信仰の教科書でもあるのです。古い信者は祈祷書が改訂されるまで、何十年も使い古したものを大切にして使います。それは自分の信仰について、祈祷書がいかに尊い値打ちがあるかを深く感じているからです。中には死んだ母親の祈祷書を大事にして使っている人もあります。愛した母が喜びにつけ悲しみにつけ、毎日お祈りの時、親しく手にしたものは、特になつかしく、また尊く感ぜられ、その人にとっては生きた祈祷書となっているからです。

日常の祈りの唱え方

 信者は毎朝目がさめた時、まず十字架の印をし、起床時の祈りを唱え、一日の生活が祈りによって始められるのです。それは目がさめたら直ちに寝床の中で唱えます。そして今日これからする仕事も善業も、すべて神に献げることをお約束申し上げるのです。これと緊密に関係のあることは、夜、就寝の時に唱える就床時の祈りです。これはイエズス、マリア、ヨゼフと呼んで、それに祈りが三句ついています。そして最後に守護の天使と保護の聖人とにわが身をまかせます。この祈りは死の準備の練習となるものです。信者は何かのやむを得ない事情で起床時と就床時の祈りができないと、気持ちが悪いと感ずるくらいにならなければいけません。はじめのうちは、とかくうっかりして、忘れてしまうことが多いのです。もし、この習慣がゆるんだならば、またネジを巻き直してやり直すべきです。
 次に朝の祈りについて述べます。朝の祈りは、その日を祈りの生活とする覚悟を、仕事をするにあたりいっそう強く決意するために効果あるものです。通勤者は特に計画的に毎朝、朝の祈りの時間を用意して起床の時刻をきめて、そのとおり実行しないと、時間に追われ、朝の祈りを唱えても単に義務的になったり、超速度で唱えたりして、祈りの目的を達することができません。もし何かの事情で時間が得られない時は、その一部を省くかあるいは主祷文、天使祝詞、栄唱一回ずつをまじめに祈って朝の祈りに替えたほうがよいのです。だが一度こういう省略的なことをすると、つい悪い癖はつきやすいもので、省略するやり方のほうが多くなる嫌いがありますから、信者としては必ず毎朝一定の時間をとって、その間は、ほかのことに煩わされないで朝の祈りを唱える習性が身につくよう、心がけるべきです。
 夜になったならば、あまり眠くならないうちに夕の祈りを唱え、当日犯した罪の糾明をなし、真の痛悔をしなければなりません。家族がみんな信者の家庭では、一家そろって夕の祈りを唱えるのはとても善いことで、神からも嘉せられ、特別のお恵みを受けます。
 そのほか信者は食前、食後の祈りと朝、昼、晩お告げの祈りを唱えます。教会の近くの方はお告げの鐘の音が聞こえますから、それに合せてお祈りができます。だが教会の鐘が聞こえない所では、朝の祈りと夕の祈りのあとにお告げの祈りを付けて唱えます。昼のお告げの祈りは昼食時に食前の祈りか食後の祈りか、どちらかに付けて唱えます。
 このほか季節々々によっていろいろな祈りがあります。四季のはじめの水、木、金、土の四日間は季節中、過去のお恵みを感謝、さらに将来の救霊のことはもちろん、この世の幸福のためにもお祈りをします。
 待降節、四旬節にはその名にふさわしい準備を十分にしなければなりません。これらの期間中は特別に過去を反省し、糾明をていねい綿密にして度たび悔悛の秘跡を受け、快楽の方面をつつしんだりします。待降節は四週間、救世主のご降誕を待望したあの旧約の長い期間を記念するものでありまして、信者は悔悛と哀願とをもって、キリストがわれわれの心に、霊的に降りたもうように用意すべきです。復活祭の準備は、遠い準備、近い準備、最も近い準備とに分けられています。
 遠い準備とは、七旬節、六旬節、五旬節の日曜日を含みます。紫の祭服が用いられ、グロリアの祈りとアレルヤの言葉は使用されません。これは人びとがまじめに罪を痛悔し、改心すべきことを教えるためです。
 近い準備は、教皇大グレゴリオが、すべての信者に対し大斎の期日のはじめを五旬節後の水曜日、すなわち灰の水曜日に定めたのです。日曜日は主日ですから、信者は大斎をしません。ですから日曜日を除いて、ちょうど四十日となります。灰の水曜日には司祭は信者の額に祝別された灰をもって十字架のしるしをします。それはこれからご復活まで人びとは黙想と悔俊とをもって、救世主のご苦難を共にし、罪の生活を去ってご復活の大祝日に救い主と共に霊的によみがえるためです。
 最も近い準備は、ご復活前の最後の十四日間で、いわゆるご苦難の期間です。この間、人びとは、よくわが主のご苦難について黙想すべきです。ご復活前の最後の主日すなわち枝の主日はイエズスのエルサレムご入場の記念日です。枝の主日から始まる聖週間を信者は、救い主のご苦難、ご死去を熱心に悲しみますから、悲しみの週といいます。ことに聖金曜日は、ご死去の日でありまして、最も悲しむべき日です。この日は十字架上にておん血を流したもうた犠牲を、心をこめて想うべき日でありますから、無血の犠牲であるミサの犠牲は献げられません。この悲しみの儀式の間、前日に聖変化されたホスチアが顕示せられ、信者たちは、それを礼拝し、司祭はそれを拝領します。
 ご降誕祭、わが主ご公現の大祝日、復活祭、ご昇天祭、聖霊降臨祭、聖母被昇天祭、諸聖人祭には、それぞれ特別の祈りが祈祷書の中に定められています。
 聖母の主な祝日は年九回あります。そのほか有名な聖人および自分の霊名の聖人のお祝い日にも特に意を用いて祈るべきです。
 親の命日や誕生日にも心をこめてお祈りすることは大変よいことです。その他、災いや誘惑に遭った時、秘跡を受ける前後、とりわけ生命の危険に出合った時と臨終の時には、よくお祈りをしなければなりません。

