2015.09.10

フランコ・ソットコルノラ神父「推薦のことば」

ピエール・ジュネル師の『ミサ  きのう  きょう』の冒頭には「推薦のことば」があります。それを書いているのは誰ですか。あのフランコ・ソットコルノラ(Franco Sottocornola)神父です。
彼はこう書いています。強調は管理人。

第二バチカン公会議の提唱したこの適応と受肉は、三十年近くも前に日本力トリック司教典礼委員会が編纂した「和室のミサ」(4) で、見事に着手されました。この歩みは勇気をもって継続されなければなりません。そのためには、最後の晩餐の時の「キリストの仕草」のうち、真に本質的なことがらをはっきりと突きとめることから出発し、(…)また同時に、日本文化のまことの精神とこころを適確にとらえることから出発しなければなりません。

4  

本書付録の三参照。

全文

脚注4の言う「本書付録の三」とは、前回見た佐久間神父の「和室でのミサ」のことです。

こういうのを読むと、私は「典礼学者にとって『本質』という言葉はどんな意味を持っているのだろう」と訝らずにはおれません。
「彼らにとって『御聖体』とは、『ミサ聖祭』とは、また『司祭職』とは何なのだろう」と訝らずにはおれません。

と云うのは、彼は上のように、佐久間神父の「和室でのミサ」に「見事」という言葉を付しているからです。佐久間神父のその文章は「拝領者各自が自分の手で聖体器から聖体を直接取ること」を提案してるのにです。ソットコルノラ神父はそれも含めて「見事」と言うのでしょうか?

しかし、本当言えば、彼の「推薦のことば」に於ける文書指示には少し判然としないところがあります。彼はその文章の題名を「和室のミサ」としていますが、脚注4が私たちを導くところの文章の題名は「和室でのミサ」です。更に、彼は「日本力トリック司教典礼委員会が編纂した『和室のミサ』」と書いていますが、脚注4が私たちを導くところの文章「和室でのミサ」は佐久間神父様の個人的な提案のように見えます(佐久間神父様が当時、典礼委員会の会員であったとしても)。

ソットコルノラ神父が「和室のミサ」という文書名で意味していたのは佐久間神父様の「和室でのミサ」ではなく、典礼委員会秘書局の「日本間で行うミサに関する指針」のことであったという可能性があるかも知れません。しかしそれなら、彼の「推薦のことば」に脚注を振ったのは誰でしょうか? 彼自身ではないのでしょうか? 監修者の中垣純神父でしょうか? 中垣神父がソットコルノラ神父にとっては不適切な脚注の引き方をした? 妙なことです。

しかし、どちらにせよソットコルノラ神父は、その本の中にそのような内容を持った佐久間神父の文章が付録として載っていることを知っていたでしょう。そして、ご自分の文章が脚注によってその文章と結び付けられているのを知っていたでしょう。彼はそのことを問題に感じましたか? 「できれば訂正したい」と思いましたか?

私は、それはあまり考えられないことだと思います。私の目には、ソットコルノラ神父は「拝領者各自が自分の手で聖体器から聖体を直接取ること」を「とんでもない、絶対にダメ」と考える司祭には見えません。彼にとって、御ミサと御聖体拝領に於ける「真に本質的なことがら」は、もっと別のところにあるようです。(!)

御ミサのことを「キリストの」であれ
「仕草」と言うソットコルノラ神父

ソットコルノラ神父のこの文章で目立つのは「仕草」という言葉です。下線は管理人。

以来、その時のキリストの仕草を再現するミサ(感謝の祭儀)は、(…)

第二バチカン公会議の提唱したこの適応と受肉(…)。そのためには、最後の晩餐の時の「キリストの仕草」のうち、真に本質的なことがらを(…)

日本のキリスト者をはじめとし、イエズス・キリストの「最後の仕草」に心で結ばれている日本のすべての方々は、(…)

「仕草」という言葉は曖昧だけれども(いや、むしろ曖昧であるからこそ?)人間の耳には「包含的」にも聞こえ、どこか “意味深” に響きます。しかし、御ミサと結び付ける言葉としては不足です。ここで分かるのは、ソットコルノラ神父にとっても御ミサはいわば「表現系」の何かであるということです。確かにソットコルノラ神父は「禁煙マーク」を引き合いに出した具[クー]神父ほど軽薄ではないでしょう。しかし、それも結局、ちょっとした違い、程度の差でしかないのです。御ミサを第一に「表現」の問題としている点では同じですから。

「仕草」と云えば、彼自身の「仕草」も丁寧です。

御ミサを立てる時の彼の「所作」は、おそらく日本の茶道にも通じる優雅なものでしょう。或いはまた、日本人に代わって日本的な「まごころ」を──お・も・て・な・し の心、hospitality を──体現しているようにも見えるかも知れません。また、御ミサでない普段の所作でも、彼は実に「腰の低い」人でしょう。彼を見た人は「彼という人はまるで『柔和』『謙遜』という文字を人間にしたようなものだ」とでも感じることでしょう。

しかしながら、私は言いたいと思います。もしあなたに目があるならば──またいつものことを言いますが──「善」の世界というものは、思うほど、そう簡単なものではない、ということを知っているでしょう。不肖私はこのことを、昔から、右のようなイラストを以って示そうとして来ました。人間というものは本当に(特に善人は、善人であるだけに)提示された一つの善に魅惑されるあまり、それと併せて必要な別の善を、非常に重要である筈の善でさえ、われ知らず、ついつい、悪意なく、ぼんやりと、結果的に、「ないがしろ」にしがちなものであります。

そしてまた、人間のこの傾向、「生まれながらの傾向」「生来の油断」とでも呼びたくなるこの傾向を、上手に “利用” し、「思想誘導」する人たちも存在します。(例を挙げれば、ブニーニ大司教は実に “フレンドリー” だったそうです。しかし、詐欺師の前では基本的にこれを原則としなければなりません──「笑顔に注意」)

それで、カトリック信者は「宗教とは畢竟、“よい人間性” を作るためのものだ」とあまり単純に考えるならば、道を誤るのです(誤らせられるのです)。

どんなに “人間的に良さそう” でも、ついこの間まで普通に重んじられていた「司祭の聖別された手」という観念などは百万光年の先に放り投げてしまっているといった司祭が居るのです。
(「居る」どころではない)

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