2014.05.02

「全実体変化」を信じない司祭  国井健宏神父  Part 1

この記事をあまり簡単に「個人攻撃」などと思う勿れ。
以下のような傾向は今や私達の教会の上に広く及んでいる。

Q.洗礼を受けていない方にご聖体を渡してしまうことが、クリスマス等にありますが、どのようにお考えになりますか?

A.全ての秘跡は信仰を前提としていますので、信仰がなければ秘跡にはなりません。

未信者の方が善意の無知で頂いたとしても、恵みにはなるでしょうがだだのパンでしかありません。またそれを冒涜と考えることもないでしょう。

 私は彼の言葉を繰り返さずにはおれない。彼によれば、未信者が御ミサで悪意のない無知により御聖体を拝領してしまった場合、その御聖体は「ただのパンでしかない」のだそうである。且つ、何らかの仕方でその未信者さんにとって「恵みにはなる」のだそうである。

 こんなことを言っているのは、日本で有名な神学者・典礼学者、御受難会の国井健宏(くにい たけひろ)という神父様である。

Prifile 1  Prifile 2  Prifile 3

 典礼に関する本を何冊か出しておられる。amazon
 典礼委員会(司教協議会の)で長く働いておられたようである。上の Prifile 2 には「日本のカトリック教会の典礼委員会で新しい典礼のために働く」とある。

 今は引退しておられる。しかし、まだ若干、信徒対象の講座を持っておられるようだし、彼の本はこれからも売られ続けるだろう。

 私は彼の本を読んだことがない。これからも読むかどうか分からない。しかし、Web上で、「聖体奉仕者」なるものの養成の場での彼の講話を幾つか読むことができる。ここに二つ挙げる。

聖体の神学(1999年Shift JIS(上の Q & A はここからのもの)
共同体の奉仕する典礼(2003年

 この二つを読んでいて「おかしいな」と思ったところがあるので、よければ一緒に見て欲しい。(既にその最たるものを見たが)

 まずは1999年の「聖体の神学」から。
 あんまり長く引用すると怒られるから、私の観察に付き合うつもりがあれば、皆さん各自で、元の記事を読んで欲しい。

 「聖公会」とか「食事」(の連発)とか、私にとって "うっすらと不安" にさせる言葉が殆ど冒頭から続くが、"うっすら" を超えたものをまず初めに感じさせたのはこの部分である。

 わたしたちに影響を残しているのは中世以降の考え方で、まずパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わる変化、正確には実体変化に強調点をおきます。日本の教会では聖変化と呼びますが、この呼び方はヨーロッパでは使われずたぶん漢字圏だけで使われる呼び方です。この変化で何が大事かというと、ご聖体におけるキリストの現存、そこにおられるキリストは礼拝の対象である、そこで捧げられるミサは、カルワリオのいけにえ、犠牲の再現であるということが非常に強調されました。

 ただ、強調点がこれだけでは足りないのです。(…)

 彼はこのように「強調点がこれだけでは足りない」と続けるから、読む者に「彼は御聖体に於ける『全実体変化』という事を信じてはいるんだ」という印象を与える。
 しかしそれは、彼の一つの「誤魔化した」言い方である。

 彼は「中世以降の考え方では、実体変化に強調点をおきます」という言い方をするが、彼の内にある正直なところを代弁すれば、「実体変化という事強調されて来ました」ではなく、「実体変化という強調がありました」ということになる筈である。

 つまり、彼は従来言われている通りの「全実体変化」を信じていない筈である。それを確認していこう。
 (いや、本当は冒頭の彼の答えで明らかであるが。)

 その前に道草。「事実」と「強調」について。

青春ドラマ「おれは男だ!」

 ここに一人の男があったとする。彼が男であれば、「彼は男である」というのは〈事実〉である。且つ、彼はその〈事実〉を〈強調〉することが出来る。「おれは男だ!」
 確かに、世俗の普通の事柄に於いては、普通に〈事実〉と〈強調〉という二つの事を考えることができる。

 しかし、御聖体に於ける「全実体変化」ということについては、そう簡単にこの二つの事を考えることができない。
 何故なら、その「全実体変化」ということを従来教えられている通りのものと考えた場合、それはあまりに不思議な奇跡的なことであり、また私達の救われのために天主様がお計らい下さった事であるから、「その素晴らしさ尊さは "強調され過ぎる" ということがない」と言われなければならないからである。

 だから、それについて簡単に「それは今まで強調されて来ました」と言う人は、実際には、それを信じていないだろう。
 そして、国井神父様の場合は「だろう」と推量される必要はない。彼は、従来言われている通りの「全実体変化」を、ハッキリと信じていない。