天主のみ前にいる練習

 信者として祈りをするうえにもう一つ重大なことがあります。それは天主のみ前にいつもいるという練習をすることです。それは自分がいつも天主のみ前にいると思うことを忘れないようにすることなのです。それには毎日、射祷というお祈りをしばしば唱えるのがよい方法であります。射祷はその名の示すように、短くとも力強い祈りです。例えば「わが主イエズスよ、あわれみたまえ」「イエズス、マリア、ヨゼフ」というような極めて短い祈りです。ちょうど親しい間柄の者が出会って互いにちょっと微笑をかわすようなあいさつに似ています。射祷を日に幾度も唱えることによって、神の目の前に自分のあることを思い出すのです。ある人は帽子をかぶる度ごとに射祷を唱えます。ある人は、わが家の自分の机の上にご絵をかかげ、一日何回となく、それを眺めては自分が神のおそばにいることを思い出します。ある神父は、独りで食事をする時、いつもだれかと会食しているように楽しげにロの中で独り言を言いながら食事をしました。信者の一人がそのわけを尋ねますと神父は、「私はいつもイエズスさまのおそばでいっしょに食事をしているつもりで食べているのです」と答えました。何と奥ゆかしい心を持たれた神父ではありませんか。

ロザリオの祈り

 信者の日常生活が祈りとなるためにロザリオの祈りを毎日唱える習慣をつくることは、大そう効果のあるものです。このロザリオの祈りは、今から約七百年前、聖ドミニコ会修道院創立者聖ドミニコが聖母マリアのお告げによって初めて定めたお祈りであります。ロザとはラテン語で、バラの花という意味です。リオは冠のことで、つまりロザリオとはバラの花を輪にした冠という意味です。信者は、これを心の花として聖母に献げる祈りであります。ロザリオの祈りは救世主と聖母の主な喜び、苦しみ、栄えの玄義を黙想しながら天使祝詞を百五十回唱えるのです。天使祝詞十回分を一連と言い、五連唱えますと一環と申します。これを三環分唱えて全部終了することになっています。一連ごとに一玄義を黙想しますから、全部で十五玄義を黙想することとなっています。
 修道院の修道士、修道女は毎日十五玄義黙想いたしますが、一般信者は一日に一環を唱えるのが例となっています。ですから一般信者のロザリオは一環分だけに造られています。そして月曜日と木曜日には喜びの玄義、火曜日と金曜日には苦しみの玄義、水曜日、土曜日、日曜日には栄えの玄義を黙想します。
 ロザリオの祈りの唱え方は、初めに十字架に口づけしてから十字架を指でつまんで使徒信経を唱えます。次に大珠で主祷文、三つの小珠で天使祝詞を三回、そのあとに栄唱を一回つけます。これはロザリオの祈りによる黙想に入る序曲のようなものです。それから玄義に入ります。まず第一玄義を唱え、続いて大珠の所で主祷文一回を唱え、そのあと十個の小珠で天使祝詞十回を唱え、終わりに栄唱一回を結びの祈りとして唱えます。この間、第一玄義を黙想するのです。次に第二玄義を唱え、大珠で主祷文一回、十個の小珠で天使祝詞十回、終わりに栄唱一回をつけます。この間、心では第二玄義を黙想いたします。同様にして第三、第四、第五玄義を黙想し、一環の祈りを終了することになります。
 信者はロザリオの祈りを自分の祈りの生活の一要素としてするだけでなく、ひいては家庭的の祈りの習慣たらしめるまでになることは大変よいことです。家庭祭壇のある家庭では家族の全員がその前に集まり、燭台があれば火を点じ、家族打ちそろってロザリオの祈りを唱えることは信者の生活をいよいよ深めるものとなります。ローソクに火をつけるのは長男か長女に名誉ある職務としてさせるのがよいのです。一連ずつ先唱を交代していたします。頑是ない幼児も仲間に入れます。中途で眠ってしまってもかまいません。祈りつつ眠ることは少しも悪いことではないのです。
 就寝の時、寝床に入ってからロザリオの祈りを唱えることもよいことです。途中でほんとに眠ってしまっても不敬ではありません。寝るのは信者にとって一つの死の準備でありますから、実際に祈りながら死ぬことができたならば、それは死の準備が立派にできていた信者と言うことができるでしょう。
 また駅で電車を待つ間とか、電車の中にいるときとかは、とかくボサッとなりがちです。その時ロザリオをポケットの中でつまみながらロザリオのお祈りをすることもできます。くだらない俗事に心が奪われているより、このほうが信仰を高めてゆくことができどんなに有益かわかりません。
 ロザリオの祈りは一年中、殊に聖母の月である五月と、ロザリオの月である十月には家庭祭壇を花で飾って、毎日ロザリオの祈りを唱えるべきです。
 ロザリオはフランス語ではシャプレ、英語ではロザリー、日本ではコンタツと言います。コンタツは日本の古い信者が外国語をなまって言ったもので、特別な意味はありません。ロザリオの祈りを毎日唱えておりますと、ちょうど、その時、自分が求めていた徳について黙想をすることにめぐり合わせるものです。そして二千年前の昔にかえって、聖母の前で祈っているような気持ちとなり、まったく呼吸が合うように感じられます。ロザリオの祈りの魅力は、すばらしいものです。世界中の信者はロザリオの祈りによっても一つの信仰と愛とに結ばれているということができるのであります。

