2014.05.02

もう一人の変な事を言う典礼学者  具正謨神父(イエズス会)

この記事をあまり簡単に「個人攻撃」などと思う勿れ。
以下のような傾向は今や私達の教会の上に広く及んでいる。

具 正謨(クー・チョンモ)神父
Fr. Koo Mark chung-mo, S.J.

1963年生まれ。上智大学神学部神学科教授。2002年度から上智大学の神学部でキリスト教の典礼学及び秘跡論を担当。

 すなわち、彼は「典礼」や「秘跡」についての "専門家" である。
 国井神父様と同じく、である。

 この神父様については、以前、左のマークを貼った所で少しだけ触れたが参照、なにぶんその時は彼の本を手にしていなかったので、あまり確かな事、また多くの事は書けなかった。しかしこの度、彼のその本「典礼と秘跡のハンドブック 1(2009年)を買わせて頂いた。下にその問題の箇所を少しく長く引用し(読者はこれにより、彼の言った事をより正確に知ることができるだろう)、検討させて頂きたい。

 当記事は形としては具神父様に焦点を当てることになるけれども、しかし、私の真の関心が向かっているのは誰彼の個人の事と云うよりは、「彼らの心をこんなふうにしているもの」、つまり「現代の司祭達の心をこんなふうに『誤導(mislead)』しているもの」の方である。

 すなわち、上で「その本の問題の箇所」という言い方をしたけれども、それは決して彼の「失言」の類ではなく、また彼一人の「個人的なもの」に留まらないのである。今や多くの「典礼学者」達が、そして神父様方が、共有するところのものであるだろう。

 彼がどのように「現存」という言葉を扱うか、また「全実体変化」という事を扱うか、そしてどのような「結論」に着地するかを観察してみよう。
 しかし、あなたの観察の邪魔になるかも知れないが、まずは私のコメントを差し挟みつつという事にさせていらいたい(最後には彼の文章を連続的に表示するが)。各種強調は管理人。

p.63〜

ミサにおけるキリストの現存

 ミサにおけるキリストの現存を示す一番代表的な表現は、「実体変化」という言葉であろう。実体変化とは、簡単に言えば、司祭が制定句を唱えるときに、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化するという教えである。この教えが教義として最終的に定められたのはトリエント公会議であるが、そこにいたるまでには、聖体に関する長い神学的思索があったのである。

 既に危険の徴候が現われている。

 「全実体変化」を教義化するまでに教会には「長い経過」があったことは事実だろう。私もそれを認める。しかし、その「長い経過」には「長い神学的思索」しか含まれないのか。国井神父様が福音書の成立に関して「宗教的な編集会議」みたいなことしか考えないらしいように参照、典礼学者というインテリ達はどうもそのようなものしか見ないようである。「聖霊の介入」はどうしたのか。それは確かに議論には乗りにくいかも知れないが、しかしあなた方も宗教者だろう、目に見えるものの奥に何かを見ようとする者だろう、少しは触れては如何か。あなた方も第二バチカン公会議に関しては「聖霊」と言うのである。しかし「福音書」の成立や「全実体変化」の教えの成立に関しては、まずもって言わない。

 「聖霊の介入」という事を考えずに「神学的思索」とだけ言えば、それはつまり「全実体変化」の教えであれ何であれ「人間の脳髄から出た "相対的なもの"」という感じが強くなるのである。具神父様は──彼は "カトリック司祭" だが──「全実体変化」の教えを「一つの考え方」として打ち出すだろうか?

 西方教父の一人であるアンブロシウスは、「キリストの言葉(制定句)がすべてのものを変化させる力をもっている」と言い、東方教父のニュッサのグレゴリウスは、「キリストが聖別の力によって、外見上のパンとぶどう酒をご自分の不滅の体に変える」と言った。その他、数多くの教父たちも、似たような表現をもって聖体におけるキリストの現存を説いた。

 中世に入り、キリストの現存に関する理解は哲学的な色彩を帯びるようになった。特にトゥールのベランガリウスが、「聖体におけるキリストの現存は、その象徴性においてだけである」と言ったのに対し、教会が、「象徴性においてだけでなく、実体的に現存する」と反駁したのをきっかけに、十二世紀以降は、「実体」という表現をたびたび使うようになった。

