2015.10.05

彼らの理由 5

「違和感」 を騒ぐ聖職者たち

である調。(気まぐれですね)

前回と前々回に扱ったのは岡田司教様の1992年の文章だったが、彼は1987年にも次のように書いている。

第二バチカン公会議はまず典礼刷新に取り組んだ。そこで典礼の国語化が行われた。ただし、それはラテン語の原文を翻訳したものである。あくまでもラテン語が規範であり、それをそれぞれの国で翻訳して使用することができるようになったということにすぎなかった。ラテン人のメンタリティで表現されたものを日本語に翻訳するということは色々な点で無理が生じやすい。色々な工夫が行われたが、依然として違和感は残っているのである。そこで、もはや翻訳に頼ることなく、独自の日本の典礼を創造する努力をすべきであるという主張が登場してきたわけである。

彼らの理由(資料

しかし私は、ラテン語による旧典文の中、「 “ラテン人のメンタリティ” が染み込んでいるが故に日本人には “違和感” がある箇所」というのが何処と何処と何処であるのか、是非とも具体的にお聞きしてみたいものだと思う。

旧典文の逐語訳と言っていいものが次の場所にある。
新旧ミサ典礼の比較

この中のどのような箇所がそのような箇所だというのか。私は日本人だが、そこに並んでいる日本語の訳文はどれも 理解できる(intelligible)し、ことさら「違和感、違和感」と騒ぐべき箇所は何ら見当たらないと思うのだが。

注)一応言えば、「日本語としての生硬さ(文語であることを含め)」と「文化的な違和感」は別である。私たちはその二つを混同しないようにしなければならない。

岡田司教様は「翻訳文」のことを言っている。「今まで試みられてきた翻訳文にはまだ “違和感” が残っている」と。しかし、実は、これは単に「翻訳の問題」ばかりを意味しておらず、私が言わなくても既に皆さんお感じのように、この奥には「ラテン人のメンタリティそのものが日本人には合わない」という考えがあるのである。(どうしてそうでないわけがあろうか)

しかし、これは危険である。何故なら、「言葉」というものは元々、それが出てきた「世界」と深く結びついているものだから。「密接不可分」という言葉さえ使ってもいいかも知れないほどに。

聖書という「世界」は二つのものから成っているだろう。一つは、それが書かれた当時の「時代性」や「地域性」である。そして今一つは、信仰者ならこれを否定しないだろうが、「神感から来るもの」である。この二つは聖書という世界の中、まあ、〈混然一体〉となって出て来るわけだろうが、世の聖職者たち、特に「神学者」と呼ばれる人たちは、この二つを「きれいに分ける」ことが出来るつもりでいるのか。

天主でさえ、「毒麦を抜きましょうか」と訊かれて、「いやいや、毒麦を抜くつもりが、間違って “よい麦” まで抜いてしまうかも知れぬ」と答える慎重さを見せている。然るに世の聖職者たちは、「時代性」や「地域性」に帰される部分だけを「きれいに抜き」、神の御言葉の「普遍的」な部分を「きれいに残し」たいらしいのである。そして日本の司牧者は、「ラテン人のメンタリティ」に帰される部分だけを「きれいに抜き」、神の御言葉の「普遍的」な部分を「きれいに残し」たいらしいのである。

しかし、果たしてそんなことが正確に出来るものだろうか。本田哲郎神父のように、選ばれて「ローマ教皇庁立聖書研究所」にでも学び、自分でもたくさん研究すれば、やがてそんなことも出来るようになるものだろうか。

今の言い方で、そのようなことの危険性が多少分かるというものではないか。私は、実に、そんなことはほとんど「芸当」に近いことだろうと思う。彼らは、そのような「抜いても害のないもの」を抜いたつもりが、実は神から来た「よい麦」まで抜いてしまっているという事態に陥らぬとも限らないだろう。(いや、未来可能性でも何でもなく、神父様方が既にやってしまっていることである)

彼らの学者的自惚れた頭よ。

2014年 典礼文の翻訳の問題

梅村司教は3月18日、典礼委員会秘書の宮越俊光さん、同委員会委員のフランコ・ソットコルノラ神父(聖ザベリオ宣教会)と共に同省を訪れ、「ミサの式次第と奉献文1~4」や「ローマ・ミサ典礼書の総則」の改訂訳などを再び提出して、日本の事情を説明した。

改訂訳はすでに、2006年と07年にも提出されている。例えば、現行のミサで会衆が「また司祭とともに」と答える部分について、日本司教団は改訂訳で「またあなたとともに」とした。ラテン語では「またあなたの霊とともに」だが、日本語で「霊」と聞けば「悪霊」などのイメージがあり、誤解しやすいとの配慮だ。

彼らの理由(資料

また「配慮」だ。

前回も書いたように、神父様方はどのような段階の未信者のことまで心配しているのか。「霊」と聞けばテレビの心霊特集番組のことを想起してしまう未信者のことを心配しているのか。
しかし、宗教に多少なりとも関心のある未信者は「善霊」という言葉を知っているだろう。
しかし、まあ、いいか、これは。

しかし、「よく、そういうところに凝りますね」とは言いたい。
私の目には「幸せな “学術坊や” たちのオモチャ遊び」に見える。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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