2013.02.26

浜崎神父様は「文字通りには信じない司祭」のお一人か

十字架のそばから逃げてしまった男性たちは、イエスを裏切ったことからの罪悪感を払拭するために、イエスの死は民を救うための犠牲の死と意味付けたのではないでしょうか。すなわち、後ろめたい気持ちを反転させて、命を投げ出すことを礼賛し模範として描くようになったと想像できるのです。それに対して十字架のそばに立ち続けた女性たちは(…)その死を他者のための身代わりとして意味付けし、称賛するような理由はなかったのです。むしろイエスを死に追いやったものに対してきちんと怒りをもつことができたのではないでしょうか。
上は、ご自分の教会に同性愛の完全肯定論者を招き入れ、「セクシャル・マイノリティー」についての講演をさせた主任司祭、浜崎眞実神父様がお書きになった文章の一節である。
注)以下の前置きの部分、及び一番最後の言葉は、私の不確かな臆測から出たものです(詳細)。しかし、残します。(2013/3/22記)
少々前置きするが、今回、引用と言える引用はこれだけである。これを「無許可の引用」として再び私のサイトを潰そうとするのも結構だ。しかし、そうする前に少し考えてみて欲しい。もしあなたが、同性愛の完全肯定論者を自らの中に招き入れるカトリック小教区教会、上のような文章を書く主任司祭、そして上のような文章を堂々と掲載するカトリック小教区教会のHP、それら全てを放置しながら、それらのことの非を指摘する信者のHPのみを潰そうとするなら、それは大いなる “片手落ち” と云うものではないだろうか。
あなたは「お前のサイトは聖職者の “名誉” を著しく傷つけるものだ」と言うかも知れない。しかし、“名誉” とはどちらかと云うと対社会的、対世間的なものである。それに対して、例えば「同性愛、問題なし」とする論者を自らの教会に招き入れる主任司祭の問題は、対天主的、対神的なものである。私達の信仰にとってより本質的な問題である。
信仰者であるに拘らず、その辺の理(ことわり)を少しも弁えず、殆ど世間人と同様な心性を以て、ただ自分の愛しているものを傷つけるから憎い怪しからぬとばかりに弾圧するならば、如何に口先では神だ教会だと言おうと、あなたは理性の人であるよりも感情の人である。(感情にも高いものと低いものがあるが、そのような感情は世間にも転がっている。)
そういう人に限って「批判」と「誹謗中傷」を分けぬ。常に「誹謗中傷」と言う。しかし「誹謗中傷」とは本来、“事実無根” のことを言ったり、少なくとも “事実の歪曲” を含んでいたりするもののことを云うのではないか?
しかし、私は常に基本的に「事実」に基づいて書いているつもりである。私の “書き方” について言えば、それは、純白の青年みたような心を持った人達の気持ちを刺戟することもあるだろう。それは認める。けれど、内容は?
私は「事実」に基づいて書いているつもりである。
今回も「事実」に基づいて書くのである。
始める。
相模原教会の件で、以前、2ch の人の言葉を紹介したが、それをもう少し長く引用すれば、次のようになる。
教会には、同性愛であることに悩んで、その傾向を何とかしたいと思っている若者もいるのに、 カトリック相模原教会の主任と横浜教区長は、事の重大性がわかっていない。
事の重大性、である。
しかし、事の重大性は、「同性愛であることに悩んで、その傾向を何とかしたいと思っている若者」に対する影響に於いてばかり在るのではなく、「聖書に書かれている事や信仰箇条を文字通りには信じていない聖職者達」に於いても在る。勿論だ。そんな聖職者達が居たら大変だ。
ところがである、今のカトリック教会はビートルズである。All You Need is Love である。Truth の問題など必要ないかのように振る舞っている。それで、そのような司祭達が存在することを知っていても、決して「大変」ではないかのように、それらを野放しにしている。
そのような司祭達は存在する。
その代表格は、前回紹介したホアン・マシア神父様である。
また勿論、釜ヶ崎の本田哲郎神父様も有名だ。(参照 , ,
そして私は、ご自分の教会であれほどの事をしている相模原教会の浜崎神父様も、実はそれらの神父様方のお一人ではないか、と邪推する。
しかし、それが本当に “邪推” と云えるものかどうかを、皆さんの目と心で確かめてみて欲しい。ここに浜崎神父様の一つの文章を紹介する。カトリック草薙教会(静岡、横浜司教区)の公式HPが堂々と掲げているものである。
本来なら全文を転載したいところだが、それをやるとまた彼らに行動の機会を与えそうだし、また一般にも「無許可の全文転載は如何なものか」と考える向きも多かろうから、引用はごく一部のみとし、全文を読むことに関しては各自にお任せする。草薙教会のサイトでお読み下さい。
冒頭で引用した部分以外として、表題を引用する。
今月のメッセージ(2009年9月)
犠牲の連鎖を断つためのイエスの死
− 我慢やあきらめと他者を十字架に磔にすることからの解放 −
カトリック相模原教会  浜崎眞実神父
私はこの表題を見ただけで首をひねる。
犠牲の連鎖を断つための...イエスの死
面妖である。
カトリック信者として少しもピンと来ない。
「犠牲の連鎖を断つ」のは良しとしよう。しかし、彼はこの文章の中で「犠牲の連鎖を断つこと」と「イエスの死」を関連付けているのだが、その関連付けの仕方は「妥当性」を持つか?