祈りの生活をする上に最も大切な義務

 信者として、祈りの生活を営んでゆくには、信者個人個人が信仰生活の基準となる信心上の務めを重んじて、これを厳重に守ってゆくことが最も大切です。この土台が崩れてしまいますと、信者であっても有名無実なものとなってしまいます。
 信者として信心上、第一の務めは日曜日の義務です。主日と守るべき祝日には仕事を休みミサ聖祭にあずかることです。日本は、まだ布教される国でありまして、信者の数も人口の割合から言うと極めて少なく、カトリック的な社会とはなっていません。ですからヨーロッパのキリスト教国のように徹底的に日曜日の義務を尽くすことができない状態にあります。日本で日曜日に仕事を休んだなら、失業してしまう人がたくさんできてしまいます。このように日曜日に働かなければならない方は、あらかじめ司祭の許可を受けたうえ、労働をすることが許されます。こういう方は、日曜日以外で自分の休日にミサにあずかり、また主日でも時間の都合がつけば勤務先の近くの教会の早ミサにあずかるとか、または主日の夕方にミサが行われる教会に行ってミサにあずかるようにしなければなりません。もし主日と守るべき祝日にミサにあずかれないとしても、その代わりにロザリオ一環と「ミサにあずかるを得ざる時の祈り」を唱えるべきです。

告解

 告解は毎週一回か少なくとも一月に一、二回している人は手軽にできます。糾明も特に長時間を要しません。告解をいつもやっていますと、犯した罪は小罪というよりは微罪と言ったほうがいいくらいのものとなります。こうして平素から神の光栄のために精進する励みを持つことが、信者として救霊のために極めて大切であります。毎日曜日ミサにあずかり、聖体を拝領している信者ならば、毎週一回少なくとも月一回告解をして常に霊魂を清からしめ、聖寵の状態を維持してゆくべきです。このように実行をしてゆけば、その人の信仰は必ず深まってゆきます。

