2018.04.05

主日の義務 10

今回の一連の記事の中で、私はこの記事が一番大事と思う。いや、自画自賛していない。書いているのは、実質、私ではない。私は「紹介」しているだけだ。

「人間の実際」を見据えたところから来る知恵

私たちが教会に於ける「義務」や「掟」を考える上に於いて大いなる「ヒント」になるだろうものをここに置いておく。それは、尊者アグレダのマリア(1602–1665、en.wikipedia)が残した記録『神の神秘的な都市』の中の一節である。

その前に、とかく「色眼鏡」を掛けやすい人のために言っておく。「しかし、これは本当に聖母が言ったことかどうか分からないじゃないか」と、直ぐに言いやすい人のために。
その疑問は、勿論、どこかで言ってよい。しかし、直ぐに言ってはならない。反射的にそういう反応をしてはならない。何故なら──

邦訳版

私はこう考える。私たちがものを考える上に於いて「ヒント」を得ようとする時、この場合、『神の神秘的な都市』の中の「聖母の言葉」が本当に聖母の言葉かどうかの問題は、さして重要でない。「本当に聖母の言葉かどうか」の問題とは別に、もしそこに私たちの心を打ち知性を照らすものがあるなら、それはそれとして、それ自体として価値を持つ。その意味で、それを誰が言ったのであろうと構わぬ。地上の誰かが言ったものでもいいのである。
──そうではないか? これに同意頂けますか? 神父様方。

ごく短い一節だが、私は、ここには私たちの知性を照らすものがあると信ずる。

第二書・第二章

修道誓願に関して元后から与えられた教え

 私の愛すべき娘よ、私の説明を熱心に聞きなさい。賢人は言います、「私の息子よ、友だちと約束するならば、汝はその人につながり、自分の言葉の捕らわれの身となる」(箴言6・1-2)。神に誓う者は、自分の自由意志を縛り、自分を捧げた御方の意志と命令に従うことしかできない。自分自身の誓いの鎖に繋がれる。霊魂の亡びまたは救いは、自由意志の使い方にかかっています。大抵の人々は自由意志を悪用し、自分自身を堕落させたので、いと高き御方は誓願による修道生活を設けました。お陰で人間は自由を完全な賢明な選択に用いることにより、主にお返しすることができます。誓願により悪を行なう自由は消え、善行の自由が保証されます。くつわのように危険を避け、平らで確かな道へ導きます。情欲の奴隷や従属という境遇から解放され、情欲を支配する力も獲得し、自分の霊魂を治める女主人・女王としての地位に戻り、聖霊の恩寵と鼓吹の法にだけ従い続けます。聖霊が修道女の全機能に命令します。こうして人間は、奴隷の地位からいと高き御方の子供の立場へ、この世的生命から天使的生命へと移ります。全力全心を尽くして聖職の誓いを完うしようとする霊魂は、どのような祝福や宝を頂くかを汝は理解できないでしょう。聖務を時間正しく厳守する者たちは、殉教者と同じまたは、より以上の功徳を積みます。

『神の神秘的な都市』の翻訳者である甲斐先生は、ご自分の翻訳を「理解し易い平易な抄訳」と書いておられる。確かに、先生が底本とした G・J・ブラッター神父(Reverend George J. Blatter)による英訳を見ると、先生が「理解し易い平易な翻訳」を心掛けられたことが分かる。理解のためには先生の翻訳で十分であることを、私は認める。しかし私は、一応、ブラッター神父の英訳からの拙訳を、ここに置いておく。上と同じ箇所である。

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修道誓願に関して元后から与えられた教え

 私の親愛なる娘よ、私は、それを実践したいというあなたの願いに応えてあなたに教えることを拒もうとは思いません。しかし、実際に従う心の準備をして、感謝と敬虔の心をもって聞きなさい。賢者はこう言っています。「わが子よ、もしあなたがあなたの友のために保証人になるならば、あなたは自分で自分の手をその人にきつく結びつけたのであり、自分の口から出た言葉によって自分を縛ったのであり、自分自身の言葉の中に捕らわれの身になったのである」(箴言6:1-2)。ですから、このことを弁えなさい。神に誓いを立てた者は自分の意志を縛ったのであり、自分で自分を縛ったところの神の御意志と御命令に従うこと以外、いかなる自由も持たなくなるのです。誓いの中で自分の口から発した言葉によって鎖でつながれたのです。誓いを立てる前は、道の選択は自分の手の中にありました。しかし、ひとたび自分を縛り、自分に義務を負わせたならば、以降、その人は全面的に自由を失い、自分の上長の中の神に自分をすっかり渡してしまうのです。霊魂の亡びまたは救いは、ひとえに自由意志の使い方にかかっています。しかし、大抵の人はそれを悪用し、自分を堕落させてしまうので、神は、聖なる誓いのもとでの修道生活を設けられたのです。それにより人間は、自分の自由を完全で思慮深い選択に使うことによって、もし自分自身の選択の中に野放しにされたまま拘束されないでいたなら悪用したであろう自由を、神に渡してしまうことができるのです。