(ここに云う「妥当性」とは、勿論、教会的に見てのことである。)
そこに妥当性がない時、何と言われるか。
──「恣意的」と言われる。
恣意的な関連付け
繰り返しになるが、この神父様のお考えのおかしさは、この文章の表題 ─「犠牲の連鎖を断つためのイエスの死」─ の上に既にして表われている。
「犠牲の連鎖を断つ」ことは「善い事」としよう。そして、私達にとって「イエスの死」は何かと云えば、「善い以上のもの」である。
今の「善い以上のもの」という言い方について説明する必要がまさかあるとは思わないが、でも念の為に説明すれば・・・私達の人間的・地上的な目だけから見れば、一人の人があのような苦しみを受けて亡くなったことを「良かった」とはとても言えないようなところがある(その悲惨さを思えば)。しかしイエズス様は人であられたばかりではなく第一に天主様であられる。そして、彼のあの尊い御犠牲あってこそ全人類のために「救霊の道」が神秘的に開かれた(浜崎神父様はこれを信じておられるか?)のである。だから、「イエスの死」は私達にとっては「善い以上のもの」である。
で、「善い事」と「善い以上のもの」が合わさっているのだから「犠牲の連鎖を断つためのイエスの死」という表題は善いものかと言えば、違う。
所謂「関連付け」が間違っていれば、それは悪い。
何故ならば、喩えで言えば、家だって、アッチの柱とコッチの梁との関連付けを間違えば、全体が倒壊するからである。家として成り立たない。
この神父様はその文章に於いて「イエスの死」について教会に倣っていない。この神父様にとって先ず最初にあるものは、「人権問題」「差別問題」等に対する御自分の関心、実感、そして考え等の方である。
そして彼は、それらに「イエスの死」を関連付ける。しかし、その関連付けの仕方は余りに自由で、全くもって “取って付けた” ようである。つまり、そこには教会の信仰による裏付けがなく、妥当性がなく、余りにも勝手気儘、恣意的である。
それ故、その文章は「ちょいとキリスト教風味の人権思想」の文章と云うだけである。「イエスの死」を自由気儘に “くっつけた” だけの。
その書き手は或いは「人権活動家」としては良い人で、彼の存在を有り難がる人も居るかも知れない。私はそれに文句を付けるつもりはない。
しかし、それでも、「これは “カトリック司祭” の文章ではあり得ない」と言わなければならない。
全く地上的
もう一つの特徴は、この神父様の御意識が徹頭徹尾 “地べたを這って” いることである。その思想、その感覚、その信仰観が全く「地上的」である。彼は実質「ヒューマニスティックな唯物論者」の如きものである。
キリスト者は普通(と私は信ずる)、二種類の目を持っているものである。「肉の目」と「霊の目」である。地上の事柄を普通に見る肉の目と、霊的な事柄と云うのが在ることを知り、それを見ようとする目である。
そして、それに応じて、例えば「犠牲」と聞いた場合、キリスト者であれば殆ど自動的に(と私は信ずる)、二種類のそれを想起するものである。「神秘的な犠牲(贖いの神秘/霊的な犠牲の献げ)」と「地上的な犠牲(心理的/身体的/社会的)」である。しかし、この神父様の中にはただ「犠牲」=「命や権利や尊厳を放棄すること/放棄させられること」と云う等式が一本あるばかりで、上記二つの別がまるで無い。
事は「犠牲」に関してばかりではない。「聖書」全体に関して同じことが言える。その書物は我らの「霊の目」を以て読まれることを必要としている。だから、そんなにべったりと地上に貼り付いたような目をして居て、どうしてそれを読めるのか。
カイアファの...「論理」?