信仰生活と実際

 信者だからといって時には信仰に以前のような励みがなくなり、お祈りをしても何となくおもしろくなく、心からの祈りができないようなことがあるものです。自分でもこれでいいのだろうか、どうかして以前のように熱心になりたいと思いつつも、何とはなしに気が向きません。そして信仰以外のことに気が向いてしまっています。人間である以上、こういう状態になることがあるのも不思議ではありません。
 先週の日曜日は重大かつ正当な理由でミサにあずかれなかった。ところが今週の日曜日は大雨で、ひどく寒かったし、おまけに風邪気味だから用心して教会へ行くのはやめにしてしまった管理人注2。こういうふうになるとだんだん神と自分との間柄が疎遠になってゆきます。いつかこれを清算したいと思いつつも、なかなかその機会がやってこない。こんな例は特別に珍しいことではありません。われわれは公教要理を勉強して洗礼を受けたからといって、それだけで聖人になったわけではないのです。とかく、われわれの信仰は後退する傾向にあります。こんな時にはどうしたらばよいのでしょうか。それは具体的に超自然的な手段を根本的に初めからやり直すよりほかはありません。
 まず最も手近かな朝の祈りと夕の祈りをまじめに唱え、ミサ聖祭にあずかり、聖体拝領をなし、悔俊の秘跡を受けることを励み、それらによって神に全幅の信頼を置くことです。それが神のご慈悲に値するかどうかは意とせず、たとえ自分の気分にそぐわないでも継続的に繰り返し実行してゆくのです。
 われわれは自分の考え方が二つの道のどちらかを選ばなければならないような岐路に立った場面に度たび遭遇します。例えば商売人が横流しをやろうかやるまいかと迷うことがあります。横流しをやらないともうけが少ない、われわれの仲間はみんなそれをやって大もうけをしている、神父だって私の立場にあれば、きっとやってしまうだろう、などといろいろなことを考え右にせんか左にせんかと迷います。しかし冷静になって考えてみれば自分は公教要理を勉強して信仰の道に入ったにもかかわらず、まだ知らない新しい問題にぶつかったのでしょうか、否、そうではありません。それは新しい問題でも、知らない事件でもないのです。このような場合、いまさら公教要理の勉強はいりません。ただ平常の手段に返ればよいのです。すなわち、よりよく判断し、よりよく決意してから、告解をし、ミサにあずかり、聖体を拝領しなさい。ただ単なる祈りよりも、このほうが大切です。キリストおん自らお定めになった秘跡にあずかり、キリストと一つに結ばれる秘跡によって自分の戴いた聖寵を確保するのです。つまり、いつ死んでも悔いることのない、また恐れることもない聖寵の状態になっていることを確保するのです。このことをよくわきまえてこれを実行することができたならば、立派な信者であります。もはやこの世の利益に心が奪われない確固たる信仰の持ち主となったのです。
 古い信者には深い信仰を持った方がたくさんいますが、他方には、聖なるものを聖なるものと意識しなくなり、ミサにもあずかり告解もしますが、それが機械的に流れているような場合も少なくはありません。こんな信者に限って自分だけは立派な信者だと思っているのです。われわれは日常生活を考えてみても、ほんとに大切なものを案外ありがたく思っていないものです。