 それらの誓いによって、悪を行なう自由は幸いにも失われ、善を行なう自由が保証されます。それは、人を危険から遠ざけ、平らで確かな道に導く[くつわ]のようなものです。それにより霊魂は、情欲への隷属状態や従属状態を克服するための力を新たに得、そこから解放され、自身の王国を治める女主人または女王としてその場所を再開し、恵みの法と聖霊の声にのみ向き合う状態を続けるのです。もし彼女がそのように、自分の全ての意志を、自分が神に約束した全てのことの成就のためにひたすら捧げるなら、聖霊が彼女の全ての動きを治め導くでしょう。こうして人間は、隷属状態から至高者の子供としての状態へ、この世的生から天使的生へと移ります。自分が為した種々の誓いや誓願を完全に果たそうとして全ての力と愛をもって奮闘する者たちが、自分のためにどのような、またどれほど多くの恵みと宝を集めることになるかは、この世的生を送る人たちには決して計算も理解もできません。と云うのは、私の最愛の娘よ、私はあなたに保証しますが、自分の宗教的義務を完全に果たす者、それを厳守する者は、功徳に於いて、殉教者と同等であるか、或いはそれ以上であるからです。

このようなものを読み、よく考え直してみると、私たちの目に、現在の私たちの教会の中でほとんど常に「悪者扱い」されている感のある「義務」や「掟」について別の視界が開かれるだろう。否、「別の視界」と云うより「失われていた視界」である。それが「回復」されるだろう。現代の現代的な司祭たちの一見深そうで実は底の浅い(人間の現実を甘く見た)議論の煙幕によって曇らされていた私たちの視界が「正常に復す」だろう。

「一般信徒の世界」と「修道者の世界」は地続きである

現代の司祭たちの中には、誰かが「修道者の世界」に照らして「一般信徒の世界」について考えよう、何かヒントを得ようとすると、簡単にこう言う人が居るかも知れない。「いや、修道者の世界と一般信徒の世界は別だから」と。或いは、「修道者の世界は特殊・特別のものであって、一般信徒の世界にそのまま当て嵌めるわけにはいかない」と。

私も、確かに「そのまま当て嵌める」わけにはいかないと思う。
しかしまた、こう思う。「そうは云え、全く無関係とも言えない」

私は、それは当り前だと思う。全く無関係とも言えない。
何故なら、同じ信仰だから。そして、信仰の「目的」に於いて、修道者が「聖性の実現」* に激しく向かうものとするなら、一般信徒もまた、程度の差こそあれ、それに向かうべきだからである。

* 「聖性の実現」などと言うと、直ぐ、紋切り型に「自分の救いだけを考えているのか」という馬鹿げた反応が返って来る現在の愚かな教会環境ではあるが。

そして、その目的のために修道者にとって役立つものの中には、一般信徒にも役立つものがあって当り前だろうからである。例えば、本来修道者向けの本である聖イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』などは、一般信徒も多くの利益を得てきたものだろう。

それから、『神の神秘的な都市』の上の箇所には「誓い」とか「誓願」という言葉が出てきたが、これも私たちと全く無縁ではない。何故なら、私たちは「洗礼の約束」でこう言ったからである。

司   

あなた(がた)は、神の子の自由に生きるために罪のわざを退けますか。

答   

退けます。

司   

罪に支配されることがないように、悪を退けますか。

答   

退けます。

司   

神に反するすべてのものを退けますか。

答   

退けます。

これは別に、神に対する「お愛想」で言ったわけではないだろう。これは「約束」であり、「誓い」に近いものがあるだろう。

だから、私たちが『神の神秘的な都市』の上の一節を私たちの「主日の義務」に転用して考えることは、何らおかしくないどころか、これこそ必要なことであるだろう。

「もし自分自身の選択の中に野放しにされたまま
拘束されないでいたなら悪用したであろう自由」

『神の神秘的な都市』のこの指摘↑は、「自由」が含む危険な側面を教える「実際的な知恵」である。もしあなたが人間の「実際」(性情の弱さ、罪への傾き)をよく知っているなら、この指摘の重要性を理解するだろう。ところが、頭が「抽象的」になっている神父様方は、「自由」に関する現代の何やら深遠らしい論議によって、この当り前の重要性が分からなくなっているのである。

分かっている神父様方も居る。「人間の性情の弱さから来る危険」とそれを回避するために必要な一定の「拘束」の関係をよく分かっている神父様方である。彼らの言葉をもう一度見よう。

エンリケ・リベロ(Enrique Rivero)神父様

(1927-2000)