全実体変化

 私も普段、「御聖体の内なる主のまことの現存(Real Presence)」という言い方をしている。しかし、この「まことの(Real)」というのも言葉であって、考えてみれば危ういものだ。「主は御聖体の内に、御ミサの間だけ居られて、御ミサが終ればもうそこには居られない」と考える人だって、御ミサ中の御聖体に関しては「主のまことの現存(Real Presence)」という言い方をするかも知れないのである。私達は「まことに」という言葉の外に「実体的に」という言葉も覚えなければならない。

 例えば、或る人(非カトリック者)はこう書いている。「ジャン・カルヴァンは、聖餐のパンとぶどう酒にキリストが霊的に現臨する(real presence)、と教えました(霊的現臨説)」参照

聖ピオ十世公教要理詳解より

598. 御聖体の秘跡とは何ですか。

御聖体とは、パンの全実体 (the whole substance) がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御神性が、真実に (truly)実体的に (substantially) 、実際に (really) まします秘跡で、私たちの霊的な糧となるものです。

603. 聖変化の前のホスチアは何ですか。

聖変化の前のホスチアは単なるパンです。

604. 聖変化のあとのホスチアは何ですか。

聖変化のあとのホスチアは、パンの外観のもとにまします主イエズス・キリストのまことの御体です。

609. パンとぷどう酒がイエズス・キリストの御体と御血に奇跡的に変化することを教会は何と呼びますか。

毎日祭壇で行なわれるこの奇跡的な変化 (the miraculous change) を教会は、全実体変化 (transubstantiation) と呼びます。

623. 御聖体を崇拝しなければなりませんか。

御聖体には、主イエズス・キリスト御自身が、真実に (truly) 、実体的に (substantially) 、実際に (really) ましますから、崇拝しなければなりません。

 パンは、その "全実体" がひとたび主イエズス・キリストの御体に聖変化(奇跡的に変化)せしめられた後は、外観・形色はそのままに、しかしその "全実体" は「主イエズス・キリストの御体」であるのであり、そして「あり続ける」のである。"全実体" に於いてそうであるという事は、信者にとっても未信者にとってもそうだという事である。未信者はそれを「わからない」というだけである。ところが国井神父様は「未信者の方が善意の無知で頂いたとしても、恵みにはなるでしょうが、だだのパンでしかありません」と言う。

トレント公会議「第13総会:聖体についての教令」より

1条 いとも聖なる御聖体の秘蹟において、真に、現実に、そして実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が御霊魂と御神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘蹟には、しるしまたは象徴あるいは効力においてのみある、と言う者は排斥される。

Canon 1. If anyone denies that in the sacrament of the most Holy Eucharist are contained truly, really and substantially the body and blood together with the soul and divinity of our Lord Jesus Christ, and consequently the whole Christ, but says that He is in it only as in a sign, or figure or force, let him be anathema.

2条 至聖なる御聖体の秘蹟において、パンとブドー酒の実体が私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とともに残ると言い、パンとブド一酒の形色だけを残し、パンの全実体が御体に、ブドー酒の全実体が御血に変わるかの素晴らしい特異な変化(この変化をカトリック教会は全実体変化という全く適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される。

Canon 2. If anyone says that in the sacred and, holy sacrament of the Eucharist the substance of the bread and wine remains conjointly with the body and blood of our Lord Jesus Christ, and denies that wonderful and singular change of the whole substance of the bread into the body and the whole substance of the wine into the blood, the appearances only of bread and wine remaining, which change the Catholic Church most aptly calls transubstantiation, let him be anathema.

 国井神父様はこう言う。

A.全ての秘跡は信仰を前提としていますので、信仰がなければ秘跡にはなりません。

 しかし、イエズス様はこう仰っただろうか?

“

取って食べなさい。これはわたしの体である。
しかし、これにはあくまで信仰が前提となる。
これを信ずる者にとっては、これはわたしの体だが、
信じない者にとっては、実際、ただのパンである。

”

 この例示に対して国井神父様はこう認めなければならない。
 「イエス様は福音書の中でそこまで細かく説明なさってはいませんが、しかし、彼は "事の真実" がそうであることを御存知でした」

 引き続き国井神父様の言葉を拾う。緑の枠で囲んだものが国井神父様の言葉である。

大事なことは、ものの変化、パンがキリストの体になり、ぶどう酒がキリストの血になることがミサの中心ではありません。それを前提としていますが、それ以上のことを祝います。

 ほんのちょっとした "言葉遣い" から人の心が分かるものである。彼は「ぶどう酒がキリストの血になることがミサの中心ではない」と言いながら、私達を「もっとそうあるべき在り方」の方へ案内しようとしている。しかし、彼がもし本当に「ぶどう酒がキリストの血になること」をまともに信じていたなら、仮にも「それは中心ではない」などという言い方は出来なかっただろう。