 例えば空気や日光は、われわれの生活上最も大切なものであるにもかかわらず、毎日欠けることなく、ふんだんに頂いていますと、当然のことのように思って特別にありがた味が感じられません。信者の信仰生活にもよく似たことがあります。たまに黙想会に出席したり聖体行列に参加したりしますと、深い感銘を受けますが、最も大切なミサにあずかることは慣れっこになって、つい機械的に流れやすくなるものです。しかし基礎的な超自然的な手段として、朝の祈り、夕の祈り、告解、ミサ、聖体拝領は、いつも奮発して真剣に励むことが最も大切です。聖人たちはみんなこれらの基礎的な超自然的行為をまじめに尽くしたことによって高められたのであります。ですから司祭、修道士、修道女は毎日これらの基礎的超自然的な行事に熱心にいそしんでいるのです。
 われわれはイエズスを離れては何事もできないのです。自分では大事業を独力でやったつもりでいますが、それは、この世の生涯の終わりとともに、空しくなってゆくものに過ぎないのです。ある人たちは、芸術は永遠に滅びずと豪語しますが、これも世の終わりには無となるのです。ここにおいて、われわれは、永遠の生命を得るのに欠くことのできない聖寵をお与えになるため、キリストおん自らお定めになった秘跡が、いかに外のものよりも尊くかつ大切なものであるかを納得することができます。われわれは秘跡を受けることが、受け過ぎたということは断じてないのであります。しかしそれが機械的となり、日常の茶飯事のように取り扱われてしまいますと、根本的な原理に反することとなってしまいます。ですから、われわれ信者は、ミサや聖体拝領や告解が機械的に流れないように、しっかりと身につけておくことが最も大切なのです。

教理の勉強

 日本の信者は何といっても、欧州の信者と比較しますと、新しいだけに、まだ基礎がしっかりしていません。したがって、とかく惰性になりやすいのです。それには、もっと奮発をして教理をよく学び、信仰生活の基礎を固め、聖なる生活の土台をしっかりと築いておくことが大切です。日本の知識層の人びとは、やたらに頭の中に真理を詰め込んだ者をインテリと呼んでいますが、それは博学多才であるかもしれませんが、これだけでは、ほんとのインテリではありません。しかし信者は、ほんとのインテリとならなくてはいけないのです。
 公教要理は、うすい一冊の本ですが、中には人生を聖ならしめる方法について余すところがないのです。キリストは聖人となるために必要ないっさいのことを極めて平易に述べられました。それがすべて公教要理には収められているのです。ですから信者が公教要理を深く学んでこれを味わい、これを忠実に守って生きてゆくならば、それは立派なインテリなのであります。神ご自身が真理そのものなのです。キリストご自身が真理です。キリスト以外にわれわれは真に愛し、真に信ずべきものはありません。キリストご自身が真理であり、愛にましますのでありますから、キリスト以外に真の真理も愛もないのです。科学の中にも、たくさん大切な真理があります。しかし人間の探究した相対的な真理は、神の絶対の真理と比較しましたならば雲泥の差があるのです。聖ペトロはイエズスに次のように答えました。「主よ、われらだれにかゆかん。汝こそ永遠の生命の言葉を有したもうなれ。われらは汝が神のおん子キリストなることを信じかつ悟れり」(ヨハネ6・69、70)。ですからキリストを信じ愛するならば、いかなる困難に出合うとも決して恐れることはないはずです。ただ、この信ずることも愛することも、人間の力だけでは得られません。そこで最も大切なことは、祈りと秘跡の生活によって信・望・愛の徳を戴く聖寵を神から受けなければならないことです。
 実に、いっさいの問題の解決は公教要理の中に含まれているのです。ただ公教要理は、読む本ではなく、備忘録のようなものです。ですから教理を学ぶということは、教会から教えを受けることであり、最後は神の助力を得て実行してゆくことにあるのです。

