2014.12.08

『各司教協議会宛の書簡』も「妄語」から成る

 『各司教協議会宛の書簡』は「聞こえの良い言葉」で出来上がっています。そして、カトリック信者というのは特にこの「聞こえの良い言葉」というのに弱いのです。

2(…)このような準備教育によって、聖体におけるキリストの現存に関する信仰が、教会の意識の中で弱まってきたような印象は、どのような小さなものであってもそれを避けるようにし、さらに涜聖に陥る危険、あるいはそのように見えることはすべて排除するようにしてください。

 殊勝な勧告です。しかし、私達は「言葉」よりも「現実」を相手としなければなりません。何故なら、「言葉」とは詰まるところ「現実」のためにあるものだからです。

 上の「言葉」は、一方で「手による聖体拝領」の導入によって危険を増しておきながら、他方で「全ての危険を排除するようにして下さい」と言うのです。だからカトリック信者は、この「言葉」は「現実」との間で一つの「矛盾」を形成しているのではないか、と疑うべきなのです。

3 信者が聖体を手で受けて口に持っていくことができるということが、このパンを普通のパン、あるいは単に祝別されたものと同様にみなす機会にならないようにしなければなりません。かえって、聖体を手に受けて拝領できるということは、洗礼と聖体の秘跡の恵みによってキリストの神秘体の一員となった信者の尊厳をいっそう深く感じ取らせ、さらに自分の手で触れる主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強めるものとならなければなりません。尊敬の心は動作に比例するはずです。

 そもそも第一に、私には、信者が御聖体拝領の場でどうしてそんなに取り立てて「信者の尊厳」なるものを感じなければならないのかさっぱり分かりません。*

* たぶん、この背景には、「聖別された手だけが御聖体に触れることができる」という教えが「平信徒のキリスト者としての尊厳」を傷つけているかのように言う思想があるのでしょう。しかし、私は平信徒としての立場から「結構です、そんなに心配して頂かなくても。間に合ってます」と答えます。

 「主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強める」ことは確かに良いことです。しかし私には、「聖体を手に受けて拝領すること」がどうして「主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強める」ことになる(或いは、なり得る)のかさっぱり分かりません。

 「主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強める」ことは確かに良いことだし、しかもこの場合、「強めるものとならなければなりません」と「must」で結ばれていることによって如何にも《真摯》に響くのです。

 しかし、「言葉のマジック」に注意。言葉は自由に組み立てることができます。この種の言い回しは自由に作れます。

 例)

かえって、信者が自分の手で聖器から直接聖体を取ることは、洗礼と聖体の秘跡の恵みによってキリストの神秘体の一員となった信者の尊厳をいっそう深く感じ取らせ、さらに自分の手で触れる主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強めるものとならなければなりません。

 何だって可能です、「作文」は。「聞こえの良い言葉」は自由に作れます。しかし私達は「言葉」を超えて「現実的に良いもの」を見つけなければなりません。そのためには「現実」に厳しく目を向けなければなりません。*

* そうでなければ、失礼ながら糸永司教様のように、ふわふわふわふわと「言葉だけ」の世界に住むことになります。

4 拝領の具体的方法については、古代教会の伝統が伝えている方針に従うのがよいでしょう。司祭または助祭が、拝領者の手に聖体を置くという伝統的な方法は、司祭と助祭の奉仕の役割をはっきり表しているからです。

 「司祭が信者の手に聖体を置く」という方法は「司祭が信者の舌に御聖体を置く」という方法よりも「司祭と助祭の奉仕の役割をはっきり表わしている」、と言っていることになります。しかし私には、どうしてそのようなことになるのかさっぱり分かりません。

 それに、この『書簡』は当初は、上の文に続けて「しかし、私達はもっと簡単な方法を採用することもできます。それは、拝領者自身に聖器から直接に聖体を取らせることです」と言っていたのです参照。では、「司祭と助祭の奉仕の役割をはっきり表わす」ことは、大切なことだったのですか、そうでもなかったのですか。*

* 聞いてられない。つまり、「司祭と助祭の奉仕の役割をはっきり表わす(ため)」などという理由付けは最初から、彼らが彼らの目的のためにテキトーに “くっつけた” だけのものなのです。

結 論

 と云うわけで、この『書簡』もまた、カトリック信者として「精神が定かでない」人によって書かれたことは確実です。

 もっとはっきり言いましょう。

 どんなに真摯さ全開の言葉を並べようと、それは「かぶられた羊の衣」であって、この者が「聖体の小片に至るまで配慮すべしという教会の常なる教え」(メモリアーレ・ドミニ)を愛してなんぞいないことは、明々白々です。

 その「真摯さ全開」の部分は、彼の「文章詐欺」なのです。

Wolf in sheep's clothing

 世の神父様方、上の私の言葉を笑いますか。それほどまでに、あなた方は人間の心というものがお分かりにならないのですか。

 そして、何にせよ、もし神父様方が「御聖体」というものを「ほぼ象徴」のように思っているならば、何を言っても無駄であります。──やはり、これが全ての「根底」です。

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