この人を通して教会憲章のことを少し見てみます。
「教会憲章」や「オランダ新カテキズム」
に影響を与えた人
エドワード・ |
スキレベークス |
(スヒレベークス) |
Edward Schillebeeckx
(1914 – 2009)
ベルギーのアントワープ出身のローマ・カトリック教会の神学者、ドミニコ会士。
オランダのヘルダーランド州のナイメーヘンのラドバウド大学ナイメーヘンにて50年以上の間神学について教鞭をとり続けた。(…)彼の功績の中でもとくに1962年から1965年に開かれた第2バチカン公会議に関する功績は世界中で知られている。
だから、彼はベルギー出身ではあっても、実質的にオランダの神学者です。
彼は「啓示憲章」や「教会憲章」の成立に影響を与えたようです。
第二バチカン公会議の間、スキレベークスは最も活発な神学者の一人だった。彼はベルナルデュス・ヨハネス・アルフリンク枢機卿のようなオランダの司教達のためにいろいろな議会干渉を立案し、ローマで開かれる多くの司教会議のために神学的源泉回帰(theological ressourcement)に関する会議を行なった。彼は、オランダの司教達の「来たる1961年の会議に関する司牧書簡」の "ゴーストライター" であったことのために、アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿(長官)とオランダ人セバスチャン・トロンプ(秘書)率いる聖務聖省によって容疑者とされた。これはスキレベークスが彼の神学的立場をローマの権威からの告発に対して防衛しなければならなかった三つの例の最初のものであった。この結果としてスキレベークスは、神学準備委員会(オッタヴィアーニ率いる)によって準備された草案について、ほとんど全く否定的な論評を匿名で書いた。第二バチカン公会議で議論される神学の草案についてのそれらの匿名の論評と彼が発表した諸記事は、「啓示憲章」や「教会憲章」のような幾つかの憲章の発展にも影響を与えた。後者の文書、教会に関する教義的憲章[教会憲章]に於いては、スキレベークスは司教の協働性に関する議論に中心的に関わった。彼は、カトリックの教会論を、教会をまったく階層的に構築されたものと見る見方から引き離そうとし、教皇の権威(第一バチカン公会議の憲章「パストル・エテルヌス」の中で為された教皇の不可謬性についての宣言の結果としての)に極度にフォーカスした。これ(教皇の権威)は、スキレベークスと他の公会議に参加した多くの者らによれば、司教団の役割を新たな仕方で強調することによってバランスを取らされるべきものであった。このように、彼の影響力は公式の神学者(オランダの司教達が彼に与えなかった地位)のそれより遙かに大きなものだった。既に1963年に、彼は、シュニュ、コンガール、カール・ラーナー、そしてハンス・キュンクらと共に、新しい神学誌『コンシリウム』(wiki) の創刊の準備に関わっていた。それは公式には1965年に Paul Brand と Antoine Van den Boogaard の支援のもとに創刊され、「改革主義者」達の考えを促進した。
また「オランダ新カテキズム」の成立にも。
彼は「オランダ新カテキズム」の準備も手伝った。それはオランダの司教達が1966年に刊行したもので、広く売れた。 |
スキレベークスの人格主義者としての考えはオランダ新カテキズムの中に多く取り入れられた。そのカテキズムは1960年代の中頃にカトリックの世界的なベストセラーになった。しかし、バチカンが司教達にそのカテキズムの翻訳に印刷許可を与えないよう働きかけ、又その内容の多くが疑わしいものであることを示唆したので、その本は失敗した。 |
彼は、第二バチカン公会議の間、ドイツの司教達の神学アドバイザーとして働いた。そして、成人のためのオランダ・カテキズムにインスピレーションを与えた主要な人物と見られている。 |
TIA がスキレベークス自身の言葉を幾つか紹介してくれています。
第二バチカン公会議は教会の中に民主主義を導入した
スキレベークスも教会憲章を教会の中に民主的な要素を導入したものと評価する。
我々は、今日の教会の中にこれまで以上に民主的な要素が現われて来つつあると言うことができる。とりわけこの事は、組織構造の基礎の中に、様々な教会行政機構と地方教会の中に、そして司教と信徒の関係の中に、見出すことができる。今や多くの場所に、より民主的な構造が現われている。これは、司教達自身が自分の権威がどのように機能するかについての新しい概念を既に持っているからこそである。
司教というもののイメージが民主的な展望の中で徐々に固まって来さえすれば、ローマの最高権もやがて地方教会に、かなりの程度まで、自分達の問題を自分達で解決することを許すことができるようになるだろう。(…)実際、教会に関する教義憲章[教会憲章]は、めいめいの司教に「キリストの代理者」という古い称号を回復させた時、その中に普遍的な教会が再現されるべき地方教会に一つの神学的基礎を与えたのである。
