2015.10.05

彼らの理由 6

御ミサは未信者にとって
「分かり易いもの」 になる必要はない

注)

私は未信者に冷淡なつもりはありません。かつて自分が「成人の未信者」であった立場から、その視点から、こう言うのです。

「善」の問題はそう簡単なものではありません。
あなたは思います、「またその話か」。
そうですね、既に胞子が伸びるほど言っています。
が、続けると──

例えば、典礼憲章の次の言葉。
あなたはこれを「善の言葉」だと思いますか?

34(儀式の構造) 儀式は簡素の美を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け、信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。

34. The rites should be distinguished by a noble simplicity; they should be short, clear, and unencumbered by useless repetitions; they should be within the people's powers of comprehension, and normally should not require much explanation.

「簡素の美」と「不必要な重複」については以前触れました参照。ここでは他の部分について考えてみます。今の二つの言葉を抜けば、すなわち次のようになります。

儀式は、簡単明瞭であり、信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。

どうです、これは「善の言葉」ですか?
私たちを必ず「善」に導く言葉ですか?

この言葉は一見「親切な、優しい善」を身にまとっています。
私たち信者を「理解力や知識の乏しい者」と見なしています。見方によっては失礼な言葉です。しかし一般には「親切な、優しい配慮の言葉」と受け取られるでしょう。

しかし解答は「これだけでは何とも言えない」です。具体性を欠いているからです。「簡単明瞭にする」と言ったって、具体的にどこまで「簡単」にするのですか?

つまり、私たちは「どんな優しげな木陰にも悪は潜み得る」という程度には警戒しておくべきでしょう。

警戒の仕方の一つはこうです。
典礼憲章の上の精神は、「親切」「他者への配慮」という “善” によって、そして「福音宣教」という “善” によって、次のようにも “適応” “応用” されるかも知れません。

儀式は、簡単明瞭であり、未信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。

私はこの言い換えを単なる思いつきでやったのではありません。
以前紹介したソットコルノラ神父(彼は典礼憲章をこよなく愛しますが)の「推薦のことば」から少し拾ってみましょう。

 イエズス・キリストは弟子たちとともに最後の晩餐を採った時の動作に、ご自分の教えのすべてとご自身の神秘を凝縮し、表明されました。このため、以来、その時のキリストの仕草を再現するミサ(感謝の祭儀)は、弟子たちの共同体のあるところ、つまり教会のあるところ、いつもその生き生きとした中心であり続けたのです。
 しかし、イエズスのこの最高の動作は、キリスト者個人の生活と共同体の生活の中心となったばかりではありません。ミサは、イエズスが何を教え、何をし、だれであるのかを知ろうとするキリスト者以外の人びとに向けてキリストの神秘を宣べ伝える絶好の機会ともなり得るものです。

私は、未信者にとって「御ミサを見る」ことが天主の宗教に関心を持つ「キッカケ」になることは、まぁ、あるのではないかと思います。しかし、「御ミサ」そのものを「キリスト者以外の人びとに向けてキリストの神秘を宣べ伝える機会」にしようとする考えは大いに怪しむべきものだと思います。何故なら、そのような発想に於いては、さっき言い換えをしてみたようなことにならないとも限らないからです。もう一度書きます。

儀式は、簡単明瞭であり、未信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。

私は幼児受洗の者ではありません。たっぷり「成人」になってから受洗した者です。私の言う全ては、その立場から言うものです。そして、私は今、こう言います。
御ミサが未信者にとって「分かり易いもの」になる必要はない。
(少なくとも、今以上、これ以上。)

ソットコルノラ神父の文章の中にその意図が明確に表われているわけではないけれど、とにかく、現代の典礼学者によって御ミサそのものまでもが「未信者にも分かり易いもの」にされてはたまりません。それは「善くないこと」です。
未信者には、やはり先ず「聖書」を開いてもらって、前々回言った「宗教との本物の対決」をしてもらいましょう。

