このページは、OCRで読み取った後、
一回だけ校正しました。

第二書・第三章

信徳について
至聖なるマリアがどのように実行されたか

 徳行の美しさと均衡について聖マリアは啓示を受け、いと高き善に捧げられていたので、徳をいつも忘れることなく、喜びながらすぐに行ないました。このことは私たちの理解を越えるのですが、一つ判ることは、聖マリアは全被造物よりももっと素晴らしい美であり、神御自身の次に位置することです。聖マリアの完全さには欠けることがありません。神より頂いた諸徳の他、聖マリアは実践により諸徳を獲得しました。私たち人間は、何回も良い行為をした後、一つの徳を得るのですが、聖マリアの一つ一つの行為は完璧で、私たち全員の諸徳よりも優れています。聖マリアの行為の目的は神御自身です。主なる神の御光栄を少しでも増やせるかどうか、はっきりしない行為は何一つしませんでした。

 神から頂く諸徳には二種類あります。第一は、神を直接の目的とし、対神徳と呼ばれる信徳、望徳と愛徳です。第二は、その他の全ての徳で、神に向かうための手段を与える徳です。道徳的諸徳と呼ばれる四つの枢要徳である賢慮、正義、堅忍と節制に集約されます。これら全ての徳は、聖マリアに於て完全で、聖霊の賜物により強化されています。聖マリアの御孕りの時から、神は御与えになったのですが、それに加えて、聖マリアは御自身の功徳ある行為により、諸徳を更に育て上げました。

 聖エリザベトは聖マリアの信仰の偉大さを歌いあげました、「幸いなるかな、御身の信仰よ、主の御言葉と御約束は御身に於て成就せり」(ルカ1・45)。聖マリアの信仰は神の御力の姿です。我々の信仰の不足を補います。

 諸国民が信仰の祝福を失った歴史も思い出しましょう。自分たちが資格がないのに、頂いた信仰をないがしろにしたので、この嘆くべき損失を回復するため、少なくとも一人の人間が信仰の徳を完成し、全人類の模範となることが必要でした。聖マリアは信徳の本来の姿を完全に修得したので、全人類が各自の信徳を測る物差しとなりました。聖マリアは祭司長、預言者、使徒、殉教者や世の終わりまでキリストの教義を信じる者たちを初めとし、全人類の先生です。

 聖マリアは信じたこと全てを知っていましたし、知っていたこと全てを信じました。信仰の神秘が信頼されるべきことを神から教えられ、この信用を完全に理解していました。聖マリアの知識はいつも現実でした。一度覚えたことを決して忘れませんでした。理解の賜物は深い信仰の絶えざる実践につながりました。聖マリアの信仰と愛は、全天使たちや諸聖人のそれよりも優っていました。聖マリアが神により、神の直視と認識を与えられたことは天使たちにも理解できないのですから、地上の人間は、完全な信徳を得た天上の聖マリアから信徳の価値について教わりたくなるでしょう。不信者、異端者、異教者や偶像崇拝者が聖マリアの所に来て、自分たちの間違いに気づき、人生の目的に達する道を発見しますように。カトリック教徒も、使徒たちと共に信仰を深めますように(ルカ7・5)。聖マリアの信仰に到達できませんが、聖マリアを見習う望みを起こしますように。

 太祖アブラハムは全信者の父です。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されていた通りに多くの民の父となりました(ロマ4・17-18)アブラハムの妻は、医学上、妊娠できない体でしたし、高齢に達していたにも関わらず、主は御約束通り独り息子イサクをお与えになりました。この大事な独り息子をいけにえに捧げよと言う神の命令にアブラハムは従う信仰がありました。この信仰により、アブラハムは全信者の父となり、信仰のしるしである割礼を受けたのです。

 アブラハムの称号よりももっと偉大な称号である「信仰の御母」と「全信者の御母」が聖マリアに与えられています。聖マリアの信仰と威厳は、アブラハム以上です。処女懐妊と出産は、高齢・不妊者による出産よりも、もっと理解しにくいです。アブラハムはイサクをいけにえにすることに確信はありませんでしたが、聖マリアは至聖なる御子が必ずいけにえになることを確信していました。聖マリアは全教会がいと高き御方を信じ、救いの御業を信ずべきことを示します。我らの救い主にして先生であるキリストは、聖マリアを御自分の教会の信仰の共同創立者、教会の母の模範に任命しました。最後の審判に於て、御母がキリストを信じなかった人たちを審判する副裁判官になることを決められました。

元后の御言葉

 私の娘よ、世の中が偉人、権力者、賢者として誉めそやす人たちの中で、どれほど多くの人々が信仰の光を持たず、不信の暗闇から最も憎むべき罪の中に、そして地獄の永遠の暗黒の中に落ちて行ったでしょうか? どんなに多くの国々が盲目であり、盲目の指導者の後について永遠の苦しみの地獄の底に落ち込んだことでしょう。信仰の恩寵と祝福を受け取ったのに、なくしてしまった悪いキリスト信者は、これら不信心者のお供をしているのです。

 私の親愛なる友よ、主の聖なる教会の花嫁の部屋に入り、後に主の永遠の祝福を頂くため、汝に下さった持参金と結婚の賜物としてのこの宝石について感謝しなさい。信仰の徳をいつも積みなさい。信徳は汝が目指している最終目的に汝を近づけるでしょう。信仰は永遠の救いに至る確かな道を教えます。この巡礼中の闇を照らす光です。不信と罪によって光が消えることがないように。信仰はあらゆることを可能にします。信仰は、人間の知力では全く判らないことを、誤ることのない確実さで私たちに理解させます。自分の限りある知力だけを頼みとする者の狭い了見から解放します。自分の感覚を使って獲得した知識に閉じ込められることから解放します。私の娘よ、神が与えて下さったカトリック信仰の測り知れない宝を大切にしなさい。

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