2014.05.02

「全実体変化」を信じない司祭  国井健宏神父  Part 3

この記事をあまり簡単に「個人攻撃」などと思う勿れ。
以下のような傾向は今や私達の教会の上に広く及んでいる。

 引き続き「共同体の奉仕する典礼」について。

福音書の成立は「人間のわざ」で、
第二バチカン公会議は「聖霊のわざ」?

共同体で語り合っていた、そこから共同体のテキストを作らなければならない。共同体の記憶を確保するために、決まった言葉にする。イエスの生涯について。教えについて。特に死と復活。それをある人はこんな話し方をする。別の人はこんな話し方をする。いろいろあったでしょうが、それをまとめてきちんとした決まった言葉でまとめる。そして集まった人が同じ言葉でキリストの、イエスの思い出を語り、一緒に祈る。一緒に唱える、一緒に聴く。日常性の中からやがて4つの福音書が編集されていくことになります。

 特に最後の文が決定的である。
 福音書の成立過程に関して、彼の口から「聖霊」という言葉が出ない代りに「日常性」という言葉が出るのである。

 上のような説明であれば、福音書の成立は、ただ人間の精神的な過程でしかないということになる。「イエス」についての「記憶」を持つ人々が集まり、頭を寄せ合って討議しつつ、やがて形が定まっていくという、そのようなことでしかないということになる。一種の宗教的な「編集会議」である。

 しかし、イエズス様は或る時、弟子達がやがて陥るであろう窮状のためにこう仰せられたのではなかったか。「(その時)何を言おうかと心配することはない。言うべきことは聖霊がそのときに教えてくださる」(聖ルカ 12:12)

 私は国井神父様に訊きたい。福音記者が福音書を記[しる]すという聖なる過程にあった時(それは聖なる過程ではなかったのか、日常的な過程だったのか、国井神父様)、彼は聖霊に祈らなかったのだろうか。そして、聖霊は彼の筆を助けなかったのだろうか。

 私はあなたがこれまでどれだけ学問的な研鑽を積んで来たかは知らない。しかし、あなたの研究の対象は、(1) 遙か遠くの時代の事(資料も十分でない)、(2) 人知の及ばないことも多く含む筈の事、この二つから成り立っているのではないか。
 そうに違いないのに、あなたはどうしてそこまで自信満々、「(福音書の成立は)日常性の中から」と断言することができるのか。

 私は国井神父様にだけでなく全ての研究者に言いたい。
 天主の御事の前に、あなた方は少し自惚れ過ぎではないか。

 さて、ところが、上の言い方とは対照的に、彼は「第二バチカン公会議」には「聖霊」という語を付すのである。

だからこれを変えようとしたヴァチカン第2公会議、典礼憲章、その前後の典礼運動、そしてその後の又いろんな刷新の動き。これはものすごいことだと思います。ミサっていうのはカトリックのトレードマークなんですよ。そのトレードマークの基本的な考え方を変えるっていうのは本当に大変なことで、やっぱりこれね、聖霊が働いてくださらなければ不可能なことだと思います。

彼にとっては「祭壇」はほとんど悪である

そこで会衆と司祭の間にだんだん壁が出来ていきます。ミゾができていきます。司祭が祈っている。会衆はもう何のことか分からない。それから大きなシンボルの変化。それは食卓がだんだんと祭壇になっていきました。ミサの出発点は「最後の晩餐」でした。食事でした。家族が、弟子たち共同体仲間が集まって食卓を囲んで一緒に食事をする。それが中心でした。(…)ここにある食卓は本当は共同体の食卓なんです。(…)食卓が持っている意味は、それは家族が、友人が一緒に集まって、それを囲んで、座って一緒に食事をする。そしていろんな話し合いをする。いろんなことを分かち合う。人間さまが物を食べるところなんです。ところが祭壇となるとそうはいきません。(…)祭壇そのものは人間が食べるところじゃないんです。こうして共同体の中心にあった食卓が祭壇になっていった。

