(前回の続き)
後回しにしておいた前半部分。
今日の福音は、イエスによって救いの完成が始まる新しい時代の到来を予告する意味があります。イエスは、過越祭が近づいた神殿で、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われました。
「商売の家にしてはならない」とは、これからはもう、神殿で犠牲を捧げる必要はなくなる。イエスが十字架で捧げる犠牲が永遠の奉献となるという意味です。
カトリック司祭たるもの、「本日の福音朗読箇所」が聖ヨハネ福音書の或る箇所だからと云って、その箇所だけを念頭に置くのでは足りない。聖書の他の場所にその箇所と密接に関連する箇所があるならば、それを思い出さなければならない。特に今回の場合は「密接に関連する」という言い方でも足りない。何故なら、聖ヨハネ福音書のその箇所と他の三つの福音書の箇所は「同じ場面」を描いたものだからだ。カトリック信者なら、「思い出さなければならない」と言われなくても、自然に思い出す筈だ。
そういう所から言うと、大塚司教様の「読み」は全くおかしなものだ。何故なら、その場面はイエズス様の激しい「御怒り」を表わしたものだが、彼の目にはそれは全く入っていないようだからだ。
*
もっとも、イエズス様のその激しい御振舞いを「天主の宗教の大転換を地上に強く宣言するためのもの」と見る向きは、あることはあるようだ。
例えば、全体としてはまったく感心しない、ズッコケさせるような文章だが、兎も角、長崎教区の中田輝次神父はこう書いている。
新しい神殿、新たな時代の幕開け
イエスはこれらの人々を追い出し、強い口調で立ちはだかります。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)神殿で売り買いをすることがイエスの神経に触ったのでしょうか。
それだけでは、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し(た)」(2・15)行動が説明できません。イエスが腹立ち紛れにこのようなことをするとは考えられないからです。二度とこのようなことは行われない。今後、従来の礼拝に立ち戻ることは決してない。その決意の表れが見て取れます。
大塚司教様と通ずるところがある。大塚司教様も一人ではないというわけだ。
また、そこに「預言の成就」を見る向きもある。
鍛冶ケ谷教会(横浜教区)の主任司祭(おそらくはハイメ・カスタニエダ神父)は、若干拙い日本語で、次のように書いている。
このイエスの行為は、以前には何回も行われた「預言的な行為」であったことも確かです。イザヤ(20・2)は、エジプトに追放された人の悲惨な状況をまざまざと思い出させるために、裸、はだしで三年間歩いたことや、エレミヤ(27・2)は、エルサレムの破壊を予知したために首に軛(くびき)をつけたことなどがあるように、イエスにもどんな「主の日」が来るかを預言していたのではないのでしょうか。なぜかと言うとゼカリヤ書(14・1と21)に、こう書いています。「主の日が来る。… その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」と。
しかし、私に言わせれば、このような人たちは或る種の「感覚不全」である。彼らはイエズス様の「御怒り」の前でまごついている。と云うのは、いつもの伝で、彼らはまず「神は愛ばかり」であるかのように思っている(思いたい)からである。彼らにとっては「神」と「怒り」という取り合わせがどうにもしっくり来ない。それで、私たちがこの逸話から汲むべき「主題」、一番大事なことから、何気に「逸れる」のである。
彼らは彼らなりに、物事と物事の間の「関連」を探っている。けれども、不思議にも、最も初めにすべき「関連の拾い」をしていない。すなわち、聖ヨハネ福音書が描いているその場面と全く同じ場面を描いている他の福音書に当たっていない。それらに当たれば、この物語の「主題」が否応なしに私たちに迫って来るのに。
その三福音書は、異口同音にこう言っている。
「わたしの家は祈りの家でなければならない」と書かれているのに、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまった。
「強盗の巣」というまでの言葉がある。
これは全くの「悪」を指す言葉である。
そして「祈りの家」と「強盗の巣」という対比がある。
あまりにも鮮やかな、あまりにも強烈な対比である。
どうしてこれを見逃すことができるのか?