少し脇道に入る。
脇道は本道ではないが、本道と何処かで繋がっている。
キリスト者にとって「聖書」とは何なのか。色んな時代の色んな人達の色んな「考え方」を伝えた書物なのか。もちろんその側面はあるだろう。しかしそれが中心的なことなのか。
違う。我らにとって「聖書」とは、第一に “霊的” な書物である。啓示宗教の教典だから “霊的” に決まっている。そして “善悪の戦い” に関する書物である。合わせて “善霊と悪霊の戦い” に関する書物である。
カイアファのその言葉──「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」──が、正にそれである。それは “善悪の戦い” の真っ只中の言葉なのである。何故なら、それは救い主に対する悪人輩の企みがいよいよ高まりつつある時、腹に一物持った者の口から出た言葉だからである。上面を「善」で飾りつつ、あるいは「常識」の一つを装いつつ、救い主を陥れよう、救い主に対する人々の決定を悪い方向へ持ち込もうとする者の言葉だからである。
しかし浜崎神父様と浜崎神父様が参加した研修会の講師にとっては、そうではないのである。彼らにとってはカイアファのその言葉は「悪人の言葉」とは限らない、「悪意」からのものとは限らないである。むしろ「人間にありがちな一つの考え方」「常識的な発想の一つ」であり得るものなのである。(あなたはこの事を <十字架からの呼びかけ> の段落でも確かめることができる。浜崎神父様は書いている──「みんなのためには誰かが犠牲になるのは仕方がないという考えで社会の安定を保とうとする『常識』」)──だからこそ彼らは、カイアファのその言葉をノホホンと一つの「論理」として “机” の上に置いて眺めたりすることができるのである。
しかし浜崎神父様とその研修会の講師、またその他決して少なくないだろう神父様方にとっては、私が上に書いたような受け取り方は「少々大袈裟で子供っぽいもの」であるのだろう。何故なら、彼らにとって「成熟した大人の証」とは「人間の多面性・複雑さに注がれる目を持っていること」であって、余りハッキリと「この人は悪人、あの人は善人」と分けるようなことは、むしろ「子供の証」と云うわけであろうから。それで、彼らにとってはカイアファのその言葉も、「その立場(社会の指導的な立場)にある人に於いては無理もない自然な発想であるかも知れない」と云うことになるのであろう。
つまり彼らには、イエズス様がその者らを指して「まむしの末」とまでお呼びになった理由が分らない。ピンと来ない。
脇道を引き返し、本道に戻る。
イエズス様は単に「人命尊重」を教えたのか?
