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第二書・第二章

修道誓願に関して元后から与えられた教え。
聖母の神殿での初期の日々

 私の愛すべき娘よ、私の説明を熱心に聞きなさい。賢人は言います、「私の息子よ、友だちと約束するならば、汝はその人につながり、自分の言葉の捕らわれの身となる」(箴言6・1-2)。神に誓う者は、自分の自由意志を縛り、自分を捧げた御方の意志と命令に従うことしかできない。自分自身の誓いの鎖に繋がれる。霊魂の亡びまたは救いは、自由意志の使い方にかかっています。大抵の人々は自由意志を悪用し、自分自身を堕落させたので、いと高き御方は誓願による修道生活を設けました。お陰で人間は自由を完全な賢明な選択に用いることにより、主にお返しすることができます。誓願により悪を行なう自由は消え、善行の自由が保証されます。くつわのように危険を避け、平で確かな道へ導きます。情欲の奴隷や従属という境遇から解放され、情欲を支配する力も獲得し、自分の霊魂を治める女主人・女王としての地位に戻り、聖霊の恩寵と鼓吹の法にだけ従い続けます。聖霊が修道女の全機能に命令します。こうして人間は、奴隷の地位からいと高き御方の子供の立場へ、この世的生命から天使的生命へと移ります。全力全心を尽くして聖職の誓いを完うしようとする霊魂は、どのような祝福や宝を頂くかを汝は理解できないでしょう。聖務を時間正しく厳守する者たちは、殉教者と同じまたは、より以上の功徳を積みます。

 聖務の第一は、義務の時間を厳守することです。第二は、特権と呼ばれる自由な信心業を行なうことです。自由奉仕は普通あまり恩恵につながりませんが、修道女たちは熱心さと完全さに於て飛び抜けようと密かに望むのです。これは悪魔の企みによることで、結果は完徳の初めよりもはるかに手前の段階にしか過ぎません。第一の課された義務を遂行した上で、第二のそれ以外の徳行を積めば、汝の魂を美しくし、完全にするでしょう。

 従順の誓願は、自分の意志を放棄することです。自分自身を上長の手に委せます。自負心と自己主張を棄て、信仰と同じように上長の命令を批判せず、敬い、実行することです。自分の意見、生命、発言権は存在しないと考え、自分から動かず、上長の望みを行なう時だけ動かなければなりません。上長の命令を吟味したり、不賛成の言動を取ったりすることなく直ちに従いなさい。上長は神の代理であり、上長に従う者は神に従います。神は上長の理性を照らし、命令が修道者たちの救いのためになるようにします。上長に耳を傾ける者は神に耳を傾け、上長を拒む者は神を拒みます(ルカ10・16)。聞き従う人の言葉は勝利を話します(箴言21・28)。神は従順な者の過ちを審判の日に赦し、従順の犠牲を見て他の罪も赦します。私の至聖なる御子は、従順な者を特別に愛し、苦しみを受け、死にました。従順な者全員の成功と完徳のため特別な恩寵と特権を獲得しました。へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった(フィリッピ2・8)。主は永遠の御父にそのことを再び申し上げ、御父は従順な者たちの欠点を大目に見ておられます。

 清貧の徳は、この世の物を諦め、その重荷から解放されることです。霊魂を軽くし、人間の弱さから解放し、永遠な霊的祝福に向かって励む高貴な心の自由です。自主的清貧には他の諸徳がありますが、この世の人たちは地上の富を愛し、聖なる富める清貧に反対するので、諸徳を全く知りません。大地に自分たちを縛りつけ、金銀を採掘するため、自分たちを地中に陥れる富の重さに気づいていません。金銀を入手するために不安、不眠、労働、汗に苦しみ、何をしているのか知らないようです。富を入手するのにこれほど打ちのめされる一方、入手した後もっとたくさん苦しむのです。富の重荷と共に地獄に堕ちた人たちは数知れません。富の所有が霊魂を窒息させ、神と永遠の財貨を追う最も貴い特権を失わせる一方、他方で自主的清貧は人間の貴さを回復し、邪悪な奴隷状態から解放し、貴い自由を再び与えます。富を所有したくないとき富への欲望はなくなり、神の宝を蓄えることができます。世の中の物はいと高き御方により、我々の生命維持のために造られました。例えば、食物を入手して食べれば我々は生きていかれ、それ以上の食物を必要としません。食物や富を必要以上に欲しがるのは、しょっちゅうのことで、中止することがなくなる傾向にあります。手段と目的が混ぜこぜになる傾向もあります。しかも、我々の大事な生命もどれくらい続くか、いつ終わるか誰も知りません。