神殿悪化、そして神の怒り
「わたしの家は祈りの家でなければならない」と書かれているのに、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまった。
これは「神殿悪化」の物語である。分かりやすく言えば──
(私は小学生に話しているのか?)
主の神殿は、昔はこれほどまでではなかった。
今、それは酷い、酷い状態だ。それは悪くなった。
お前たちがこんなにしてしまった。
──という話である。
「旧約の神殿」と云えども常に「腐敗」していたのではないのは明らかである。常に「強盗の巣」であったわけではい。何故なら、常にそうだったなら、それは初めから天主の神殿ではないのだから。比較的「聖」である時代もあったのだ。それが、イエズス様の時代には極めて悪いものになっていた。だから、イエズス様はそれに怒りを発せられたのだ。
だから、この物語の主題は必ずしも「旧約」と「新約」の別に関わらない。むしろ「旧約」も「新約」もない、その二つを貫いて天主様が常に御関心をお持ちであるところの、ただ人間の「善悪」であったり、人間の霊魂の「清濁」であったりするところものである。あまりに芸のない受け取り方のように思えて気に入らないかも知れないが、芸がなくて結構、この物語を素朴に読むなら、どうしてもそうなるではないか。
だから、英語の聖書や絵画で、その場面が大抵「Jesus Cleanses the Temple」と呼ばれているのは正しいことだ。それがどうしても「標準的」な読み方、そして「第一」の読み方なのだ。
あなた方は「悪」の存在にピンと来ない
(あの浜崎神父のように)
こうじ神父に言いたい。
あなたは何故、「神殿で売り買いをすることがイエスの神経に触ったのでしょうか」だとか、「イエスが腹立ち紛れにこのようなことをするとは考えられない」だとか、言うのか。(浅過ぎないか、感覚が)
あなたはまず、聖ヨハネ福音書のその場面と全く同じ場面を描いている他の福音書に当たって、「そこには単に “商い” という言葉では言い尽くせない何かがあったのではないか」ということぐらいは想像力を働かして思うべきではないか。何故なら、言ったように、そこには「強盗の巣」というまでの言葉があるからである。*
*「これは商人たちと神殿の祭司長、祭司との癒着があったからです」と言っている場崎神父の方が、まだマシだ。
(あくまで、この点に限り)
また、当然、「へびよ、まむしの子孫よ」(聖マタイ 23:33)とか「悪魔である父から出た者たち」(聖ヨハネ 8:44)とかの言葉も思い出すべきだ。「強盗の巣」という言葉も含めて、これらの言葉は他者に投げつける言葉としては異常な(=常ならぬ)、最強度の「糾弾」の言葉だ。私たちは「何故これほどまでの言葉を?」と、いかにも腑に落ちぬといったふうにノホホン頭を傾げるのでなく、偉そうに言わせて頂けば、少しは <想像力を論理的に> 働かせなければならない。すなわち、「そこには、これほどの糾弾を受けなければならなかったほどの特別に酷い悪、文字通り “真黒な悪” が、実際、あったのではないか?」と。これ位のことは思わなければならない。(そうでければ、あなた方は、他者に対してそれら全ての言葉を投げつけたイエズス様を “人権侵害” か何かの廉[かど]で訴えるしかないだろう。市民的な常識と共通善の世界にしか住んでいないかのようになっているあなた方は。)
あなた方は
イエズス様は “柔和一方” の御方
だと思っている
実際、それらは「糾弾」の言葉だ。私たちのノホホンな日常感覚から見ればちょっと “異常” な感じがするほどの、極めて激しい「糾弾」の言葉だ。どこからどう見ても、それ以外のものではない。──しかし、あなた方は “戸惑う” のか? 「悪の存在にピンと来ない」のに加えて、一人の人格の中に「柔和・謙遜」と「正義」が同居してはならないかのように思うのか? 柔和なら柔和一方、正義なら正義一方でなければ分からない、理解に苦しむと言うのか? そんな不器用なことを言うな。人でも神でも、「人格」って、そう単純なものではないだろう。もし一つの性質しか見たくないと云うなら、神や人ではなく、木偶でも眺めているしかない。
こうじ神父。「腹立ち紛れ」などという言葉を出すこと自体が、あなたが「神」と「怒り」、或いは「神」と「感情」という取り合わせに納得し切れていない表われではないか? しかし、あなたは福音書や黙示録を読んだことがないのか? そこに「神の怒り」はないのか? あなたもまた、あの放言神父から「注意して福音を読んでみれば」とアドバイスされなければならない一人なのか?