 この神父様は御聖堂での飲食に反対するだろうか。
 彼自身にとって反対する理由があるだろうか。

うんざりさせる語り口

(ミサは)決して司祭一人が全部やって、それに信者の人に参加させてあげる、そんな司祭の私有物ではありません。ミサは共同体のものです。(…)司祭の私物になってしまっていた司祭のミサをどのようにしてもう一度共同体の手に返すか、どのようにしてそれを共同体のミサにするか。(…)ミサが司祭のものになってしまった。もう一度典礼は共同体のものであり(…)。総則の中でミサを捧げるのは司祭であるっていう言葉は一度も出てきません。司祭のミサではないからです。(…)間違った考えというのはミサの主役は司祭である、と。(…)主役は会衆である。(…)典礼の主役は皆さんなんですよ。

 「私物化」だの「主役」だのと、大袈裟も甚だしい。何故、あたかも政治闘争ででもあるかのように騒いでいるのか。

 しかも彼は、ルーテル派の神学者(キルケゴ-ル)を「大神学者」と讃えながらそのような論を展開しているのである。ルーテル派とは何か? 「全実体変化」を否定する派である。
 この神父様の内側では「プロテスタントの魂」が騒いでいる。

 「御ミサ」をめぐる物事を整理しよう。少々古い公教要理を引用するが、内容はカトリック信仰にとって最も基本的なことである。

昭和27年公教要理より

427. ミサ聖祭とは何でありますか。

 ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に献げる祭であります。
 (…)ミサ聖祭は司祭によって献げられますが、実はイエズス・キリストの御手を以て、直(じか)に之をお献げになるのであります。

 別の公教要理では「司祭の手を通して」となっている。

 この程度の表現には国井神父様にも異存があろう筈がない。何故なら、国井神父様御自身、その御講話の中で、それに或る種の否定をかぶせるにせよ、「司祭がミサを捧げる」という表現を何度もしておられるからである。御ミサというものが或る意味で(と言っておこう)「司祭によって」「司祭の手を通して」捧げられるものであることは、紛れもない現実として、国井神父様にも否定のしようがない。

 次に、「司祭」は「会衆」との関係に於いて、どのような位置にあるか。

昭和27年公教要理より

431. 信者は、ミサ聖祭に対してどういう役割をもっておりますか。

信者は、司祭を総代としてミサ聖祭を献げ、又、主を頭とする神秘体の一部分として、キリストと共に己をも献げるのであります。

 この古い公教要理によれば、司祭は「総代」である。
 総代とは「関係者全員を代表する人」である。
 私が思うに、この表現には何の無理もない。

 しかし、国井神父様はこの表現さえ受け入れられないに違いない。彼にとっては司祭は「信者の代表」ですらないのである。彼は如何なる意味でも司祭に共同体の「先頭」に立って欲しくない。頑として、「主役」(←彼はこの言葉を使う)は会衆でなければならない。司祭はただ「プロンプター」「言葉を教える人*」、世話役、介添人、ファシリテーター、そんな程度のものでなければならない。

* あの偉大で奇跡的な「ミサ聖祭」に於いて、彼は「司祭」のことを「言葉を教える人」と言い、「秘跡を執行する人」と言わない。

 しかし、そのような構図の描き方には無理がある。或いは、もっと率直に言うと、そのようなものの見方は「歪んで」いる。歪み切っている。自然さ、素直さのカケラもない。口曲がりである。

 何故ならば、簡単な話、会衆は何千何百と居ようと「聖変化」を起こせないが故に、会衆だけでは「ミサ聖祭」は成り立たないからである。
 それだのに、なんで「会衆」が「主役」だろうか。
 (○カも休み休みに言え)

 もう少し補足すれば、その反対に、司祭は一人でも「聖変化」を起こすことが出来る(その権能は我らの重んずべき神が彼に与えたものである)が故に、司祭だけでも「ミサ聖祭」は成り立つからだ。