ソットコルノラ神父はまたこう書いています。

(…)

 さて、本書はミサを学ぶための教材として書かれたもので、第一に、日本のカトリック者に大いに益すると思います。読者は本書を通して、最後の晩餐、教会の聖餐式、それにバチカン公会議で刷新された現在のミサ、これら三つの間に存する連続性をあらためて学び取り、その源泉から、自分と共同体の霊性のかてを見いだすことができるでしょう。しかし、本書がキリスト者でない方々も含めて、より広い日本の読者層から歓迎されることを心から期待してやみません。

(…)

今や、日本人は世界中を旅行することで知られています。ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア、オーストラリア各地で、日曜日になると、ミサにあずかるためにカトリック信者が三々五々連れ立って教会に集まる光景に接することが多いと思います。日本国内だけでも、結婚式や葬儀をはじめ、とくに信者の親戚や友人の関係で、カトリック信者でなくてもミサに出席する機会が結構あります。その好例として、全国に散在する力トリック系ミッション・スクールにおける宗教行事の一環としてのミサを挙げることができるでしょう。

 そうしたなかで、日本の一般読者層にも適した短くてやさしい、それでいて信頼がおけ、過不足のないミサの紹介書、解説書の必要が近年とみに感じられていました。

「キリスト者以外の人びとに向けて」
「キリスト者でない方々も含めて」
「カトリック信者でなくても」
「日本の一般読者層にも適した」

──これが彼の視線、方向性です。

あなたは「別に問題ないじゃないか」と言うかも知れません。「寛[ひろ]い心を感じる。そして、福音宣教はもともと “すべての人” のためではないか」と。
それはそうなのです。しかし、彼は「諸宗教間対話」の人であって、「カトリック信者でない人々」の彼ら自身の救霊のための「入信」や「改宗」を特に望まないのです。そんな彼が、いったい何のために、カトリックの御ミサを「カトリック信者でない人々」に熱く伝えようとしているのでしょうか? ここにもどこか「非現実的」な雰囲気が、一種「幻想的」ですらある雰囲気が漂っていると言うべきです。(或る種の人たちは、謂わば、「虚構の現実」「非現実的な現実」「言葉とイメージだけの現実」の構築者なのです)

注)上で「彼ら自身の救霊のための」という “しち面倒臭い” 言い方をしたのは、カトリック教会はカトリック教会の「覇権」か何かのために、つまり何らかの「エゴ」ために人々の入信や改宗を望むのでなく、ただ純粋に人々の救霊と天主の御望みのために人々の入信や改宗を望むのだからです。(私は、現代の神父様方が疑うほどには、「過去の教会」もこれから外れていなかったと信じます)

ソットコルノラ神父の文章に「結婚式や葬儀」という言葉が出て来ました。それで、私は前掲の動画にこの場面を入れたのです。

ソットコルノラ神父は「御聖体を舌で受けることが日本の一般の人々の目にどう映るか」に関して「失礼」などという言葉は使わないことでしょう。私が思うに、彼はそれなりには注意深い(悪く言えば、用心深い)人だろうからです。
しかしそれでも、「御ミサ」そのものを「福音宣教のための “絶好の機会” 」とまで言う彼は怪しまれるべきです。

別に敵意を焚き付けるわけではありませんが、彼は「新しい『ローマ・ミサ典礼書の総則』に基づく変更箇所」PDFの「日本では、聖別のときは、会衆は立ったまま手を合わせ(…)なければならない」に反対しない人でしょう。梅村典礼委員長と共に「変わる教皇庁」を喜んだ人でしょう。