そうである、人は聖書を「夢見がちに」ではなく「まともに」読めば、福音書に於いてさえ、神には「正義」が存在し、存在し続けるだろうことが分かる。御父の怒りは、イエズス様の大犠牲によって非常になだめられたけれども、実は旧約と新約の別なく、神の正当な属性として、私たちの新約の世界の根底にも常に「ある」「横たわっている」と分かる。そして御父がそうであれば、その “子” であるイエズス様も、どんなにお優しくても、その要素を「全く捨て去り」給うことはありそうもないということぐらい、想像できる。そうではないのか?
*
途中から大塚司教様にでなく「こうじ神父」に向けて書いた形になったが、私は気にしなかった。何故なら、多くの司祭が同じ弱点を持っているからだ。
兎に角、どうして今の司祭たちは、福音書さえこんなに読めないのか?
このへんでやめておく。
注)私の自惚れ的筆致のことは自分で承知している。自分で蒔いた種は自分で刈るつもりだ。
フランシスコ会訳。強調は私。
聖ヨハネ 2 神殿から商人を追い出す 13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエズスはエルサレムにお上りになった。14 イエズスは神殿の境内で、牛、羊、鳩を売る者や両替屋が座っているのを見て、15 縄で鞭を作り、牛や羊をことごとく境内から追い出し、両替屋の金をまき散らし、その台をひっくり返し、16 鳩を売る者たちに仰せになった。「こんな物はここから運び出せ。わたしの父の家を商いの家にするな」。17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意が、わたしを食い尽くす」(6) と書き記されているのを思い出した。 (6)詩6910〔9〕参照。 |
聖マタイ 21 神殿は祈りの家 12 イエズスは神殿の境内にお入りになった。そしてそこで物を売る人や買う人を皆追い出し、両替人の台や、鳩を売っている人たちの腰掛を倒して、13「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書き記されているのに、おまえたちはそれを強盗の巣にしている」と仰せになった。 |
聖マルコ 11 神殿は祈りの家 15 一行はエルサレムに着いた。イエズスは神殿の境内に入り、そこで売買している人々を追い出し始め、両替人の机や、鳩を売っている人たちの腰掛を倒し、16 また境内を通って品物を持ち運ぶことをだれにも許さず、17 人々に教えて仰せになった。「『わたしの家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれる』と書き記されているではないか。ところが、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまった」。 |
聖ルカ 19 神殿は祈りの家 45 それからイエズスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始め、46 彼らに、「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書かれているのに、おまえたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と仰せになった。 |
次に、上の聖ヨハネの注で引かれていた詩篇から少し引用しておこう。バルバロ訳。
詩篇 6
8 |
あなたのために、私は侮辱にたえ、 恥辱に私の顔はおおわれた。 |
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9 |
私は、兄弟たちには、他人となり、 私の母の子らには、見知らぬ人となった。 |
10 |
それは、あなたの家への熱心が、私をくいつくし、 あなたをののしる者の冒涜が、私の上におちたからだった。 |
11 |
私が断食して、魂をくるしめれば、 それが、私への侮辱の種となった。 |
12 |
私が服を袋にかえれば、 それが、かれらの揶揄のもととなった。 |
13 |
私は、門にすわる者たちの話の種になり、 酒呑みの唄となった。 |
14 |
しかし、主よ、私は、あなたに祈る、 時を得たら、 神よ、あなたの深い愛によって、 あなたの真実の救いによって、私に答えられよ。 |
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」