 貞潔の誓願は、身体と霊魂の純粋さをも誓願します。貞潔は簡単に失われます。ときには貞潔を失うまいとするのは難しく、失った後、回復するのは不可能です。この大きな徳は城に置かれ、城にはたくさんの門や穴があります。よく護らなければこの宝は失われます。失わないためには、五官を用いないという破れない契約が必要です。理由のあるときや創造主の光栄のためには、例外はあります。五官を殺すと汝の敵は手出しできなくなります。

 キリストの花嫁である者たち(修道女たち)には、いかなる徳も欠如すべきではありませんが、最も大事な徳は貞潔の徳です。この徳は修道女を霊化し、この世の腐敗から遠ざけ、天使的生命に近づけ、神御自身に似るようにします。この徳は他のあらゆる徳の飾りになります。私の御子が十字架の上で勝ち取った救世の特別な果実ですから、乙女たちが小羊に付き添い、お供した(黙示14・4)と聖書に書かれている通りです。

 隠遁の誓いは、愛徳や諸徳の囲壁になります。キリストの配偶者たちに天より与えられた特権です。世の中の危険な誉め言葉から遠ざけ、安全な港を与えてくれます。狭い場所に詰め込まれるのではなく、神の知識の広大な徳の野原にいるのです。修道女はこの野原で楽しみ喜ぶのです。神の知識と愛の頂上に向かって昇りなさい。そこには汝を押し込める所はなく、無限の自由があります。そこから被造物を眺めれば、どんなに小さく汚らしいかが判ります。いと高き御方は私に説明なさいました、「神人の母となられるべき御方の業は完全そのもので、全人類、全天使たちがいくら考えても理解できないものである。彼女の内的徳行は大変貴く、セラフィムができる全てに勝る。汝は理解できても言葉で言い表せない。この世の巡礼に於て至聖なるマリアを汝の喜びの第一番としなさい。人間的なもの、見えるもの全てを諦め棄てる荒れ野の旅の間、マリアについて行きなさい。汝の力と才能の限りを尽くしてマリアを模倣しなさい。マリアを導きの星、監督にしなさい。マリアは汝に我が意思を伝え、御手によってマリアの心に書かれた聖なる律法を見つけなさい。マリアが取り次によりキリストの人性という巌を打つ(民数20・11)と、恩寵と光の水がはとばしり出てきて、汝の乾きを癒し、理解を深め、意志を燃え立たせるであろう。マリアは汝の行く手を照らす火の柱(出エジプト13・21)であり、情欲の熱さや敵の猛攻に打ち勝つ陰と憩いを与える雲である。」

 「汝はマリアを通して、汝を護り、導き、バビロンやソドムの危険から救い出す一位の天使を受け取るであろう。マリアは汝を愛する母、相談相手、女主人、保護者、そして女王である。御独り子の母が神殿で修業した功徳の中に、最高で完全な生活の要約を見るであろう。すなわち、マリアの本当の姿、童貞の美、謙遜の愛らしさ、即座の献身と従順、堅固な信仰、確信ある希望、愛の火と御手の御業の表現を見るであろう。この規則に従い、汝の生活を整えなさい。この模範の鑑により、生活を飾りなさい。汝の配偶者なる主の部屋に入る花嫁の美と優雅さに付け加えられるべきである。」

 「先生の崇高性が生徒たちに拍車をかけ、教義を受入れ易くするとしたら、汝の配偶者の御母に勝る先生は他にいない。この崇高な女主人の言うことを聞きなさい。マリアをよく模倣しなさい。マリアの崇むべき諸徳を絶え間なく黙想しなさい。マリアの隠遁生活の言動は、マリアの後で修道院入りした者たち全員の模範である。」

 マリアの生活の具体的事柄を述べることにします。マリアを指導する祭司と先生は、上からの特別の啓示を得て、たった三歳になる子供を呼び出しました。天の王女は二人の前に平伏し続けました。立つように言われても平伏す許可を願いました。最高者の祭司と先生の義務と威厳の前に敬意を表したかったのです。祭司は語りかけました、「私の娘よ、とても幼い子供として主は汝を神の家に招きました。この恩恵を感謝し、真に、そして正しい心で一生懸命仕えなさい。諸徳を積み、この世の困難と危険に対して打ち勝てるよう準備して、この世に戻るように。アンナ先生の言うことをよく聞き、徳の甘美な軛を我慢し、この世でこれほど易しい軛はないと判るように。」 天の王女は答えました、「神の祭司として神殿を護る私の主人、そして私の女主人、どうぞ間違いをしないように私が何をすべきかを命令し、教えて下さい。全てに於てあなた方の言いつけを護ります。」 この天の王女に特別な世話をせよという、神からの啓示を祭司とアンナ先生は受けました。マリアの神秘については知らず、マリアの心中の動きと霊感について予想さえもできませんでした。祭司はマリアに仕事の規則を与えました、「私の娘よ、心からの尊敬と献身で主の名誉のための歌を歌いなさい。この神殿や神の民の生計のため、救世主の御来臨のため、いと高き御方にいつも祈りなさい。八時に就寝し、明け方に起き、第三時(午前九時)まで主を讃えなさい。九時から夕方まで手仕事、そして色々な仕事を覚えるように。日課の後で頂く食事を多く摂り過ぎないように。その後で先生の訓話を聞きなさい。残りの時間は聖書を読みなさい。全てに於て謙遜で愛想よく、先生の言いつけを護りなさい。」 祭司の言葉を聞きながら、至聖なるこの子供は跪いていました。祭司の祝福を願い、叶えられた後、祭司の手と先生の手に接吻し、神殿に於て自分に与えられた義務を果たすことを胸に刻みました。聖性の女主人であるマリアは、謙遜に自分の立場を保ちました。彼女の希望と熱愛は自身を多くの外的な行動に駆り立てました。これらは上長から命令されたものではありません。主の代理者の命令に心から従順でした。完徳の女主人である彼女は、神の御旨が他の諸徳の鼓吹よりも、謙遜な黙従の遂行であることを知っていました。従順に於て神の希望や喜びを知りますし、上長の言葉は神の言葉です。自分の興奮や気まぐれを追求すると、誘惑、盲目の情欲やだまかしに乗ぜられます。