要理が教えるとおり、ミサに与る妨げが長期間続くならば、司祭と相談しなければなりません(カトリック要理「教会の第一の掟」参照)。なぜなら、長期間にわたってごミサに与れなければ、信仰、信心、霊的生活などは弱められるからです。この場合には、司祭は日曜日の代わりに、金曜日のごミサに与るよう勧めるでしょう(もし金曜日に都合が悪ければ、平日のミサに与る許可をするでしょうが、金曜日の方が望ましいです。なぜなら、そのミサには説教もあるからです。神さまのみことばを読まず、説教も長い間聞かなければ、だんだんとキリストのみ教えを忘れる可能性があるからです)。

主日の義務 4

今田健美(こんだ たけみ)神父様

(1910-1982)

 主日のつとめを捨てるのは、週日の生活全体を祝福からひき離して泥の中へ投げ込むに等しい。そんなクセがつけば、生涯が救いの道からはずれてしまう。それでなくても救いの道はせまくて、はずれやすいのだ。主日のつとめは、取り消されていない。取り消せと言うものがあれば文字どおりの「つまずきをもちこむもの」「ロバのひく石臼に首をかけ、海底に沈められるもの」になる。
 主日のミサにあずかるのをやめて、ゴルフや釣りのほかの何かに出かけるのが自由だろうか。あるいはフトンの中で寝ているのが自由だろうか。やっぱりそれはそういう何かの奴隷になっているものだ。永遠の命の道をちゃんと歩めることこそ真の自由だ。

今田健美神父様 4

 信者として、祈りの生活を営んでゆくには、信者個人個人が信仰生活の基準となる信心上の務めを重んじて、これを厳重に守ってゆくことが最も大切です。この土台が崩れてしまいますと、信者であっても有名無実なものとなってしまいます。

(…)

信仰生活と実際

 信者だからといって時には信仰に以前のような励みがなくなり、お祈りをしても何となくおもしろくなく、心からの祈りができないようなことがあるものです。自分でもこれでいいのだろうか、どうかして以前のように熱心になりたいと思いつつも、何とはなしに気が向きません。そして信仰以外のことに気が向いてしまっています。人間である以上、こういう状態になることがあるのも不思議ではありません。
 先週の日曜日は重大かつ正当な理由でミサにあずかれなかった。ところが今週の日曜日は大雨で、ひどく寒かったし、おまけに風邪気味だから用心して教会へ行くのはやめにしてしまった管理人注1。こういうふうになるとだんだん神と自分との間柄が疎遠になってゆきます。いつかこれを清算したいと思いつつも、なかなかその機会がやってこない。こんな例は特別に珍しいことではありません。

(…)

 ある人たちは、日曜日に一家そろってミサにあずからなくてはならないとは、何とカトリックはコチコチなんだろう、時には用事があったり、疲れたりして、教会に行きたくないことだってある、これでは人間の自由を束縛するものだと言います。しかしその人たちが、わざとイエズスの与えたもうた軌道にそって歩くのを嫌う時、必ず自分が何か外のものに束縛されているのに気がつかないのであります。

今田健美神父様 6

[管理人注1](既出の注)強力なインフルエンザや他の様々な感染症やら病原菌やらの脅威に怯え、神経質になっている現代の私たちは、「風邪気味だから用心して教会へ行くのはやめる」という判断を「軽い判断」の一例として挙げる今田神父様に戸惑うかも知れない。下手をすれば反感さえ持つかも知れない。しかし今田神父様のこの講義録は1947年頃のものであることに留意して欲しい。その頃の日本人は現代の私たちほど神経質でなかった。現代では、「人に風邪をうつす危険」を猛烈に警戒して教会に行くのを控えることも「可」かも知れない(個々のケースについては司祭に相談して欲しい)。しかし、現代の私たちにも「軽い理由」はあるだろう(単に「その気が起きないから」とか、その他いろいろ)。今田神父様の真意を汲み取って欲しい。戻る

今田神父様は上でこう言っておられた。

主日のつとめは、取り消されていない。取り消せと言うものがあれば文字どおりの「つまずきをもちこむもの」「ロバのひく石臼に首をかけ、海底に沈められるもの」になる。

岡田大司教様は「主日の義務を取り消せ」と言っているだろうか。私は「いや、彼はそうは言っていない」と優しく認めて差し上げよう。しかし彼は、あのような口調をもって主日の義務を「有名無実」のものにしている。それは確かである。

彼の口からも「義務」とか「掟」という言葉が出ることがあるかも知れない。しかし彼は、それらの言葉が人の心に対して本来持つ “力感” を大いに削いだ上でそうするだろう。「義務」は本来、やはり「べき(must)」の世界だが、それを「なるべく」に変えてしまうというような。

人は「廃止を叫ぶ」こととそのような “的舌” をもって「有名無実のものにする」ことの間にはどれほどの違いがあるのか、と考えてみなければならない。私自身は「実際上、違いなんかない」と思う。


上で引用した『神の神秘的な都市』の箇所の英語訳とスペイン語(原語)を掲げておく。

ブラッター神父による英語訳

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INSTRUCTION GIVEN BY THE QUEEN
CONCERNING RELIGIOUS VOWS.