聖霊によってパンとぶどう酒がキリストの体と血となったとしても、それだけでは秘跡にならないのです。聖霊によってキリストの体と血となったその食事にわたしたちがあずかって、聖霊のおかげでキリストの体に結ばれていく、それが秘跡なのです。

 つまり、彼にとっては下の絵のようなことになるのである。

 彼にとって聖体顕示台の中にあるもの自体は「秘跡」ではないのである。

 しかも本当は、上の図も彼にとっては不足である。彼は言う、「私たちが変わらなかったら秘跡ではありません」参照 。つまり、たとえ心からの崇敬と感謝と謙遜を以て御聖体を礼拝しても、〈それだけでは足りない〉のである。「私達の〈行動〉が変わらなければ、〈生き方〉が変わらなければ」と、国井神父様の言葉は続くだろう。
 そのような方向指示には確かに一つの "積極性" がある。だから、皆「良い」と思う。しかし、違う。「秘跡」の定義(と言っていいだろう)にそんなものを混ぜるのは間違いだ。国井神父様の言っているのは信者の「精神」に関する事だ。「秘跡」を従来通りの意味にしておいて、その上に信者の心(精神)を励ませば済むことだ。必要もないのに私達の信仰にとって大事な言葉の意味を変えて、何か気の利いた事をしたつもりなのか、神学者。

 そしてまた、こうである。

 左を未信者とし、右を信者とする。
 両者の間に一つのものがある。二つのものがあるのではない。
 しかし、国井神父様は言う。「信者にとってはそれは御聖体だが、未信者にとってはそれはただのパンである」と。
 素朴な信者は面喰らい、「神父様は『未信者にはそれが御子のまことの御体だと分からない』という意味で仰っているのでは?」と思う。
 しかし、違うのである。神父様は「未信者にとっては、それは実際にも、現実にも、ただのパンである」と言っているのである。「恵みにはなるでしょうがだだのパンでしかありません」。

 解答はただ、彼が従来カトリックで言われているところの「全実体変化」というものを信じていないという事である。

 彼は「御聖体」というものを「もの的なもの」としては一切扱いたくない。「聖変化」というものを「もの的な変化」とは一切考えたくない。

 彼は「聖体」という言葉が「もの的なもの」をイメージさせるので気に入らない。

聖体ということばに大変な問題があるのです。聖体というとすぐ思い浮かぶイメージは、聖櫃においてあるホスチアですが(…)

ほかにいいことばがないので、聖体ということばを使い続けますが(…)

 彼は「ものの変化」と言いもし、「パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わる」参照と言いもするが、本当は、それは彼自身の言葉遣いではないのである。彼はそれらの言葉に拘わらず、トレント公会議や昔の公教要理が言う通りの意味で「ものの変化」を信じているわけではない。もし信じていたなら、「未信者が無知によって拝領してしまった場合、それはだだのパンでしかない」という言い方になる筈がないからである。彼は言葉をいい加減に使っている。曖昧に使っている。テキトーに "流して" いる。私に言わせれば、それはそれだけで一つの「不正行為」である。

「共同体の聖変化」

アウグスチヌスが言っているように、我々は普通何かを食べてそれぞれの自分の体に変えていき、同じものを食べても違った体になるが、キリストの体を頂くときにはそれを我々の体に変えるのではなく、我々がキリストの体に変えられるのです。それが、聖変化の目的なのです。共同体の聖変化です。

 もちろん、彼の言わんとするところは解る。
 しかし、「共同体の聖変化」という言い方は全くどうかしている。

 何故なら、「聖変化」とは「天主」の或る御事象を言い表わす言葉であるのに、彼はその言葉を「人間」に適用しているからである。
 (喩えだからいいというものではない)

 しかも、彼は言う、「共同体の聖変化」と。
 それは、凡人や罪人の集まりである私達の集団──"共同体"──が丸ごと「聖」となることを意味する。しかし、ちょっと考えてみただけでも分かるように、そんな事はまずまず──或いは全く──〈非現実的〉なことである。

 神学者者の方々。ものを自由に考えるのも結構だ。ものを曰く "根源的" に探求し、人類の未来ために "グッド・アイディア" をお出しになるのも結構だ。しかし、どうかあまり「夢想的」にならないで欲しい。いつも地に足がついた「言葉遣い」をして欲しい。

 もう一度嘆く。
 私達にとっては従来言われている「成聖を保つ」という事すらなかなか困難なのに、なんで「共同体」が「聖変化」するのか。

「大事でない」「中心ではない」

大事なのはパンとぶどう酒の変化ではなく

 また出た。さっきは「ぶどう酒がキリストの血になることがミサの中心ではない」と言い、今度は「大事でない」と言う。

 私は言葉尻を捉えていない。前後関係を見た上で言うのである。
 すなわち、もし国井神父様が──国井神父様でなくてもいい、誰であれカトリック信者が──従来通りの「聖変化」「全実体変化」ということをまともに信じていたなら、それは天主様が私達を救うためになさる正に奇跡的なことであるから、「賜物」中の「賜物」であるから、仮にでも、言葉の端にでも、「中心ではない」とか「大事でない」とか言えるものではない、と云うことである。
 彼は信じていないから言えるのである。

 そして、私に決定的な形で疑問を感じさせたのは、冒頭にも掲げた国井神父様のこの返答である。

Q.洗礼を受けていない方にご聖体を渡してしまうことが、クリスマス等にありますが、どのようにお考えになりますか?