教理の実行

 われわれは病気になった場合、医者の診療を受け、全快した時は病気は解決したかのように見えます。だがある病気には、いかなる名医も手の下しようもないのです。名医自身もある時がきますと死んでゆきます。昔中国の皇帝は家来に命じて不老不死の薬を求めさせましたが、使いの者も帰らず、皇帝も死にました。われわれが困難にめぐり合わせた時も同様で、事件が解決しますとホッと安心しますが、なかなか解決しないと悲観したり絶望したりするものです。だが、いかに大きな困難に出合っても、困難を眼下に見下ろし自分は天上へ天上へと向こうことができたならば、ちょうど富士山の頂上に立った人が、はるか脚下の下界の雷鳴を聞くように、これがほんとに困難を克服し解決したこととなります。人生は十字架の道行きです。キリストの愛に一致して、自分もキリストに倣って十字架を担って人生の行路を進むならば、必ずや苦悩に打ち克つところの愛が神から与えられます。
 神父は信者の訴えをきいた時、ある場合には神父にも、どうしたらよいか具体的な解決策が浮かんでこないこともあります。「こういうふうになさい」と具体的な名案を与えるだけならば、身の上相談所の人のほうがじょうずかもしれません。しかし神父は、その場合、訴える人の苦しみを自分の苦しみとし、その苦しみを神父自身も引き受けるのです。そこには深い同情がわいてきます。そして最後の言葉は「だがよくお祈りなさい」と言います。そして神父のほうが真っ先にその人よりもっと熱心に祈るのです。もちろん「こういうふうになさい」と即座に明答を与えることはまことに結構なことですが、何より大切なことは、イエズスの愛と一致した愛によって神父が信者に対して愛の源泉となることであります。
 われわれのこの世における困難は、いつ、ほんとに解決されるのでしょうか。それはわれわれが神から与えられた知性の力をまじめに働かしただけによるものでなく、われわれの正しさを嘉したまい、われわれをお助け下さる方がイエズスであるゆえに、すなわち神でましますがゆえに、われわれはほんとうに安心してすべてを献げて、お任せすることができるのであります。そしてその神の助力、神の超自然的なお恵みがイエズスの定められた秘跡の中に在ることを、信者が心から味あわねばなりません。信者の生活はすべて神を信頼し、神により頼む時、神のおん独り子イエズスによって、絶対に解決されるのであります。イエズスと一致して、イエズスに従ってわが道を進む時こそ、われわれは真の自由を味わうことができるのです。よく、カトリックは戒律がやかましくて、人間の自由をまるで認めないと評する人があります。だが、われわれが掟を守り、これを忠実に実行することは、決して自由を束縛することにはなりません。何となれば、真理そのものは二つあるはずがなく、もはや選ぶ自由はないからです。
 ある人たちは、日曜日に一家そろってミサにあずからなくてはならないとは、何とカトリックはコチコチなんだろう、時には用事があったり、疲れたりして、教会に行きたくないことだってある、これでは人間の自由を束縛するものだと言います。しかしその人たちが、わざとイエズスの与えたもうた軌道にそって歩くのを嫌う時、必ず自分が何か外のものに束縛されているのに気がつかないのであります。自分がマージャンや映画や野球や、そのほか目の欲、肉の欲に束縛されているのに気がついていないのです。
 イエズスは次のように言われました、
 「われは柔和にして、心謙そんなるがゆえに、汝ら自らわがくびきを取りてわれに学べ。さらば汝らの魂に安息を得べし。そは、わが負わするくびきは快く、荷は軽ければなり」(マタイ11・29、30)と。
 われわれがイエズスに従うとき、重く見える荷は軽く、くびきはあまく、らくであり、いっさいの束縛から脱することができるのです。真理にのみ従い、十字架を担ってキリストと共に狭き道を進むとき、イエズスと共にいっさいのものを支配することができるのです。人間の弱さから捉われているものに、打ち克つことができるのです。これこそキリスト教信者の生活の基準となるものです。