 国井神父様は「いいや、司祭が一人で行なうミサはミサとは言えない!」と言い張るだろうが、否、その御ミサに多くの人が与った方がよいとしても、それは「ミサ」なのである。司祭がその中で御子の御犠牲を御父に捧げれば、そして主の御体と御血を拝領すれば、それで「ミサ」である。

 国井神父様が使う「ミサ」という言葉は一種の社会学的な言葉である。オランダ新カテキズムの筆者が「パンを物理学的よりも人類学的な観念として考えねばならない」と言ったのとどこか似ている。参照

 国井神父様、あなたの目は素直でない、自然でない。
 あなたの神学世界は人間の「思惑」でいっぱいだ。

 人間にとって「素直さ」は殊の外大事だ。
 私達は次のようにものを素直に見ることが出来るのである。

昭和27年公教要理より

665. 信ミサ聖祭の効果はだれにおよびますか。

ミサ聖祭の効果は、教会全体、特に、
1. ミサ聖祭をささげる司祭とそれにあずかる人たち、つまり、司祭と一体となっている人たち(…)におよびます。

聖ピオ十世公教要理詳解より

434. 信者は、どのような心構で、ミサ聖祭に与らねばなりませんか。

ミサ聖祭に与る時には、キリストの御受難、御死去を思い出し、司祭と心を合せて之を献げ、成可(なるべく)聖体を拝領するよう心がけねばなりません。

 司祭が「総代」として立ち、会衆はミサ聖祭に「あずかり」ながら、且つ「司祭と一体となる」「司祭と心を合せる」ことが可能なのである。
 「可能である」と云うのは、上のこれらの公教要理が書かれた時代、つまり旧典礼の時代に於いても可能だったろうと云う意味である。

 古い時代に於いては信者はそんなに酷く司祭から「疎外」されていたのか。それにしては古い典礼から多くの信心深い人達、そして聖人達が出たではないか。司祭がミサを「私物化」して来ただの、信者に対して自分の立てるミサに「あずからせてあげる」という意識を持っていた(典礼様式がそのように導いていた)だのというあなたの言い方は、ほとんど「凶悪な誇張」である。

 そして、彼の標的となるのは古い典礼だけではないのである。彼は ──   信徒よ、聞け  ── 現在の典礼についてすらこう言うのである。
まだまだ私の考えでは司式者がやることが多すぎる(!!!)参照

彼は「集会祭儀」のことを悲しむ素振りもない

 その講話の後の方で彼は「集会祭儀」に触れるけれども、以上のような彼だから、それについて悲しむ素振りもない。況んや抵抗の素振りをや。これは彼に於いて極く極く必然である。

 彼は信者らに、「これから必要になるかもしれない集会祭儀」に十全の備えをせよ、信徒各人は「一つの奉仕職の専門」に留まるのでなく「オールラウンドプレイヤー」になるよう努めよ、と、曇った顔一つ見せずに励ます。
(彼は実際、カトリックがプロテスタントの聖餐式のようなものしか持たなくなっても悲しまないだろう。そこに特に不足を感じないだろう)

 世の神父様方の中にも、彼ほどではないにしろ、集会祭儀も「時代の趨勢」として、仕方がないからこの際、それに「積極的な意義・価値」を見出して行こうと、「善意」で臨む人達も居るだろう。しかし、そんな態度は「上下逆さま」である。

 そもそも、カトリックは世に「抵抗」するものではなかったのか。世の流れに「逆らう」ものではなかったのか。主イエズス様御自身が「逆らいのしるし」ではなかったか。そんなに物分かりよく簡単に「時代の趨勢」などと口走ることは、カトリック者としての魂を失っている証拠である。

* * *

 十分に書けたとは思わない。しかし、これだけでも明らかだろう。
 国井神父様はカトリック教会を衰退に導く神学者の一人である。

 引退した神父様に酷いことを言うと思われるかも知れないが、彼はまだ若干、信徒対象の講座を持っておられるようだし、彼の本はこれからも売られ続けるだろう。

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