<どんな一人も犠牲になってはならない> の段落を読んで、私はこの疑問を持つのである。つまり、浜崎神父様はそう思っているのではないかと。
武装した悪人達がユダの案内でイエズス様の所に押し寄せた時、イエズス様は確かに無抵抗に御自分を差し出されたのである。そしてそれは確かに「ユダが連れてきた一群とイエスとその弟子たちとの間に衝突が起こり殺戮につながるのを避けるため」のようでもあった。
しかし、それにしても、イエズス様はその御行動によって、単に「人命尊重」を、「どんな一人も犠牲になってはならない」と云う事を教えておられるのか? 浜崎神父様はそのようにお考えのようだが。
浜崎神父様が描いておられるのは、おそらくこうである。
一方には、社会の中に、「常識的」であり得る発想の一つとして、「みんなのためには誰かが犠牲になるのは仕方がない。それによって社会の安定を保とう」とする考え方がある。
他方には、イエズス様がその御行動で私達に教えておられるだろう事がある。結果的にはイエズス様は御自分お一人を「犠牲」のような形で差し出すことにはなったけれど、それは「人々の中に怪我人や死者を出したくない」と思われてのことだったから、要するに「人命尊重」のお考えから出た御行動である。イエズス様はそのように、人間一人一人の生命を尊いとされる。それ故、「社会の安定のためには、時には、みんなのために誰かが犠牲になることも致し方ない」などという発想とは正反対である。
だから、“カイアファの論理” とその時のイエズス様の御行動との間に、私達は <考えの衝突> を見ることができる。
浜崎神父様の考えておられることを何とか読み取ろうとして、私は上のようにまとめるわけだが、正直言って、私は書いていて具合が悪くなる。観察性に於いても、論理性に於いても、ここには「面妖さ」しかない。「ここに <考えの衝突> がある」などと云うのは・・・どうしようもない。
疑惑を喚起するに充分な口吻
<女性たちの視座> の段落に、浜崎神父様のこの文章に於ける最大の問題がある。彼はこう書いている。
十字架のそばから逃げてしまった男性たちは、イエスを裏切ったことからの罪悪感を払拭するために、イエスの死は民を救うための犠牲の死と意味付けたのではないでしょうか。すなわち、後ろめたい気持ちを反転させて、命を投げ出すことを礼賛し模範として描くようになったと想像できるのです。それに対して十字架のそばに立ち続けた女性たちは(…)その死を他者のための身代わりとして意味付けし、称賛するような理由はなかったのです。むしろイエスを死に追いやったものに対してきちんと怒りをもつことができたのではないでしょうか。
あなたは、この神父様の上の言葉を何と見るだろう。
いや、何と見るもないだろう。もう一度お読み下さい。
この神父様は明らかに、御自分のお腹の中に「従来の聖書理解」と云う言葉を持っている。そして、それは恐ろしい種類のものである。
すなわち、この神父様は「贖いの神秘」を信じていない可能性がある。
「御子イエズスは全人類の救霊の為に己が生命を犠牲に供した(御父に献げた)」と云うキリスト教の通常の文脈(理解)を <男の弟子達の創作> であると思っているフシがある。男の弟子達が己が罪悪感を払拭するためにそのような “物語” を “描いた” のだ、と考えているフシがある。
(しかし、フシ?  可能性?  否、「明らか」ではないか?──もし必要なら、あなたは全文を読み、 “前後関係” というものによってこの神父様の発言を擁護できるものであるかどうかを、篤と検討することができる。)
上の段落中の「十字架のそばに立ち続けた女性たち」は浜崎神父様自身である。この神父様にとっては、イエズス・キリストの十字架上の死は「他者のための身代わりとして意味付けし、称賛するような理由」を持たない。イエズス・キリストは御父の御旨に沿って己が御生命を犠牲に献げたのではなく、殆どただ人間社会の中で人間によって「死に追いやられた」と云うに近い、だからそれには「怒り」を向けるべき、と言うのである。
「そうなのですか? 神父様、あなたはそのようなお考えなのですか?」と彼に問いなさい。彼は言を左右にするだろう。曖昧なことを言うだろう。しかし、彼の上の言葉は残るのである。昔なら審問の対象だろう。
(今は、教会はこういうのを “愛” を以て “放置” する。無責任である。)
『カトリック教会のカテキズム』より
599 イエスの非業の死は、さまざまな事情が不幸に絡み合った偶然の結果ではありません。それは神の計画の神秘に属します。聖霊降臨の日、聖ペトロが初めての説教で、「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で」(使徒言行録2・23)このかたを彼らに引き渡されたと、エルサレムのユダヤ人に説明しているとおりです。
浜崎神父様、あなたは上の赤下線の部分を信じていますか? まともに
それとも、これは逃げ出した男の弟子達の「言い訳」だと言いますか?
キリスト教全体がその「言い訳」の上に成り立っていると言いますか?
<考えの衝突> があるとすれば、それはあなたの自由気儘な考え方と教会の教えとの間に於いてこそなのではないですか?
結  論
キリスト教の根底・根幹に関わるような事に関して、上のような口振りの浜崎神父様である。であるならば、私達はこう問おう。
この神父様は、同性愛の「行為」さえ罪と考えていないのではないか?
だからこそ、ご自分の教会に同性愛の完全肯定論者を招き入れて、そこで「講演」をさせるなどと云うことができるのではないか?
Pope suggests it's best to be 'honest' and leave the Church if you don't believe: HLI priest
《ページ移動のためのリンクはにあります》
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