 実体説を完成したのは、トマス・アクィナスである。彼はアリストテレスの哲学を用いて、「外見に見える偶有性はそのまま存続するが、それらの実体(形相と質料)がキリストの体と血に変化する」とした。

 上の箇所は問題ないかも知れない。しかし彼は次に「宗教改革者たち」(プロテスタント)に触れる。そしてプロテスタントとカトリックの或る種の交わりのことを言う。そしてキリストの「現存」を「全体的」に拡げる。

 宗教改革者たちは、実体説に留まるのを拒み、ミサはキリストの犠牲の記念や象徴にすぎないと見なした。ルターは、実体という理解を「哲学的な思弁」として退け、キリストの体が、「パンとぶどう酒のうちに、パンとぶどう酒とともに存在する」と説いた。ツヴィングリやカルヴァンなどは、パンとぶどう酒を、キリストを記念する象徴としてとらえた。同時に宗教改革者たちは、礼拝全体のダイナミズムを重視し、特に礼拝におけるみ言葉の役割を強調した。

 第二バチカン公会議は、宗教改革者たちの洞察を幅広く受け入れながら、典礼におけるキリストの現存説を展開している。すなわち公会議は、キリストは、「常に自分の教会とともに、特に典礼行為(全体)において現存する」と言い、それは具体的には、「①  聖体の両形態のもとに、②  司祭の奉仕のうちに、③  諸秘跡のうちに、④  聖書朗読のときに、⑤  共同体の嘆願と賛美のうちに現存する」ことを意味するとした(『典礼憲章』7)。

「キリストの現存」を拡げてしまえ!
どこもかしこも「現存」だ!
キリストは「宇宙に満ちる」のだ!

 彼は大胆なことを言ったのである。「第二バチカン公会議はプロテスタントの洞察を幅広く受け入れた」と。そして「そうしながら典礼におけるキリストの現存説を(ひとつ新たな形で)展開した」と。

 ここで考えるべき事が二つあると思う。

 一つはもちろん、そのように「キリストの現存」を全体的に拡げて解釈することは善いことか、と云う事である。
 これについては今ここで結論を出してしまおう。私は「善いわけはない」と思う。何故なら、前回言ったように、上の ① から ⑤ までの場合の間に主の現存の「程度の差」や「質の違い」があたかも「ない」かのように書くことは、どうしても「秘跡」の価値を(中でも特に御聖体の秘跡の価値を)相対的に低めることに繋がるからである。

 そしてもう一つは、カトリックの信徒達は具神父様の上の文章にプロテスタントの考えとして「記念や象徴にすぎない」とあるのを見て、「第二バチカン公会議はそれまで受け入れたんではないでしょうね?」と不安に思うのであるが、そこは果たしてどうなのかと云う事である。
 今の質問を覚えておいて頂きたい。答えは追々わかるだろう。
 先に読み進めよう。

 典礼におけるキリストの現存を理解するために、まず確認しておくべきことがある。それは「典礼とは、二千年前に生きたナザレのイエスと、歴史的、物理的に出会う場所ではなく、復活によって存在の様態を変えられ宇宙に満ちているキリストに出会う場である」ということである。それゆえ、典礼において復活されたキリストに出会うということは、霊的かつ内面的な性質をもつ。このような体験は、シンボルを通して起きる秘跡的な体験である。

 「歴史的に出会う」はともかく、二千年前に生きたナザレのイエスと「物理的に出会う」とはどういう意味なのか、今一つ解らない。具神父様の言葉は不明瞭である。もしや「全実体変化」ということと関係があるのだろうか。

 「典礼において復活されたキリストに出会うということは、霊的かつ内面的な性質をもつ」という事は、或る意味「当り前」である。しかしそれでも、このような言い方が御聖体の「全実体変化」ということに何らかの形で「水をさす」ようなものなら問題である。

 そして彼は次に「シンボル」という語を出すだろう。それは上のプロテスタントのところで出て来た言葉「象徴」と同じである。彼がこの言葉からどのような結論を引くか見てみよう。