My dear daughter, I will not deny thee the instruction thou askest of me with the desire of putting it into practice; but do thou receive it with an appreciative and devout mind, ready to follow it in deed. The wise man says “My son, if thou be surety for thy friend, thou hast engaged fast thy hand to a stranger, thou art ensnared with the words of thy mouth, and caught with thy own words” (Prov. 6, 1-2). Accordingly he who has made vows to God has bound his own will ; so that he has no freedom of acting except according to the will and direction of Him to whom he has bound himself; for he is chained down by the words of his own mouth uttered in the profession of his vows. Before taking his vows, the choice of his ways was in his own hands; but having once bound and obliged himself, let him know that he has entirely lost his liberty and had delivered himself up to God in his superiors. The whole ruin or salvation of souls depends upon the use of their free will; but since most men use it ill and damn themselves, the Most High has established religious life under the sacred vows. Thus the creature, by once using its liberty to make a perfect and prudent choice, can deliver up to his Majesty that very liberty, which so many pervert, if it remains free and unhampered in its choice.

By these vows the liberty to do evil is happily lost, and the liberty for doing good is assured. It is like a bridle, which leads away from danger and directs into the smooth and sure road. The soul is freed from the slavery and subjection of the passions, and acquires a new power over them, resuming her place as mistress and queen in the government of her kingdom and remaining subject only to the law of grace and the inspirations of the Holy Ghost. If she thus applies her whole will solely to the fulfillment of all that she has promised to God, the holy Spirit will govern and direct all her operations. The creature thereby passes from the condition and state of a slave to that of a child of the Most High, from an earthly to an angelic life, while the corruption and evil effects of sin cannot exert their full power. It is impossible that thou ever be able in this earthly life to calculate or comprehend, what and how many are the blessings and treasures those souls gather for themselves, who with all their powers and affection strive to fulfill perfectly the vows or their profession. For I assure thee, my dearest, that those who are perfect and punctual in their religious obligations can equal and even surpass the martyrs in merit.

スペイン語(原語)

Apariciones de Jesús y María  / Work of God, Word of God

De la doctrina que me dio la Reina del cielo
para los cuatro votos de mi profesión.

444. Hija y amiga mía, no quiero negarte la enseñanza que con deseo de ejecutarla me pides; pero recíbela con aprecio y ánimo devoto y pronto para obrarla. El Sabio dice (Prov., 6, 1-2): Hijo, si prometiste por tu amigo, tu mano clavaste acerca del extraño, con tu boca te ligaste, con tus palabras quedas atado. Conforme a esta verdad, quien a Dios ha hecho votos ha clavado la mano de la propia voluntad, para no quedar libre ni tener elección de otras obras fuera de aquellas para que se obligó según la voluntad y elección de aquel a quien queda obligado y atado con su misma boca y palabras de la profesión. Antes que hiciera los votos, en su mano estaba elegir el camino; pero habiéndose atado y obligado el alma religiosa, sepa que perdió totalmente su libertad y se la entregó a Dios en su Prelado. Toda la ruina o remedio de las almas consiste en el uso de su libertad; pero como los más usan mal de ella y se pierden, ordenó el Altísimo el estado fijo de las religiones mediante los votos, para que, usando de una vez la criatura de su libertad con perfecta y prudente elección, entregase a Su Majestad en aquel acto lo que con muchos perdiera, si quedara suelta y libre para querer y no querer.

445. Piérdese dichosamente con estos votos la libertad para lo malo y asegúrase para lo bueno, como con una rienda que desvía del peligro y adiestra por el camino llano y seguro; y pierde el alma la servidumbre y sujeción a sus propias pasiones y adquiere sobre ellas nuevo imperio, como señora y reina en el dominio de su república, y sólo queda subordinada a la gracia y movimientos del Espíritu Santo, que la gobernaría en sus operaciones si ella destinase toda su voluntad para sólo obrar aquello que prometió a Dios. Pasaría con esto la criatura del estado y ser de esclava a la excelente dignidad de hija del Altísimo y de la condición terrena a la angélica; y los defectos corruptibles y castigo del pecado no la tocarían de lleno. Y no es posible que en la vida mortal puedas alcanzar ni comprender cuáles y cuántos bienes y tesoros granjea el alma que se dispone con todas sus fuerzas y afectos a cumplir perfectamente con los votos de su profesión; porque te aseguro, carísima, que pueden las religiosas perfectas y puntuales llegar al mérito de los mártires, y aun excederles.

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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