 自分に課されていない仕事でも、我らの女王は他の少女たちよりも抜きん出ていました。全員に仕え、部屋を掃除したり、雑巾掛けをしたり、皿を洗ったりするのを先生に申し出ました。最も賤しい仕事をしたり、他の人たちの仕事までしたりしました。神殿の秘密や儀式については神から知らされていましたが、それを勉強したり、実行したりするのに熱心でした。儀式にあずかる時、どんな小さなことでも失敗しませんでした。人から軽蔑されることにも、自分で自身を批判することにも、大変熱心でした。毎朝毎晩、そして仕事を言いつけられるたびに、先生の祝福を願い、先生の手に接吻しました。恭しく先生の足にも接吻しました。他の少女たちに対しても尊敬と親切を尽くし、自分の女主人に接するかのように、自分自身を忘れました。自分の同僚である少女たちに尽くすため、賤しい仕事をするため、神意に添うため、どのような好機も失いませんでした。

 下の者が上の者に仕えるのは大きな徳であり、同じ地位の者に従うのは大きな謙遜であると、普通私たちは考えます。天地の元后が、女の中でも小さい人たちに全心を捧げるならば、困惑しない人はいるでしょうか? 従順の誓願をした者でも、神から任命された上長から我意を棄てよと言われると、どれほど困るでしょうか? 何回か従順であったら、自分は従順なのだという思い込みを棄てなさい。全ての人よりも偉大なマリアは、自分の同僚よりも劣っていると考えたのです。

 私たちの元后の美しさ、上品、優雅、礼儀は他の人たちとは比べものになりません。自然と超自然の賜物が組み合わされています。マリアと話しをする人たちが感じた愛情は、神により、ほどほどに表現するように抑えられています。

 元后は寝食を過度に摂らないようにしたばかりでなく、減らそうとしました。しかも、上長に従い、定刻に就寝し、質素な長椅子でセラフィムや守護の天使に囲まれて、もっと高い黙想やもっと強い愛の恍惚を楽しみました。

 元后は時間割を作り、賢明に仕事の割り振りをしました。昔の聖なる書物を読み、天から教えられ、深遠な秘儀をよく知っていました。聖天使たちと談議し、比べものにならない知能と鋭さで天使たちに質問しました。元后が勉強したことを書いたならば、聖書はもっと大部になったでしょう。私たちは聖書を完全に理解できたでしょう。

元后の御言葉

 私の娘よ、人性は不完全で、注意深くなく、徳行を怠ります。人間はいつも休もうとし、仕事をしないようにします。霊魂が肉体の言うことを聞くと、肉体に支配され、肉体の奴隷になるでしょう。この秩序の欠損は嫌悪すべきことであり、神の最も嫌われることです。人間は霊戦に於て不注意で、しばしば負けると身動きできなくなり(脳卒中患者のように)、偽の保証を勝手に作り上げ、易しい徳行をするだけで過信するのです。悪魔たちは他の誘惑もしてきます。自信過剰にさせ、真の徳を見失わせます。この過ちに陥らないように私は切望します。一つの不完全さに不注意であると、他の諸欠点も出てきます。小罪を犯すようになり、小罪は大罪へと汝を導くことになります。奈落の底に落ち込みます。この不幸に遭わないために、聖務や秘跡(祭式)に参加しなさい。どんな小さな聖務でも、悪魔を寄せつけない要塞となります。要塞がないと悪魔は内部に侵入し、霊魂を滅ぼそうとします。聖寵の力なしには、霊魂は悪行や悪習慣で弱くなり、堅忍を失い、悪魔に抵抗できなくなります。

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