2015.11.26

昔の信者に於いては「他に選択肢がない」ということが
「保護の柵」になっていた

である調。

選択能力の問題

前々回の私の「彼らは『できれば御ミサで踊りたいな』と考えたことがあっただろうか?」等の言葉に対して次のようにつぶやいた人もあったかも知れない。
「彼らはそうは考えていなかったでしょ。だって、その頃にはそんな選択肢なんかなかったのだもの。そんなこと当り前でしょ」
カトリック信者の何割かは、必ずこのような単純な反応を返すだろう。

しかし私は、一応「その通りです」と答えよう。
そして、こう続けよう。

その「他に選択肢がない」ということが、「御ミサ」と云えばそれ一つ切りしかなかったということが、まさに、彼らにとって「保護の柵」になっていた。

何故か。何故なら、私たちは、私たちの目の前に複数の《選択肢》が並べられたからと云って、そこから正しいものを選ぶことができるとは限らないからだ。いわゆる《選択能力》の問題。

「能力の問題」などと言うと、確かにちょっと嫌らしい気がする。しかし、確かにそれがある。(「衆愚」と言えば、確かにちょっと嫌らしい気がするが、しかし確かにそれがあるだろうように)

例えば、私たちは消費生活上に於いてだっていつも正しい選択ができるとは限らない。「表面的なおいしさ」は持っているが、実は体に毒だったり、大して滋養がなかったりする食品を好きになることもあれば、悪い人の口車に乗ってインチキな商品を掴まされることもあるだろう。

信仰の問題も、単に「嗜好」の問題、「好きずき」の問題なのではない。「人生いろいろ、人それぞれ」というわけにはいかない。

それで、この場合、誰が複数の《選択肢》から正しいものを選ぶ能力がないかと云えば、現代に於いては司祭からしてそれがないのである。

そうではないか?
このように言う私は傲慢か?
でも、考えてみて欲しい。

当サイトでは、今まで幾つかの実例を通して、司祭に於ける実質的な、否、“実質的” という言葉を使う必要もないほど単純にそれそのものであるところの「聖書無視」を見て来た。

聖書を正直に読むならば、私たちはどうしても「愛と畏れ」の両方をもって神に対さなければならない。しかし現代の多くの司祭は、神は「愛だけ」であるかのように、それ故、私たちの側でも神に「裁きの側面」はほとんど見なくてもいいかのように説いているのである。

そのような司祭たちが、どうして「典礼」の問題に関してだけは《正しい選択》ができるというのか ???

「できる」と言うなら、それは寝言である。
そんなことはできない。それは「不可能」である。
「典礼」の問題と「信仰」の問題は密接な関係にあるのだから。

典礼学者はその方面の知識だけあればいいのか?
そんなことはない。
典礼学者が聖書の内容を素直に受けなかったらどうなる。

現代の信徒たちは次のように思っているかも知れない。

私たちは昔のカトリック信者よりも典礼に関して「より目が開かれて」いる。

何故なら、私たちは神父様方から教えられて、また書物から自習して、典礼の「多様性」を知るに至ったからだ。

歴史的に見て、それは決して「一様」でも「画一的」でもなかった。私たちは今やそれを知っている。

そして、第二バチカン公会議後に特有・顕著なこととして、色々な議論はあるとしても、私たちの目には「新しいミサ」と「インカルチュレーション」が入っている。

だから、このように色々な「検討対象」や「比較対象」を持っている私たちは、典礼に関して「目が豊か」になった。

もし日本の信徒の中にこのように考えている人があるとしたら、単純な、おめでたいことである。油断の多いことである。
司祭たちが上のようであるのに、信徒である自分にいっぱしの選択能力があると思わない方がいい。

最近、驚くべき記事を目にした。司祭らしい人のブログなのだが、こんなことを書いている。

「でもイエス様は優しい方で、そんなこと言いましたか? 愛と赦しの福音を説いたのではありませんか」。

確かにそうだし、それが最大のメッセージだとは思うが、イエス様は実は滅びと地獄について実はけっこう話しておられる。注意して福音を読んでみるといい。

神父の放言

「実はけっこう」だと ?????????????
「注意して」だと ?????????????
カ.. カ.. カ..(ぷるぷるぷる)カトリック信者というのは、このような促しを受けなければ聖書の中に明らかにあるものをごく普通に読み取ることさえできない人たちなのか ???   だとすれば、彼らは大概「霊的夢遊病者」であるほかはないだろう!

彼は「地獄について話す必要」を認めているようだから、まだいい方かも知れない。しかしそれでも、どこか空気が抜けている。

(酷い言い方だけど..)

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