(E. Schillebeeckx, "Fundamento da autoridade na Igreja," in V.A., Cinco problemas que desafiam a Igreja hoje, Sao Paulo: Herder, 1970, pp. 39-40;)
彼は以前取り上げたベルンハルト・ヘーリングと「同じ穴の狢」です。ヘーリングは「地方教会はローマの "紐付き" であることをやめて自立(自律)すべきだ」という考えの持ち主、そしてスキレベークスは「ローマからの余計な干渉がなくなれば、それぞれの地方教会の中に "普遍的な教会" が再現される」と主張します。(一体全体どこにそんな保証があるのでしょうか。)
スキレベークス神父
「第二バチカン公会議は教会の君主制に対する反応だった」
第二バチカン公会議の間、エドワード・スキレベークス神父はオランダ司教団の神学の専門家として行動した。1964年、第二バチカン公会議がまだ続いていた時、彼は『コンシリウム』誌の主要な運営者の一人だった。その季刊誌の目的は第二バチカン公会議の仕事をサポートし続行することだった。その協力者は多く居たが、その中にイヴ・コンガール、アンリ・ド・リュバク神父、カール・ラーナー、マリ−=ドミニク・シュニュ、ヨゼフ・ラッツィンガーなどの司祭が居た。
20周年の特別号のために、スキレベークスは彼がよく知っているその公会議についての論評を書いた。
右上はスキレベークスの論評「福音は恣意性の下に置かれるべきではない」が載った『コンシリウム』の表紙、その下はポルトガル語のテキストの写真複写である。以下、写真複写で黄線を引いた部分を翻訳した。
確かに、第二バチカン公会議は抗議と反駁の会議でもあった。いわば、教会内部の封建主義と君主制の残滓に対する自由な教会の反応だった。
それ故、教会統治に於ける協調性が強調された。この会議によってのみ、教会はフランス革命の偉大な征服とブルジョアジーの解放を受け入れたのである。すなわち、寛容性、信教と良心の自由、エキュメニカルな開放性など。
しかし、歴史の皮肉、教会は、社会が自由なブルジョアジーによって造り出された隷属の新形態を批判する準備をせざるを得なくなった頃に、そのようにしたのである。
(Edward Schillebeeckx, "O Evangelho nao pode estar sujeito a arbitrariedade," in Concilium, n. 10, 1983, p. 29)
東洋の司祭ならいざ知らず、ヨーロッパの知識人が、しかもカトリックの司祭がフランス革命を高く評価するなら、それは酷く変な事です。(参照: 澤田昭夫教授「フランス革命 血塗られたる…」)
スキレベークス神父「神学は教会を擁護することをやめ、むしろ教会を批評すべきである」
H. Hillenaar と H. Peters という二人のオランダの学者がオランダの最も有名な神学者達とインタビューを行なった。主題は様々で、神学、聖書とカテケーシス、教会権威、典礼、教会に於ける女性、その他である。彼ら二人はこの努力を1969年に一冊の本『オランダのカトリック』として刊行した。
名簿のトップに挙げられているのはエドワード・スキレベークス神父、オランダの専門家の一人として第二バチカン公会議に参加した進歩的神学者である。カトリック神学の将来をどのように展望するかと問われて、彼は下のように答えている。
右上は『オランダのカトリック』の表紙、その下はフランス語のテキストの写真複写である。以下、写真複写で黄線を引いた部分を翻訳した。
問: あなたの御意見では、この先、神学と教会はどのように発展するでしょうか。
答: まず私の望みを話させて下さい。
私は、来たる日々に於いて神学が、言うべき事を言う増大する自由を手にすることを望みます。これまでは、専門性と価値を有していても自由にものが言えないあらゆるタイプの神学者達が居ました。そこには常に「ローマはどんな反応をするだろう?」と恐れて身動きが取れなくなるような状態がありました。
従って、私はとりわけ神学者達のための完全な自由を望みます。何故なら、彼らの全てが福音に忠実たろうと望んでいるからです。
他方、これも望みます。すなわち、神学が、教会の神学であり続けながらも、もはや教会にとってイデオロギー的な擁護者であるのではなく、それとは反対に、教会に対する批評家としての役割を演ずることを。
(Edward Schillebeeckx, "La Theologie," in Les Catholiques Hollandais, Bruges: Desclee de Brouwer, 1969, p. 21)