信者の日常生活における心構え

 キリストは信者に、守るべき数々の掟を示されました。しかし、その中心となり、その根底をなすものは決して、「なすべし」とか「なすべからず」というようないかめしいものではありません。それは神のわれらに対する深い愛なのであります。われわれもまた愛の火に燃え、奮い立つ愛をもって、これにこたえるのです。これが真の道徳です。キリスト教的倫理です。愛を根底としてお定めになったイエズスの掟に従って生きてゆくことが、信者らしい生き方なのです。こうして信者は聖なるものに塩づけにされることによって初めて、世の腐敗に打ち勝つことができるのです。かくて一人の信者は一家族を信者たらしめる元となり、子子孫孫まで末広がりにつながってゆくのです。十年、二十年、三十年と将来を想像しますと、皆さんの子孫が、みんな神の祝福を受け、たくさんの信者である子孫たちの祖先となるとき、皆さんの名は天国において特筆大書されることでしょう。また導いた神父の名も天国において大きく唱えられることとなるでしょう。それには信者は、まず信仰生活の基礎を確実に築き、これを忠実に守らなければなりません。
 朝の祈りを唱えることは普通の信者にはできますが、寝床に入ったならもう一つ奮発して、就床時の祈りを唱えなさい。また朝、目がさめたなら直ちに十字架の印をして、今日一日を祈りの生活にささげる決意を固め、起床時の祈りをお唱えなさい。その時、最も大切なことは忠実さにあるのです。弱い信者は風に吹かれる葦のようにフラフラして、世相に左右され、ある時は社会主義に、ある時は民主主義に共鳴します。信者たる者は、義のために迫害を忍ぶものでなくてはなりません。義に反することならばてこで動かそうとしてもビクともしない堅実さが心の底になければならないのです。

結び

 日常の祈り、告解、聖体拝領、ミサにあずかることを、謙そんと柔和とをもって忠実に守ることが、基礎であり根本的要素であることを、重ねてここに強調して、公教要理の結びの言葉といたします。

[管理人注1] 今田神父様(1910-1982)の言われる「公教要理」とは、『カトリック入門』ではなく、ましてオランダ新カテキズムでもなく、伝統的なものである。(『種蒔く人』上巻そのものが今田神父様による公教要理講解であるわけだけれども)戻る

[管理人注2] 強力なインフルエンザや他の様々な感染症やら病原菌やらの脅威に怯え、神経質になっている現代の私たちは、「風邪気味だから用心して教会へ行くのはやめる」という判断を「軽い判断」の一例として挙げる今田神父様に戸惑うかも知れない。下手をすれば反感さえ持つかも知れない。しかし今田神父様のこの講義録は1947年頃のものであることに留意して欲しい。その頃の日本人は現代の私たちほど神経質でなかった。現代では、「人に風邪をうつす危険」を猛烈に警戒して教会に行くのを控えることも「可」かも知れない(個々のケースについては司祭に相談して欲しい)。しかし、現代の私たちにも「軽い理由」はあるだろう(単に「その気が起きないから」とか、その他いろいろ)。今田神父様の真意を汲み取って欲しい。戻る

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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