フィリピンの或るカトリック・グループのブログ記事を紹介します。各種強調と〔 〕は管理人による付加。
日本の或る磔刑像 2013年12月18日(水) ![]() Found in a chapel in Japan ministered by an SVD priest. 或るSVDの司祭によって管理されている日本の或る礼拝堂にあるもの。〔管理人注: SVD=神言修道会、神言会。Wiki〕 見ました? ![]() このこんがらがった針金が彼らの磔刑像です。そして彼らは御聖体の入った御聖櫃をこれの横に置くことを選びました。 これは今日の「現代的」な教会の中にしばしば見られる種類のものです。 ピオ12世教皇様は典礼に関する回勅『メディアトール・デイ』の中で次のようにお書きになっています。
このこんがらがった金属の中にどのような「神聖さ」が見て取れるというのか? 私たちは熟練したアーティストを欠いているのか? 或いは、これを作った「アーティスト」は、自分の作ったこれが「アート」である理由を見出そうとしているのか? 嘆かわしい! 私たちはこれを下のようなものと比べることさえ難しいのではないか? なぜ、私たちはそのようなぞっとする十字架を持っているのか? 私は推量することができるだけだが . . .
もし2だということならば、その時私たちはどうやって、司祭が神の大いなる愛について語ることを期待できるだろう? 司祭が、ただ私たちのためだけに〔御自分の落ち度からではなく〕神の子羊が舐めなければならなかった御苦しみについて述べることがないならば! Pedro Lorenzo Ruiz によって正午に投稿された |
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1 comment: Derrick CelsoFriday 2013年12月20日午後11時03分00秒(GMT+8) もし彼らが典礼に関する古事研究家でありたいなら、なぜ大罪を犯した信者に課されていた重くて公然たる償いを復活させないのか? なぜ教皇大聖グレゴリオの時代に行なわれていたような長くて入念な行列を復活させないのか? なぜその代わりに聖像破壊主義的な現代風の、品のない、ひどい、奇怪な、そして取るに足りない教会を造るのか? 私は、彼らは教会の古代の実践を復活させたくないのだと思う。彼らは心の内ではモダニストであって、古事研究を欲している典礼考古学者というのは装いに過ぎない。思うに、それが私たちの国と比べてカトリック信者が少ない日本が直面していることなのだろう。不幸なことに、私たちの国でも、モダニストたちが教会や修道会や神学校を完全に掌握している場所では同じ結果に直面しているように。 もう一つの事。もし彼らが、教会を造る時、威厳と美のある聖なるアートを依頼すれば高くつくと言うなら、それは嘘だ。例えば、聖ヴィビアナ大聖堂の修復のためには、彼らが今持っている体育館のようなカテドラルの建設と比べれば、ずっと僅かのコストしかかからなかった筈だ。現代的な教会と「アート」と称される作品の方が、高くついて不経済だ。特に、それらがそのアート・スタイルに於いて過去の諸世紀から断絶していても、現代の世俗世界で人気が高かった場合に。 私のことを言うならば、私はモダニスティックな典礼と環境のある平和な教会に行くよりも、むしろ一つの戦場へ行くこと、そのような教会のミサで祈ることの方が好きだ。醜い典礼を持った完全に現代的な教会に行くことよりも、寂れた教会のミサに行くことの方が好きだ。 以上です。私自身のブログで通常の事を言いまた書くよりも長い不平をここで言ってしまって御免なさい。 |