 シンボルを通しての霊的な出会いを理解するために、一つの例をあげよう。筆者の友人の一人は、修道生活を準備していたとき、偶然にある女性に出会い、迷い始めた。彼は少年時代から、自分は修道生活に召されていると信じていたが、女性との出会いによってその確信が揺れるようになった。ある日、彼は彼女と一緒に教会のミサに与り、特別な恵みを体験した。祈りの途中、「自分は修道生活に招かれている」ということを再確認できた。ミサの後、彼は自分の体験を彼女に伝えるために、教会堂の外にある椅子に座った。言いづらいこともあり、タバコを吸うためにポケットに手を入れたが、赤い色でマークされている「禁煙」の標識を目の前にしてしまった。その瞬間、彼女の方から穏やかな声が聞こえた。「大丈夫ですよ。今、話そうとしていることは、わかっていますから」。

 その後、彼は修道院に入り立派な修道士になったが、ある日、このようなことを話してくれた。「わたしは禁煙の標識を目にすると、いつも、あの時のことを思い出す。禁煙の標識は、わたしの人生にとって一番重要であったあの時のことを想起させてくれる。それは昔、起こったことだけれど、わたしの魂の中ではいつも生きており、毎日、自分がどのような道を歩むべきかを教えてくれる」。すなわち、彼にって禁煙の標識は、ただの客観的なメッセージ(タバコを吸ってはいけない)ではなく、あの時もまた今もなお、自分を導いてくださる神様の恵みを思い起こし、それを確認するシンボルとして働くのである。

 それ(禁煙マーク)がそのように働くなら、その修道者さんのためにはいい事である、と、私も言うことができる。
 しかし、次の結論に注目せよ。

 キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは、言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起し(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである。実体変化は、その標識が、信仰者にとって真の神のシンボルとして働くことを表す

 「キリストの教会」に下線を引いたのは、このような "典礼学者" がその言葉を使う時、果たして「カトリック教会」に限定して言っているものかどうか不安だからである。
 しかし、それは兎も角、最後の一文が異常である。

 しかしそれでも、出来るだけ善意の解釈を試みてみよう。
 彼が最後の一文で言う「標識」とは、「禁煙マークのようなもの」だけれども、まあ、それでも、典礼との結び付きを回復させつつ言えば、「言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)」の事だろう。
 だから、彼のために言い直そう。次のようになるだろう。

「実体変化は、言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などが、信仰者にとって真の神のシンボルとして働くことを表す」

 しかし、このように言い直してみても何の擁護にもならないと思う。私はこの結論の貧しさに驚く。
 そしてもちろん「貧しい」ばかりでなく間違っている。彼は「実体変化」の新定義を発明したのである。(参照: 全実体変化

 さて、「覚えておいて頂きたい」と言っておいた質問がある。ここに繰り返す。

カトリックの信徒達は具神父様の上の文章にプロテスタントの考えとして「記念や象徴にすぎない」とあるのを見て、「第二バチカン公会議はそれまで受け入れたんではないでしょうね?」と不安に思うのであるが、そこは果たしてどうなのか。

 これに対する解答はもう出ている。具神父様は「実体変化は(…)シンボルとして働くことを表す」と締めくくったのだから、「第二バチカン公会議はプロテスタントの『記念や象徴にすぎない』という考えまでも受け入れた」と言ったも同然である。少なくとも言葉の上でそうである。

 次のような主張があるかも知れない。
 「それは具神父様個人の問題ではないのか。第二バチカン公会議文書の "読み方" に於いて、或いは御自分としての "書き方" に於いて、彼も人だから、完全ではなかった、ということではないのか。いずれにせよ、第二バチカン公会議自体はそんなことは言ってないだろう。」

 私はその主張に次のように答える。
 既に言ったように、「典礼憲章」の中には、「現存」という言葉のあのような拡大( ① 〜 ⑤ )が「ある」一方、「全実体変化」とか「まことの現存(Real Presence)」という言葉が「ない」のである。
 ──回答はこれで十分ではないか?

