2014.05.02

「全実体変化」を信じない司祭  国井健宏神父  Part 2

この記事をあまり簡単に「個人攻撃」などと思う勿れ。
以下のような傾向は今や私達の教会の上に広く及んでいる。

 次に、2003年の「共同体の奉仕する典礼」を見てみる。

「人間の在り方」を〈中心〉〈第一〉に据えた語り方

なぜ、カトリック教会は毎日曜日ミサがあるのですか。

いろんな答があると思いますけども、<だって行かないと罪になるでしょう…>とかね、それが一番消極的な態度ですが(…)。大人の場合は、なぜ行くのか、と言われたら、それは<私が行きたいから行くんです>。なぜ行きたいか。強制されて行くわけではありません。

 「言葉」というものをシンボリックに見ることは時々役に立つと思う。

 以前取り上げた「オランダ新カテキズム」の副題はこうであった。
 「新カトリック教理 ─ 成人への信仰のメッセージ」
 「A New Catechism: Catholic Faith for Adults
 オランダ語の原書に於いても同じである。

 言われなくたって、誰もこのカテキズムを「児童向け」とは思わない。そこをわざわざ「成人への」と銘打つのは、「成人なら、一から十まで権威に依るのでなく、物事を──たとえそれが定義済みの教義であっても──自分で、積極的に、深く "再検討" できる筈である」という事への "誘い" であるからだろう。

 私は次の事も思い出す。ベネディクト16世教皇様の御文章から。

少なからぬ影響力を持つグループが、私たちに「ひざまずく」ことを止めさせようと試みてきます。「私たちの文化に合わない」と言います(一体、どの文化に?)。「まっすぐに立って、神に向かって歩く成人には似つかわしくない」あるいは、「救われた人はキリストによって自由となり、もはやひざまずく必要がないので、ふさわしくない」と言います。

There are groups, of no small influence, who are trying to talk us out of kneeling. ‘It doesn't suit our culture’, they say (which culture?). ‘It's not right for a grown man to do this – he should face God on his feet.’ Or again: ‘It’s not appropriate for redeemed man – he has been set free by Christ and doesn't need to kneel anymore.

ヨセフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』(サンパウロ刊)p.200

 このような彼らの "言葉遣い" には何かあるのである。

 すなわち、彼らは常に(或いはしばしば)次のような単純な二元的な構図を描く。

大人
積極的
能動的
自由

vs.

子供
消極的
受動的
権威の下

 彼らは本当に、しばしば、このように単純な描き方をする。
 「自由である」か、然らずんば「強制されてある」か、みたいな。
 人間の生きる現実にはあたかもその二つしかないかのような。

 上の国井神父様の語り口にもその傾向がありありである。

 上の図で「子供」の側に「権威の下」と書いたけれども、本当は「教会の権威の下」にあるのは「大人」も「子供」も同じである。そしてそれは必要である。
 人間の生きる日々に於いて、時には主日の御ミサに行くことに乗り気にならない時もあるのである。そしてその時に、「教会の掟」に対する従来的な意識がその人を助ける場合もあるのである。その意味で「権威の下」にあることは必要であり有用である。

 確かに、「人間の在り方」だけに目を付ければ、主日の御ミサへのそのような行き方は「消極的」と云えるかも知れない。しかし、「教会の権威」(国井神父様は認めないかも知れないが、その奥は「神の愛」である)を "重んじ" てそうしたのなら、それはその意味で「積極的」である。

 私も、もし国井神父様が、主日の御ミサへの参加に関して先ず「教会の掟」に言及し、然るのち、「しかし、そればかりでは信者としてはどこか寂しいですね。出来得れば、主日の意味を自分自身で深く掴み、誰に言われるでもなく、掟だからと云うのでもなく、行くようにしたいものですね」と言うなら、分かるのである。それはそれで自然な言い方である。

 しかし、この種の神父様方に於いてはしばしば(或いは常に)極端な語が用いられるのである。すなわち、彼らは「強制」と言う。
 「自由意志」であるか、然らずんば「被-強制」であるか、そのどちらかしかない、みたいな。

 あらゆる自由主義的な国で、或る種の司祭達が、この極端語、この非現実語(これが未だにひどく因習的なイスラムやヒンズーの国に関してなら、私もこうは言わない)、「強制」、を用いながら何かを斥けようとしている。
 あなた(読者)は、彼らが何を斥けようとしていると思うか?

 国井神父様は、御自分の内側の何処に「教会の権威」を、「教会の掟」を置いているのだろう。
 国井神父様はスキレベークスの友人だろう。

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