2015.10.05

ものを分かっていたのはルフェーブル大司教様である

注)ここに言う「もの」とは、所謂「現実」、特に「人間の現実」、「人間の実際のところ」、そして人間の「霊魂」というもの。

以前も取り上げたことのあるルフェーブル大司教様の御言葉

(…)ミサの文を理解すると言うことは、祈りの最終目的でもなければ、霊魂をして祈りの状態に置く、つまり、天主様との一致の状態に置く、唯一の手段でもないからです。
 もしミサの本文の意味に注意が向きすぎると、そのこと自体が[天主様との一致の]障害になってしまいうるのです。今、その他方で、心からの宗教だとか、もっと知的ではなく自発的な宗教のことをしきりに説教しているにもかかわらず、そのことがわからないとは驚くばかりです。
 天主様との一致は、むしろ、宗教的な天的な音楽や、典礼行為を取り巻く全体的な雰囲気や、その場所の敬虔さとか沈潜、建築学的な美しさ、キリスト共同体の熱意、ミサ司式者の高貴さや敬虔の念、象徴を使ってある装飾、香の香り、などによって得られるのです。霊魂が上に上がれば、そのための階段など何でもいいのです。誰でも、その中で典礼のすべての輝かしさをそのまま保っているようなベネディクト会の修道院を訪問し、それを見るだけでそのことを経験できるでしょう。

教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまった
カトリック信者の皆様へのお手紙 5
    

「霊魂が上に上がれば、そのための階段など何でもいい」

念の為に言わせて頂きたいのは、この「~など何でもいい」という言い方についてです。この言い方は、ひょっとしたらあなたの耳に、ちょっと〈乱暴〉にも聞こえるかも知れません(いわゆる “語感” 的に)。しかしルフェーブル大司教様は、ただ「何でもいい」と言っているのではなく、「霊魂を上に上げるものなら」と言っているのです。だから、私は問題ないと思います。

そして私は、大司教様のこの指摘は「問題ない」ばかりでなく、結局のところ「まったく正しい」と思います。

その「正しさ」はどういう種類のものかと云うと──

「人間」 というものをよくご存知である、
「人間の実際のところ」 をよくご存知である、
人間の 「霊魂」 についてよくご存知である、

──と言いたくなるような正しさです。

神父様方はこれを軽くお笑いになることが出来ません。神父様方は一生懸命「机」に向かっているかも知れません。ご自分の学究的な頭で考えているかも知れません。しかし、もし神父様方が「生きた実際の人間」のことをよく知らないならば、それ全体は、本当言えば、「お話にもならない」類のものです。

「むしろ、宗教的な天的な音楽や、典礼行為を取り巻く

全体的な雰囲気や、その場所の敬虔さとか…」

頭デッカチの神父様方はどうか知りませんが、人間って意外とこの「全体的な雰囲気」というものをパッと感受するものです。

前掲の動画を作っている時、次の動画に出会いました。

(もちろん頭から見てもらってもいいですが、下は 39:40 から再生されるようにしてあります)(ファチマの聖母の御像がありますね)

2012年5月5日、カリフォルニア州サクラメント司教区の「聖なる秘跡カテドラル」にて、サクラメント市の「最初の殉教者聖ステファノ教会」の司牧に当たっている聖ペトロ会によって執り行われた荘厳ミサ、及び「5月の戴冠式」(聖母への)

ミサは「最初の殉教者聖ステファノ教会」の聖歌隊と少年聖歌隊による “天使的な美” によって彩られた。一行はこの後、サクラメントの市街に出て、3マイル(約4.8km)にわたり「5月の行列」(聖母のための)をした。

YouTube

私は思います、この御ミサに流れている聖歌はなんと美しいのだろうと。「天使的な美(angelic beauty)」という言い方は大袈裟ではありません。ところで、私は「日本人」であり、且つ、これらの聖歌の言語を理解しないのです。(不勉強なためもあって)

そうであるにも拘わらず、私は、もし自分がこの御ミサに与っていたら、どんなに感動するだろうと思わずにいられません。その場に居る私にとっては「言語の違い」「言語が分かるかどうか」は問題にならないに違いありません。

ルフェーブル大司教様が仰っていることは全くその通りだと思います。人間の霊魂は「非言語的」なものによっても大きく影響されるということです。音楽が好きな人はこれをよく理解するでしょう。

インテリの意

外と簡単な頭

困る!

「能動的」vs.「受動的」についても一言。

第二バチカン公会議の精神に教えられた聖職者たちは「信徒の行動的参加、積極参加」ということばかり言います。しかし、私たちが例えば「美」というものに気づき始める時、そしてそれに対する理解を多少なりと深める時、私たちは一定の長い期間、「受動的」な過程を通るものです。受動的な過程は「必要」と云うより「必須」のものです。だから、「受動は消極的だ。だから、それはイケナイ」などと簡単に考えているならば、その見方を反省してみた方がいいのです。
もともと「宗教」というものは、例えば「沈潜」することが最高の「積極行動」だったりするような世界です。このことを、神父様方も本当はご存知の筈ではありませんか。

“公会議の精神” に教えられた聖職者たちは、ルフェーブル大司教様の上の言葉の中に、自分たちにとって「違和感」であるものを幾つか見出すでしょう。

その一つは「天主様との一致」という言葉です。
上のルフェーブル大司教様の言葉には二回、その言葉が出てきます。しかし「天主様との一致」よりも圧倒的に「共同体の交わりと一致」を言うことの多い司祭たち(例: 勝谷司教様にとっては、その言葉はピンと来ません。来る筈がありません。

「天主様との一致」「天的」「霊魂が上に上がる」「階段」
これらがルフェーブル大司教様の言葉です。いわば、天国への「上方指向」の言葉です。しかし、このようなイメージは、「信仰は私たちの日常と離れたものであってはならない」というような言い回しに簡単に頷いてしまっている司祭たちの中では、既に大方、滅んでいます。

聖ウルスラ修道会の創立者、聖アンジェラ・メリチ
(St. Angela Merici、1474年頃 - 1540年)の幻視

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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