この際、私がソットコルノラ神父について思っていることを全部書いてしまいましょう。

同じ「推薦のことば」の中に、彼の次のような言葉があります。

 本書は、典礼を専攻し、長年、日本カトリック司教典礼委員会秘書局員として日本語『ミサ典礼書』(一九七八年十二月二十五日)の発行にもたずさわった中垣純神父のイニシャチブと監修のもとに、カテケーシスの専門家で、司教協議会の要理編纂委員会のメンバーとして『カトリック入門』(一九八五年十五版)の起草にもあたった菊地多嘉子シスターの、こころのこもった訳業によって出版されるもので、(…)

私が注目するのは、彼が『カトリック入門』という書名を挙げていることです。そして、この書き方からすれば、彼はその本を明らかに認めて(評価して)いるのです。

そして、それはおそらくこの本のことです。

(私が所持しているもの)

カトリック入門 司教団認可
1971年4月19日 初版発行
1992年7月20日 初版20刷
監 修 教理司教委員会
編集者 要理編纂専門委員会
刊行者 カトリック中央協議会
発行所 中央出版社

しかしこの本は、初版発行の翌年、古屋司教様時代の京都教区時報1972年7月25日号の中で次のように書かれているものなのです。

カトリック要理について 〜 昨年、「カトリック入門」が公刊されたが、種々の点があいまいで、多くの不満がもたらされ、もっと具体的なものを、という要望が高まっているので、教理司教委員会で検討することになった。それで近々「カトリック要理」の改訂版を、中央協議会で発行する予定である。

参照

ここで言われている「改訂」とは、問題の『カトリック入門』を改訂するということではなく、第二バチカン公会議前からあった公教要理を第二バチカン公会議後の時代に合わせて「改訂」するということでしょう。
そして、事実、同じ年の12月、京都教区時報が書いた通りの題名で、一つの「改訂版」が出されます。

(私が所持しているもの)

カトリック要理(改訂版)
東京大司教区認可
1972年12月20日 初版発行
1998年2月1日 初版31刷
発行者 カトリック中央協議会
発行所 サンパウロ

少なくとも京都教区時報の筆者(私は古屋司教様ご自身ではないかと思いますが)に於いては、問題の『カトリック入門』を改訂してどうにかするという考えは、あまりなかったように思われます。それはそうだと思います。「改訂」というものが同じ執筆者たちによって行なわれるならば、あまり大きな変化は望めないからです。

私自身、洗礼準備教室で『カトリック入門』を使われて、「何だこれは」と思ったものです。同じ教室に参加していた初老の男性は戸惑い、「私たちが普段の生活で使わないような言葉を使っているので、よく分からない」とこぼしました。京都教区時報が言う通り、抽象的で「あいまい」だったからです。昔の公共要理のように端的でなく、「説明的」だったからです。(「オランダ新カテキズム」に少し似て)

しかし、さもありなんと言うべきですが、同じく「説明的」な人、ソットコルノラ神父は、その本を評価するのです。

だいたい「公会議の精神」は矛盾しています。一方では「信者の理解力に順応し」などと言いながら、他方では抽象的で理屈っぽいカテキズムを差し出すのです。(おそらく、「押し付けられた教理ではなく、真理というものを生活と密着したものとして、皆さん自身によく考えて頂くために」とかいう “理由” によって)

それからまた、彼はこうも書いています。

 なお、巻末に収録されている付録「日本におけるミサ典礼の刷新」は、日本の力トリック典礼をこんにちあらしめた第一人者、前日本司教典礼委員長の長江恵司教様と同委員会の佐久間彪[たけし]、国井健宏両師およびキリシタン研究家の溝部脩師のもので、明日に向けて日本のミサを考え、実践するうえできわめて示唆にとんだものであることを申し添えておきます。

私はこれに国井神父の言葉を添えたいと思います。

幸い典礼委員会は、委員長に長江司教様(当時の浦和教区)がおられ、イエズス会の土屋、サレジオ会の中垣神父様方がおられました。そういう意味で当初の典礼委員会は神様がそろえてくださったのだと感じています。

参照

私はソットコルノラ神父と国井神父のことを「長江チルドレン」とでも呼んでみたい気がします。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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