2018.03.19

今田健美(こんだ たけみ)神父様 4

前々回前回に続き、今田健美神父様著『鳩と蛇の語らい』(中央出版社、1980年、絶版、amazon)から転載する。

p.355~

教会と民主主義

今田健美神父様

(1910-1982)

 せっかくの民主主義、自由主義もはきちがえればダメになる、ダメまでいかなくても育ちが悪くなる。新しいものだからはきちがいが生じやすいのは、ある程度仕方がないとも言える。

 日本は、新しい民主主義が伸び悩んでいる状態にあるようだし、こういう時にはまた、多かれ少なかれはきちがえのまま得意になって振り回す傾向も強い。教会内にはきちがえたままの民主主義、自由主義を持ちこまれるとまったく閉口だ。はきちがえていなくても、民主主義を持ちこむこと自体が、お門ちがいだろう。

 たとえば、「今では特定の牧者はいらない。羊の群れなんてとんでもない。教会ではだれもが平等で、対等で、何事も協議してやっていけばいい」「信仰は自由だから、主日のつとめは守りたいときに守りたい人が守ればいい。だれもそれに縛られることはない」。管理人注1

 何を血迷ってか、こんなことになってある人々は得意になり、ある人々は心配で胸がつぶれそうだ。時代によって、現象的にはいろいろびっくりするようなこともおこるが、教会はキリストによって建てられ、聖霊に導かれているから大丈夫だといって、手をこまねいているのはどうだろう。もっともな言い草のように聞こえるけれども、そんなわけのものではない。

 教会は世の終わりまで戦い抜くのだ、戦う教会に属していながら、のんびりしていられるものか。人間がよりより協議して救いが得られるくらいなら、キリストは神の権威のもとにおかれる教会を建てる必要はなかった。

 キリストは宣教の初めから教会を建てることに着手なさった。弟子たちを選び、教育なさった。そして後に、ご自分の救いの働き、誤りなく福音を教えること、羊の群れを牧すること、み名を信じてよりたのむ人々の罪をゆるして、永遠の命につなげるために十字架のいけにえの継続であるミサを行なうことをお命じになった。

 それを忘れて牧者がいらないとは何事か。また牧者に立てられながら、世人の鼻息をうかがって言うべきことも言えないとはなんたることか。やたらに民主主義などを持ちこもうとするからそんなことになる。

 教会はもともと民主主義よりも民主主義の長所をそなえている。ペトロもほかの使徒たちも、貴族でもなければ、帝王や金権主義者などではない。大衆の中から選ばれた。素質や能力においてもっとすぐれた人々がほかにいなかったために、かれらが選ばれたとは思われない。世の勢力や才能に神の力を思い知らせるかのように、むしろ凡庸な人々が選ばれたというべきだ。

 だが選ばれ、聖別されたとなるとキリストの道具となり、その権威をおびる牧者である。キリストと一体だからかれらを無視すれば、キリストを無視したことになる。

 羊の群れは、使徒とその後継者の苗床であり、母体でもある。そこが民主主義との相似点だ。民の指導者が民の中から選ばれる。ちがうのは、選ばれたものが聖別派遣されれば、キリストの権威のもとにおかれることだ。使徒の中にも脱落者ユダがいた。ユダにも後継者がいると言えるような不幸もまま起きる。しかし、キリストの約束がある。全体としては、あらゆる時代の苦闘の果てに勝利を得る。教会自身のために民主主義を採用するなどはお門ちがいもはなはだしい。羊の群れに属しながら、教会の掟を勝手に捨てたり、破ったりすることが自由だと思うのは、ヤミ夜に明かりをもちながら目をつぶって駆けだすようなものだ。

 主日のつとめを捨てるのは、週日の生活全体を祝福からひき離して泥の中へ投げ込むに等しい。そんなクセがつけば、生涯が救いの道からはずれてしまう。それでなくても救いの道はせまくて、はずれやすいのだ。主日のつとめは、取り消されていない。取り消せと言うものがあれば文字どおりの「つまずきをもちこむもの」「ロバのひく石臼に首をかけ、海底に沈められるもの」になる。

 主日のミサにあずかるのをやめて、ゴルフや釣りのほかの何かに出かけるのが自由だろうか。あるいはフトンの中で寝ているのが自由だろうか。やっぱりそれはそういう何かの奴隷になっているものだ。永遠の命の道をちゃんと歩めることこそ真の自由だ。

[管理人注1] 現在の教会にはこれほど極端な言い方は見られない。しかし、今田神父様がこの御文章をお書きになったのは1970年代である。その頃、教会の一部にそんな極端な傾向があったのかも知れない。
そして、今田神父様が例示したような極端な言い方こそないにせよ、それと似た傾向が現在の教会にも十分に「染みて」いるのは、皆さん御存知の通り。戻る

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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