2015.09.10

佐久間彪神父の「和室でのミサ」

佐久間彪[たけし]という神父様が居られました。昨年、帰天されました。絵本を物したりなどし、優しそうで、従って信徒に好かれそうな神父様です。しかしながら、最近帰天された神父様のことを言うのは心苦しくもありますが、ピエール・ジュネルの『ミサ  きのう  きょう』の中に、彼の驚くべき文章が載っています。巻末に「付録  三」として載せられた「和室でのミサ」です(改訂版からはおそらく削除されているでしょうが)。部分引用します。

 

和室でのミサ

 (1)

佐久間 彪

(…)

(3)  机のかわりに、白布を敷いたお盆を使うのも良いでしょう。ちょうど、お茶の盆だてのように。じかに、たたみの上に聖体器その他を置くのは、私は、どうかと思います。

驚くべき言葉です。何故なら、佐久間神父様がこう書いたということは即ち「たたみの上に聖体器等をじかに置いてもいいのではないか」という声が実際にあったということを意味するからです。

(5)  経験では、皆がいっぱいに座ったとき、立って動くのはむずかしく、また、わずらわしいことです。そこで、朗読・奉納をはじめ、何かを司祭席に運ぶ際には、手渡しで順送りにしたらよいでしょう。(…)

なにか嫌な予感がしませんか?

(7)  聖体拝領では、司祭が歩いてまわったり、拝領者が前に出てきたりすれば、混乱をきたすことでしょう。それで、例えば、司祭が最寄りの人に聖体をいれた器を「キリストのからだ」と唱えて渡し、その人は「アーメン」と答えて自分で聖体を手にとって頂き、器を次の人に「キリストのからだ」と唱えて渡し、以下一巡させて司祭のもとに戻すようにします。もちろん、この場合、器の受け渡しには、礼儀を(例えばおしいただく)守らなければなりません。この二点は特に留意すべきことだと考えます。ぶどう酒(御血)をまわす場合は(それが望ましいと思いますが)、司祭は聖体器を最初の人に渡した後に杯をその人の方に差しのべ、その人は聖体をとって杯のぶどう酒に浸して拝領し、以下同様に順に聖体器を次の人に渡してから杯を受けとり、司祭がしたように杯を同じ次の人の方に差しのべて浸し易いようにします。以下順にこの所作をくり返して行き、最後に司祭のもとに戻します。

(…)

 以上は、私のささやかな経験によるものです。もっと適当な方法があることでしょう。皆で考えていきましょう。

(東京教区司祭)

1  

「日本間で行うミサに関する指針」典礼委員会秘書局69/68号。〔土屋吉正『ミサその意味と歴史』あかし書房 昭和52年、252~255頁に転載。〕

ここにあるのは、拝領者間の聖体器の受け渡し、そして拝領者各自が自分の手で聖体器から御聖体を直接に取る方法です。佐久間神父様はこのようなことをなにか「いいこと」であると、或いは「許容可能」なことであるとお考えになったわけなのです。

ここで少し文書について整理しておきます。私は上の脚注1にある土屋神父の『ミサその意味と歴史』で確かめたのですが、佐久間神父様のこの「和室でのミサ」と典礼委員会秘書局の「日本間で行うミサに関する指針」は別物です。脚注1の意味は「佐久間神父のこの『和室でのミサ』は典礼委員会秘書局の『日本間で行うミサに関する指針』と関連する」というほどのことでしょう。

そして、典礼委員会秘書局の「日本間で行うミサに関する指針」には「聖体器は拝領者間で受け渡す。そして拝領者は各自聖体器から自分の手で御聖体を取る」というような内容は書かれていません。

しかしそれでも、佐久間神父様はその当時「典礼委員会の委員として、イエズス会の典礼学者土屋吉正神父などとともに」参照日本の典礼の改革のために働いておられたそうですから、その二つの文章は “近い関係” にあると見ていいでしょう。

佐久間神父様のこの文章は過去のものなので、人によっては「わざわざ過去のことを掘り返さなくても」と思うかも知れません。しかし私としては「こういうことは決して過去のもの、過ぎ去ったものではないだろう。いわば現在の神父様方の中にも “潜在” しているだろう」と思うので、これを取り上げたわけなのです。
(実際、最近も坂倉神父の例がありましたよね)

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