2015.10.05

彼らの理由 4

「宗教離れ」 しているのは司祭たちである

同じ文章を扱います。岡田司教様のこの文章の中には「失礼」という言葉のほかに「違和感」という言葉が出て来ます。

1992年 浦和司教区内の司教文書

聖体拝領の仕方について

浦和教区長 ペトロ 岡田武夫

(1)日本のカトリック司教協議会は1970年、教皇庁・典礼聖省(現典礼秘跡省)より、日本の教会において、聖体を手で受ける許可を受けました。この方法を申請した理由は、日本の文化・伝統においては、聖なるもの、尊いものを受けるときは、まず手で恭しく受けることが礼儀にかなったことであり、直接、口で受けるのはかえって失礼にあたるからです。そこで、成人がカトリックに入信するとき、できるだけ違和感を持たせないように、との配慮も加わり、各司教の判断と責任の下に、信者が手で聖体を受け、さらにそれを自分で口に持っていく、という聖体拝領の方法を採用する道を開きました。

彼らの理由(資料

(嗚呼、ここにも「配慮」という言葉が出て来ます。
 それは今やなんと “当てにならない言葉” になったことか)

私のこれまでの議論を読んでくれた人の中にも、まだこう考える人が居るかも知れません。

なるほど、舌で受ける御聖体拝領を初めて見た未信者が、それを「失礼」という形で(いわゆる「礼儀」の文脈で)受け取ることはなさそうだ。彼らはそれを「宗教儀式に於ける不思議な振る舞い」と受け取るだろう。しかしそれでも、このことはつまり、彼らは何らかの「違和感」を感じることはあるということを意味していないか。

もちろん意味しているのです。しかしこれは「舌で受ける御聖体拝領」に対する違和感というよりも、彼らがまだよく知らないその「宗教」への違和感と言っていいのです。そしてそれは、彼らがその「宗教的行為」の背景について簡単な「説明」を受けることで、直ぐにも一応の解消を見ることができるものなのです。(もちろん「一応の」ではありますが、その時点ではそれで十分なのです)

その「説明」とは、前々回も書いたこのようなことです。

ああ、あれですか。あれは聖書の中のイエズス様の御言葉に基づいた、まあ、一つの宗教儀式です。しかし「儀式」とは言っても、単に一つの形式・形骸であるというのではありません。これは要するに「信仰」の問題なのですが、私たちはあの小さなパンを、天主の神秘的な力によってキリストのまことの御体に変えられたものと信じているのです。で、信徒があれを舌で受けていたのは、キリストの尊い御体の小片さえ失われる可能性を小さくしようということなのです。そしてまた「司祭の聖別された手」ということもあります。これはいわゆる “差別” ということとは違います。一つの霊的秩序なのです。

このように簡単に説明されることによって、その未信者はその時、よくは分からなくても「そんなものか」程度には思い、一応の納得には至るのです。差し当たり、問題になるような違和感は解消されるのです。「これは宗教の話だ」ということに改めて思い至るわけですから。そのような一種の “割り切り” の下に見るようになるわけですから。

むしろ、彼にとって本当の対決はその先です。この信仰、この宗教を受け入れられるかどうかという。
その本物の対決を生きるならば、宗教儀式に於ける所作・動作・振る舞いに対する若干の「違和感」など問題にならないに違いありません。

この問題は究極的な疑問にさえ導く:

神父様方にとって「宗教」とは何なのか?

それに、だいたい「違和感」などと言いますが、日本の神父様方は一体どの段階の未信者の持つ「違和感」のことまで心配しているのですか。前回も書いたように、観光か何かで長崎の教会をフラリと訪れ、そこでたまたま御ミサを目撃するに至った、しかし自身の内にはいまだ何の宗教的関心の発芽も見ていないような未信者の持つ「違和感」のことまで心配しているのですか。

答えは「そうなのです」です。日本の神父様方は文字通り日本の「全ての未信者」の持つ(持ちかねない)「違和感」のことまで心配しています。宗教というものに現時点でハッキリした反感を抱いている未信者の目(感じ方)さえ気にしています、それに「配慮」しています。何故なら、「現時点」は「永久」ではなく、どんな無神論者も、いつ神から恵みを受けて宗教的関心を発芽させるかも知れないからです(もちろん、これ自体は本当ですが)。

そう、それ自体は本当です。しかしそれでも、私たちはこの「違和感」なるものを、どれほど大きく気にするべきでしょうか。何故なら──あなた方もよもや知らないわけではあるまい──「聖書」そのものの中に、未信者を戸惑わせる、それは多くのものがあるからです。

私は、宗教の持つそのような要素との対決、宗教との本物の対決の中で多くの「違和感」の大波を越え(神の恵みによって)、それを信じるに至った人たちにとっては、信者が御聖体を舌で受けることなど、まさに「問題にもならない」だろうと思います。

