2014.05.02

教会憲章も似たようなものである Part 2

Edward Schillebeeckx
 
Dick Cheney

Dick Cheney

 ちょっと似ていると思いました。
 ふだんは羊のような顔をしていても、「教会を変えよう」と頑張る時にはこのような形相になるもののようであります。(ルフェーブル大司教様は「騒々しい神学者たち」という言葉を出しておられます)

 ついでに前々回の話の中に出て来たオランダのアルフリンク枢機卿の顔貌も見て下さい。Cardinal Alfrink In Vatican In 1964
 なんか、ニヤけた感じで座ってますね。人を舐めた感じですね。

 昔、「人を見かけで判断しちゃいけない」と怒られたことがありますが、否、人間の内面性というのはかなり表[おもて]に出るものであります。

 さて、前回、スキレベークスの言葉として次のようなものを見ました。

実際、教会に関する教義憲章[教会憲章]は、めいめいの司教に「キリストの代理者」という古い称号を回復させた時、その中に普遍的な教会が再現されるべき地方教会に一つの神学的基礎を与えたのである。

 つまり彼は「ローマからの余計な干渉がなくなれば、それぞれの地方教会の中に "普遍的な教会" が再現される」と主張するのです。しかし、どうしてそんな事が可能でしょう。もし彼の言う通りにすれば、司教区間、或いは少なくとも各国間で、信仰の考え方や典礼のやり方が色々違って来るでしょう。Aという司教区では信者にセルフ・インティンクションを許し、Bという司教区では許さない。Cという国では祭壇奉仕者に女性を用い、Dという国では用いない。各司教・各司教団によって、考え方・やり方がてんでバラバラ。そんな事態になるでしょう。そんなことで一体彼はどこに「普遍性」を見ると云うのでしょうか。
 しかし、実は、彼は物事がそのようなことになっても、全然困らないでしょう。顔色一つ変えないでしょう。彼はこう言うでしょう。

“

いや、そのような事で教会の普遍性は何ら損なわれません。何故なら、Aという教区の司教様は間違いなく「キリストの代理者」だし、Bという教区の司教様も間違いなく「キリストの代理者」です。彼らを司教の位に上げたのはキリストです。そして彼らは愛である聖霊によって一人一人導かれています。だから、彼らが「キリストの代理者」である事の上に立った地方教会が、どうして普遍性を失うなどということがあり得るでしょう。

”

 勿論、彼は私みたいな低知能ではありませんから、もっと難しく言うでしょうが、しかし結局そんなところなんじゃないですか?
 彼らのような人達は、そんな具合に、「多様性における一致」じゃないけれど、「多様性と普遍性の共存」をきっと言い張ります。

 さて、教会憲章を見てみます。
 教会憲章は確かにスキレベークスの考えを反映しているようです。

教会憲章

第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について

27 司教はキリストの代理者および使者として、自分たちにゆだねられたそれぞれの部分教会を助言、勧告、模範によって、なおまた権威と聖なる権能によって統治する。しかしかれらは、大きな者は小さな者となり、指導する者は仕える者となるべきこと(ルカ 22・26〜27参照)を念頭において、真理と聖性の中に自分の群を育てるためにのみ、この権能を行使する。司教が個人としてキリストの名において行使するこの権能の行使は、最終的には教会の最高権能によって指揮されるものであり、また教会もしくは信者の益が考慮されて一定の限界内に制限されるものであるが、司教にとって固有の、本来の直接な権能である。司教はこの権能の力によって、配下の者に対して、法を制定し、裁判を行ない、祭礼と使徒活動に関するすべての事がらを調整する聖なる権利と、主の前における義務とを持っている。

 司教には司教の任務、すなわち、自分たちの羊の群についての日々平常の配慮が完全にゆだねられている。かれらをローマ教皇の代理者とみなしてはならない。かれらは自分たちに固有の権能を行使し、またかれらが導く民にとっては真実に監督だからである。したがって、かれらの権能は最高普遍の権能によって抹殺されるのではなく、かえって反対に、それによって肯定され、強められ、保護されるのである。主キリストによって教会の中に制定された統治形態は、聖霊によって欠けることなく(unfailingly)守られているからである。

 教会憲章は、スキレベークスが言う通りに、司教達に「キリストの代理者」という呼び名を取り戻させながら、明らかに、教皇の最高権を牽制しています。それを実質「不要」なものにしようとしてます。

 あなたが文章の字面だけを読むのでなく、文章の裏に隠された筆者の心の動きも読みますように。

 司教様方が「ローマ教皇の代理者」でないのは勿論のことです。しかし教会憲章自身も認めるように「司教(…)の権能の行使は、最終的には教会の最高権能によって指揮されるもの」です。教会憲章は、22番(既出)とは違い、ここでは教皇様の権威にのみ「最高」という語を付しています、司教様方の権威には付していません。

 しかし、それでいてこの文章は、司教に対する教皇様の "指揮権" を、本当は認めたがっていません。それは「抹殺される(be destroyed)」という大袈裟な表現を使いながら、何かあった時には教皇様に「キリストが司教達に直接与えた彼らに固有の(propper)権能を破壊するつもりですか」と抵抗する用意を見せています。

 しかし、教会憲章が真に教皇様の「最高権能」を認めるならば、当然、時には教皇様が司教の方針に干渉することを認めなければなりません。そうでなければ、一体全体、現実的に言って、何のための「最高権能」ですか。お飾りですか。(「その通り!」by Freemasonry)
 教会憲章は、そのことを潔く認めず、その代りにトボケた顔してこのように言います。少しだけ "代弁" します。

主キリストによって教会の中に制定された統治形態は
聖霊によって全く確実に (unfailingly) 守られているので、
司教の権能は、教皇の最高権能によって

(a)

抑制されたり水をさされたりすることはあり得ず(その必要は生ぜず)、

(b)

肯定され、強められ、保護されることが出来るだけである。

 何という嫌らしい、すっトボケた、詐きの、丸め込みの言い方でしょうか! 一見「聖霊による保護の信頼性」を高く謳っているようでありながら、本心では司教(地方教会)の自立(自律)を図りたいのです。

 少し偉そうに言わさせて下さい。特に司教様方に言わさせて下さい。司教様、文章から筆者の真意を読み取るあなた様の能力に、日本の教会がかかっています。あなた様は教会憲章が事実このような嫌らしい「腹」を持っていることを読み取ることができますか? 元の文章をよく味わってみて下さい。

 結局それは、「教皇も最高、各司教も最高」と言った22番(既出)と同じなのです。

 従って、
「現代世界憲章」に続いて「教会憲章」も、ヘーリングのような、スキレベークスのような、彼らと同じ心性を持った人達の手によって書かれたものです。

第二バチカン公会議文書 各国語版入口(バチカン公式サイト)

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