 連続的に表示しておく。

p.63〜

ミサにおけるキリストの現存

 ミサにおけるキリストの現存を示す一番代表的な表現は、「実体変化」という言葉であろう。実体変化とは、簡単に言えば、司祭が制定句を唱えるときに、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化するという教えである。この教えが教義として最終的に定められたのはトリエント公会議であるが、そこにいたるまでには、聖体に関する長い神学的思索があったのである。

 西方教父の一人であるアンブロシウスは、「キリストの言葉(制定句)がすべてのものを変化させる力をもっている」と言い、東方教父のニュッサのグレゴリウスは、「キリストが聖別の力によって、外見上のパンとぶどう酒をご自分の不滅の体に変える」と言った。その他、数多くの教父たちも、似たような表現をもって聖体におけるキリストの現存を説いた。

 中世に入り、キリストの現存に関する理解は哲学的な色彩を帯びるようになった。特にトゥールのベランガリウスが、「聖体におけるキリストの現存は、その象徴性においてだけである」と言ったのに対し、教会が、「象徴性においてだけでなく、実体的に現存する」と反駁したのをきっかけに、十二世紀以降は、「実体」という表現をたびたび使うようになった。

 実体説を完成したのは、トマス・アクィナスである。彼はアリストテレスの哲学を用いて、「外見に見える偶有性はそのまま存続するが、それらの実体(形相と質料)がキリストの体と血に変化する」とした。

 宗教改革者たちは、実体説に留まるのを拒み、ミサはキリストの犠牲の記念や象徴にすぎないと見なした。ルターは、実体という理解を「哲学的な思弁」として退け、キリストの体が、「パンとぶどう酒のうちに、パンとぶどう酒とともに存在する」と説いた。ツヴィングリやカルヴァンなどは、パンとぶどう酒を、キリストを記念する象徴としてとらえた。同時に宗教改革者たちは、礼拝全体のダイナミズムを重視し、特に礼拝におけるみ言葉の役割を強調した。

 第二バチカン公会議は、宗教改革者たちの洞察を幅広く受け入れながら、典礼におけるキリストの現存説を展開している。すなわち公会議は、キリストは、「常に自分の教会とともに、特に典礼行為(全体)において現存する」と言い、それは具体的には、「①  聖体の両形態のもとに、②  司祭の奉仕のうちに、③  諸秘跡のうちに、④  聖書朗読のときに、⑤  共同体の嘆願と賛美のうちに現存する」ことを意味するとした(『典礼憲章』7)。

 典礼におけるキリストの現存を理解するために、まず確認しておくべきことがある。それは「典礼とは、二千年前に生きたナザレのイエスと、歴史的、物理的に出会う場所ではなく、復活によって存在の様態を変えられ宇宙に満ちているキリストに出会う場である」ということである。それゆえ、典礼において復活されたキリストに出会うということは、霊的かつ内面的な性質をもつ。このような体験は、シンボルを通して起きる秘跡的な体験である。

 シンボルを通しての霊的な出会いを理解するために、一つの例をあげよう。筆者の友人の一人は、修道生活を準備していたとき、偶然にある女性に出会い、迷い始めた。彼は少年時代から、自分は修道生活に召されていると信じていたが、女性との出会いによってその確信が揺れるようになった。ある日、彼は彼女と一緒に教会のミサに与り、特別な恵みを体験した。祈りの途中、「自分は修道生活に招かれている」ということを再確認できた。ミサの後、彼は自分の体験を彼女に伝えるために、教会堂の外にある椅子に座った。言いづらいこともあり、タバコを吸うためにポケットに手を入れたが、赤い色でマークされている「禁煙」の標識を目の前にしてしまった。その瞬間、彼女の方から穏やかな声が聞こえた。「大丈夫ですよ。今、話そうとしていることは、わかっていますから」。

 その後、彼は修道院に入り立派な修道士になったが、ある日、このようなことを話してくれた。「わたしは禁煙の標識を目にすると、いつも、あの時のことを思い出す。禁煙の標識は、わたしの人生にとって一番重要であったあの時のことを想起させてくれる。それは昔、起こったことだけれど、わたしの魂の中ではいつも生きており、毎日、自分がどのような道を歩むべきかを教えてくれる」。すなわち、彼にって禁煙の標識は、ただの客観的なメッセージ(タバコを吸ってはいけない)ではなく、あの時もまた今もなお、自分を導いてくださる神様の恵みを思い起こし、それを確認するシンボルとして働くのである。

 キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは、言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起し(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである。実体変化は、その標識が、信仰者にとって真の神のシンボルとして働くことを表す。

参考記事(聖ピオ十世会司祭トマス小野田神父様による記事)

オッタヴィアーニ枢機卿が、新しいミサの出来たときに警告したとおりに(2009年12月09日)

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