嘆きの詩[つぶやき]
神父様方、あなた方にとって「宗教」とは何なのですか。
「非日常的」「特殊的」であってはならないものなのですか。
未信者を「戸惑わせたり」「驚かせたり」「 “違和感” を感じさせたり」する要素を持っていてはならないものなのですか。
これに「はい」と答えるならば、あなた方はやはり、どこか十分に「非現実的」な人たちです。

そうして、あなた方は「未信者への思いやり」という文脈の中で「宗教臭い」ものを避けながら、結局はあなた方自身がいつしか「宗教離れ」しているのです。

さて、そして、私が上で例示した、未信者の人たちのための簡単な説明のことに戻らせて頂きたいのです。
いや、コピペは簡単なので、ここにもう一度貼りましょう。

ああ、あれですか。あれは聖書の中のイエズス様の御言葉に基づいた、まあ、一つの宗教儀式です。しかし「儀式」とは言っても、単に一つの形式・形骸であるというのではありません。これは要するに「信仰」の問題なのですが、私たちはあの小さなパンを、天主の神秘的な力によってキリストのまことの御体に変えられたものと信じているのです。で、信徒があれを舌で受けていたのは、キリストの尊い御体の小片さえ失われる可能性を小さくしようということなのです。そしてまた「司祭の聖別された手」ということもあります。これはいわゆる “差別” ということとは違います。一つの霊的秩序なのです。

しかし問題は、現在の多くの神父様方に於いては、「祭壇の前で司祭から “何か” を舌の上に受けている信者たち」についての未信者の素朴な疑問に上のように答え得る時期は既に数十年前に過ぎているということです。今や状況的に未信者の口からそのような疑問の声が聞かれることは皆無と言っていいでしょうが、しかし仮にそのような声が聞かれても、現在の神父様方は上のようには説明しないでしょう。何故なら、現在の神父様方は「全実体変化」とか「司祭の聖別された手」とかの概念を、今や殆ど(或いは全く)信じていないからです。信じてもいないことを説明する気になどならないというのは本当です。

だから・・・議論は幾重にも重なり合っています、その中で彼らは「日本の未信者が感じるであろう違和感」などと言っています、しかし、全てのカトリック信者、問題の核心はこれ↓です。

「違和感」 を感じていたのは、

実は 「カトリックに入信しようとしている日本の

成人たち」 ではなく、司祭たち自身だった

彼らは口では「日本の未信者が感じるであろう違和感」を口にします。しかし実は、この問題の奥には、彼らの「全実体変化」や「司祭の聖別された手」に対する不信があるのです。

神父様方はいつの頃からか「『全実体変化』というのは “過去の西洋の教会” が或る事を強調的に言うために採った一つの “言い回し” である」という程度にしか受け取らなくなりました。そして「司祭の聖別された手」に関しても、「それは過去の司祭たちが自分たちを信徒より高い位置に置くために採った、或いは “聖” というものと “罪の重大さ” というものを “過度に立て分ける” ために採った、やはり一つの “言い回し” だろう」という程度に解釈するようになりました。(そして、参照

そのようになった神父様方が「舌で受ける御聖体拝領」に「違和感」を持つのは全く当然のことでした。(「跪き」についても)

彼らは実際には 「カトリックへの改宗を考えて

いる成人たち」 の声を聞いていないだろう

これについても既に前々回に書きましたが。(重複が多いですね)

成人がカトリックに入信するとき、できるだけ違和感を持たせないように、との配慮も加わり…

人はこのように書かれると、「神父様方は実際、幾分かは、カトリックへの改宗を考えている日本の成人たちの声を聞いたのだろう」と思います。しかし、この文章は「聞いた」とは書いていません。そして、岡田司教様やその当時の司教様方や典礼委員に「聞きましたか?」と訊いても、おそらくハッキリした答えは帰って来ないことでしょう。曖昧な答えしか返って来ないことでしょう。

本当は、実態・実情は、「未信者や求道者の生の声を聞いてそう判断した」などということではなく、当時大いに持ち上げられていた神学と典礼学の “素晴らしき新展望” に魅せられて、彼ら自らがワクワクして、喜び勇んでやってしまった、というに等しいのです。

ですから、「カトリックへの改宗を考えている成人たちに配慮して」などと云うのは、或る種の「嘘」なのです。
カトリック聖職者と嘘。一体どんな取り合わせなのか。

しかし、彼らも「人間」です。たぶん、困るほど「人間」です。
彼らは人間的に動き、周囲の流れに流され、ぼんやりして、自分にあまり気づかずに、「結果的な嘘」というのをしばしば作ってしまうのでしょう。世の偉い人たちと同様に。

私も最終的には彼らを裁きたくありませんが(と云うか、そうしてはなりませんが)、しかしそれでも、何とかして欲しいものです。
神父様方が現代の教会の間違いを訂正して下さいますますように。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