A.全ての秘跡は信仰を前提としていますので、信仰がなければ秘跡にはなりません

未信者の方が善意の無知で頂いたとしても、恵みにはなるでしょうだだのパンでしかありません。またそれを冒涜と考えることもないでしょう。

 まず、水色の下線を引いた部分について、私はこう言いたい。

“

神父様、もしそうなら、御ミサで、御聖体拝領に入ろうとする時、いっそ「未信者の方は拝領できません」というアナウンスをやめて、未信者の人々に神の恵みに与らせてあげては如何ですか?

”
「いのちを与える聖体 ─ 聖体の秘跡を理解するために」(ドン・ボスコ社)

 次に、上で赤の下線を引いた部分である。
 このような口振りはこの神父様のよくするところのようである。以前、真命山のフランコ・ソットコルノラ神父様について書いた時に右の小冊子(2005年発行、現在絶版)のことに触れたが参照、国井神父様はそこでトップバッターとして短文を書いておられるのである。

 その中でこう書いておられる。

すべての秘跡は信仰の秘跡です。信仰がなかったら秘跡はありません。例えば、信仰のない人が水を注がれても洗礼にはなりませんし、ご聖体をいただいても、聖体拝領ではありません。秘跡は受ける人の信仰を前提としています。(…)秘跡とは神の働きが私たちの中に現れることなのです。

 今まで見て来たのと全く同じである。

 「信仰のない人が水を注がれても洗礼にはならない」
 「信仰のない人がご聖体をいただいても聖体拝領ではない」

 これは「理屈」に走った人の言い方である。
 つまり、信仰者として「感覚」がおかしいのである。

 秘跡という「賜物」を天主様に感謝する信者の言葉ではない。
 それに感謝する信者ならこう言うだろう。

“

信仰のない人が水を注がれても洗礼にはならない。それはそうである。しかし、それはただ「洗礼にはならない」というだけではない。そのような場合、誰に責任を求めるかは別として、天主様に申し訳ないことをしたのである。

”

 御聖体拝領についても同じである。
 しかし、彼は「それは聖体拝領ではない」と言って終わる。

「徹底」

 彼もあの言葉を出している──「徹底」

「これをわたしの記念として行いなさい」の記念はギリシャ語のアナムネーシスです。日本語では記念ということばは過去のことに使われますが、イエスがおっしゃったアナムネーシスは「このことをあなたがたの心に刻んで忘れるな」ということで、ただ昔のことを思い出しなさいということでなく、イエスがどのような生き方をなさり、どのような死に方をしてければならなかったか、どこまで仕えるものとなり、どこまで自分を徹底的に与え尽くされたか、このことを一時たりとも忘れてはならない、心に刻んでおけという意味です。それを教会は、現在のものとして祝うのです。わたしたちは2000年前のイエスを信じているのではなく、今貧しい人、差別されている人の中にいて苦しみを共にしているイエスを信じているのです。

 彼らは不思議に「徹底」という言葉が好きである。
彼は善の「徹底」を説く

 「彼ら」とは、所謂カトリックの「社会教説」に夢中になった(語弊があるなら「重んじる」)司祭達である。

 イエズス様は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽して、あなたの神である主を愛せよ」「隣人をあなた自身のように愛せよ」(マルコ 12:30-31)と教えておられる。また、黙示録3章16節では、天主様は私達に「生ぬるさ」を戒めておられる。これらは確かに「徹底」を教えているかも知れない。

 しかし、彼らがその強い言葉「徹底」を使って私達に指し示し、駆り立てる方向は、必ず「社会的」な方向なのである。

 彼らの内、おそらく誰も「毎日の祈りを怠ってはなりません」と言わない。「小罪に関してもおろそかにしてはいけません。毎日の良心の糺明を怠ってはなりません」と言わない。その他諸々「信仰的」(或いは「信心的」)な方向に関しては、彼らは「徹底」を言わないのである。

* * *

 前々回の冒頭で、「第二バチカン公会議の精神に親しんでいる聖職者は、教会の一つや二つ閉鎖されたぐらいでは嘆かないぐらいの堅固な『希望』を維持する」と書いたが、この国井健宏という神父様もそのような聖職者の一人だろう。(否、それどころか。)

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